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この手を引くのは貴方ですか

作者: 雪村 竜胆

 私の人生、こうなるはずじゃなかった。ちゃんと勉強して、大学を卒業して企業に就職するというプランは出来上がっていた。それなのに大学は途中でやめて変なところで働いている。

 こんなはずじゃない。こんなはずじゃないんだ。これはきっと悪い夢。目が覚めればきっとあの日に戻っている。私の人生がくるってしまう一日前に。


「おーい。春花さーん。こっち来て手伝ってもらえるかい?」

 鏡の前で身支度をしていると下の階から私を呼ぶ声が聞こえてくるとぐるぐると頭を巡っていた考え事が遮断される。

 ああ、面倒くさい。きっとまたくだらない頼み事でもされるんだろうな。なんて思うけれど、雇ってもらっているから言うことを聞くことしかない。

 こんなところ、いつか辞めてやると思ってはや4年。退職届はもうすでに用意している。けれど、いつもやめるタイミングをいつもつかめずにここまできてしまった。


 今日も変な依頼が来るに違いない。ため息をつきながら一階へ降りていく。

「もう。春花さんはいつもお寝坊さんだね」

 笑いながら私を見ているのはこの店の店主兼恩人とでも言っておこうか。彼のことはよく知らない。今までどんなことをしてきたのか、今どうしてこんなことをしているのか。一緒に居ることがほとんどなのにお互いに知らないことだらけだ。

 けれど、干渉されるのが好きではない私にとってこの距離感は居心地が良かった。だから、こんなに一緒に居ても嫌にはならないのだ。

 彼について知っていることと言えば吉野陽介、二十九歳。出身は日本で、人使いの荒い人ということくらいだろうか。丸眼鏡の奥の優し瞳は初めて見た日から変わらない。そして、なぜか髪型も変わらない。とてつもないほどのこだわりがあるのだろう。真っ黒な髪は誰かに似ている気がした。

 たいして人に興味のない私にとっては、結構知っている方だ。興味のない人なんて顔も名前もすぐに忘れてしまう。そのせいで、私の記憶からはもう数十人も超える人が消えていった。そんな私が、吉野について知っているのは驚くべきことだと思う。


 吉野が居れたコーヒーは今まで飲んだ中で一番美味しかった。彼は毎朝私の分のコーヒーも淹れてくれる。お礼を言い湯気の立つカップを受け取った後、書類に目を通す。

「そういば、最近依頼来ませんね」

「そうだね。まあ、その方が平和だからいいね」

 コーヒーを飲みながらのんきに座っている。確かにそうだけど、仕事がないのは結構暇だ。することがないといろいろと考えてしまう。

  だから、何もすることがない時間はひたすらこの事務所の掃除をしていた。おかげで散らかり放題だった店内は見違えるほどピカピカになったのに、収集癖のある吉野のせいですぐに散らかってしまう。

 彼はカメラが好きだった。いろいろなところから買い付けて、組み立てて飾るのが趣味らしい。特に使うわけでもないのにただ手入れして眺めるの繰り返しだ。


 私にはいったい何が楽しいのか分からない。そして、今日も新しい仲間を持ってきたみたいだ。

「また、買ってきたんですか?」

 箒を片手に呆れながら問うと「違うんだよ」と否定するがそろそろ置き場所がなくなってきたので勘弁してほしい。その手に抱えていたのは大きな段ボールで、カメラにしては大きすぎる。一体どういうことなのか説明してもらわなければ。

「これは、今日の依頼があったものなんだ」

「どういうことですか?さっき、平和なことは良いことだって言ったばかりじゃないですか」

「すっかり忘れていたんだ」

 少しいらだちを含んだ言い方をしたのにあっけらかんとしている。全くこの人は。適当にもほどがある。引き受けた依頼を忘れてしまうなんて。


  ここでは、自分がしっかりしていないとすぐにおいて行かれてしまう。そう思っているのにいつも吉野のペースに流されてしまうのだ。

「このカメラは、明治時代に作られた貴重なカメラなんだ。でも、このカメラで撮ったものは全て消えてしまうという恐怖のカメラさ」

 なにそれ。怖すぎるんだけど。鳥肌が立ち両腕で自分の体をさすっている私とは反対に彼はいきいきとしている。きっとカメラに関することだから何も考えずに引き受けてしまったのだろう。

  そんなカメラなんかと関わりたくないのに。もし、間違えてそのカメラに写ってしまったらどうなるんだろう。そんなこと考えたくもない。

「そんなもの引き受けないでくださいよ。私、嫌ですよ」

「そんなこと言わないで。どんなに小さなことでも不思議なことなら何でも引き受ける。これがうちの売りなんだから」

 そう、私が働いているのは町の不思議を解決する何でも屋さんなのだ。常識では解決出来ないような不思議な現象が起き居た時に街の人々はここに訪れる。

  それならまだいいんだが、猫がいなくなったから探してくれとか、家具が壊れたからな修理してくれとか。吉野が全部引き受けてしまうものだから、くだらないことを依頼してくる人も多かった。だけど、今回の件は本物のようだ。


 依頼してきたのは、この町で有名なお金持ちの男性だ。その息子がやんちゃボーイなので、結構手を焼いているという噂だっだ。

 その男性は礼儀正しい様子で名は有村。彼は先日、蔵の整理をしていたらこのカメラを見つけたそうだ。その近くには昔撮った写真がたくさんあった。そして、そこにはたくさんの景色が写されており懐かしくなって見返していた。

 すると数日後、その写真に写った花壇が無くなってしまったのだという。最初は誰かの悪いいたずらだと思い気にしていなかったが、その後にも写っていたものも次々と消えていったそうだ。それで、慌ててここに来たのが昨日の話。

 そして、依頼を引き受けた吉野のもとにこのカメラが今日届いた。なぜ私がいなかったのかというと、ちょうど買い出しに行っている時だった。吉野に頼まれていた工具を買いに行っていた。

 それなのに、彼は依頼の話なんて一言もしなかった。いくら忘れていたにしても、カメラの手入れをしているのなら思い出しはしないのだろうか。


 まったく、問題を解決するのは私なんだからちゃんと情報は渡してほしい。そんなことを思いながら少しんでみるが効果はない。

「撮った写真を借りた。きっと、この中からまた何か無くなると思うから見張りに行って」

 出たよ。丸投げ大作戦。勝手に依頼を引き受けてはそのまま私にパス。どうにかならないものかな。もう慣れてはきたがやはりつらい。

 一人で張り込みなんて体力が持たない。ただでさえ運動不足なのだから、一日中張り込みなんてできる気がしない。というか絶対に出来ない。

 よし、今日こそは退職届を出してやろう。そっと懐に忍ばせてあった封筒を取り出そうとした時、「そういえば」と吉野が思い出したように言う。

「この前知ったんだけどさ、あそこの有名な寿司屋さんで友達が働いてて招待されたんだ。春花さん、一緒に行かない?」

 あの寿司屋さんだと。なかなか予約の取れないあのお店のお寿司が食べられるの。いや、だめだ。これは吉野の甘い罠だ。分かってる。


 三度の飯が何よりも好きな私にとってこんなに嬉しいことはない。どうする、春花。この機会を逃せばあの店のお寿司を味わうことが出来ないかもしれない。

 でも、逃げることが出来るのもこの機会だ。逃せば私はまたやめるタイミングを失う。どうする。二つに一つ。今、選ばなければ。

「分かりましたよ。やればいいんでしょ」

 ああ、引き受けてしまった。でも、こんなのお寿司に比べればなんともない。最近は心から美味しいと思えるものに出会っていない。だから、久しぶりに心躍るようなものを食べたい。

 満足げに笑っている彼を少しだけ睨んで準備に取り掛かった。


 必要なものは防寒具だろう。春が近づいてきてはいたが夜になるとまだ、肌寒い風が吹いてくる。ひざ掛けと、あったかいスープを水筒に入れておこう。

 食べ物はコンビニで買うとして、こんなものでいいか。リュックには懐中電灯と小さめの椅子、あと例の写真を入れた。


 別に怖くはないけれど、一応塩も入れておこう。思ったほど荷物は少なかった。まあ、戻ろうと思えばすぐに帰れる距離だし必要なものがあれば吉野を使うくらいゆるされるだろう。

「じゃあ、行ってきます」

「気を付けて」

 ひらひらと手を振る彼の様子に少しむすっとしてしまったけれど、私のことを心配してくれているのだろう。だって机の上には大きなお弁当箱が置いてある。

 こんな短時間に用意するなんていったいどんな早業を使ったんだか。仕事でもこんなふうにしてくれたらいいのに。そんなこと言ってもしょうがない。とにかくこの仕事を早く終わらせてご褒美をもらおう。



 依頼された有村宅についた。やっぱり、噂で聞いていた通り大きな家だ。こんな家に住むにはどれくらいのお金が必要なんだろう。私なんかが一生働いても買えないくらい高いんだろうな。そんなことを思いながら家を一周してみる。こんな高い塀の中によじ登って忍び込むのは至難の業だろう。子供のいたずらではなさそうだ。だとしたら、有村さんに何らかの嫌がらせをする輩だろうか。それともただの泥棒。でも、写真に写ったものが無くなっていくのはひっかるところだな。やっぱり本当に幽霊の仕業なのかな。

 一周したところで玄関の前に戻ってきた。とりあえず、挨拶しておこう。チャイムを鳴らす前に大きな扉が開いた。

「北村奈々子様ですか?」

「ええっと。はい。そうです」

 執事かな。黒いスーツをしっかり着込んで微動だにしない様子にたじろいでしまう。

「お待ちしておりました。中へどうぞ」

 促されるまま、中に入ると噴水やブランコ、白いロイヤルなテーブルとイス。まるで外国に来たような感覚になった。まあ、外国になんか行ったことないのだけれど。そういえば、どうして家の中に招待されているのだろう。ちょっと挨拶して外に張り込むつもりだったのに。

 いつの間にか広間に案内され、食事を一緒に食べていた。さすが料理人が作っただけある。でも、吉野が作ってくれたお弁当があるのに。お弁当を入れたリュックを見ると、少し胸が痛くなった。

「北村さん。こんなこと引き受けてくださってありがとうございます」

「いいえ。仕事ですのでお気になさらず」

 引き受けたのは私ではないという言葉は言わないで置いた。どこか元気のないように見えるのは気のせいだろうか。こんなにも美味しい食事が喉を通らないなんてよっぽどだ。私なんかすでに完食している。


 原因を早く突き止めなければ。少しだけ話をして見張るのに一番いい位置を探そう。家の中には監視カメラはないが執事がしっかりと施錠をしているみたいだ。そのおかげか家の中のものは無くなっていないようだ。やっぱり、外の坂から見るのが一番よさそうだ。


 それにしても寒いな。やっぱりもっと防寒具持ってこればよかった。リュックの中を探っていると、箱が手にあたった。そうだ、吉野が作ってくれたお弁当まだ食べてなかった。せっかく作ってくれたものは残したくなかった。夏場じゃないしきっと食べても大丈夫だろう。

 包みを開き、顔路を確認する。まだ美味しそうな香りがする。口に運ぼうとすると声がかかった。

「そんなもの食べたら張り込みできなくなるよ」

 振り返った先には同じような箱を持っている吉野が立っていた。

「夕飯持ってきたよ」

 そう言って笑う吉野の髪は風に揺れていた。少しだけ目が隠れているその姿に、どうしようもなく胸が締め付けられた。どうしてこんな気持ちになるのか理由は分からない。でも、嫌でもあの人のことを思い出してしまう。どこか懐かしく思うのはきっとこの風のせい。今はそうしておこう。

「ごめんなさい。せっかく作ってくれてたのに」

 ちゃんと食べるつもりだった。だけど、やっぱり時間がたちすぎてしまっていただろうか。吉野がせっかく私のために作ってくれたのに。私はひどいことをした。それなのにまた新しいお弁当を持ってきてくれた吉野になんて言えばいいのだろう。

「そんな顔しないで。食べようとしてくれた気持ちが嬉しいから」

 そんなこと言われても自分が許せない。例え吉野がいいって言ってくれてもこんな私が吉野のお弁当食べる資格ない。しょんぼりしてるとふわっと頭に手が置かれる。顔を上げるといつもと同じ変わらない顔で微笑んでくれる吉野が映る。なぜ吉野はいつも笑っているのだろう。

「断れなった君の優しさも知ってる」

 優しくそういうものだから、なんだか泣きそうになった。


 吉野と出会ってすぐのころ、私は吉野に酷いことを言った。それなのに悲しそうな顔をしながら笑っていた。笑うって結構苦しいことだと思う。それなのいつも微笑みを絶やさないその姿はばかばかしく思えた。 

 どうしてそんなに無理に笑おうとするのだろう。ちゃんと笑えてないくせに無理やり笑顔を作るんだろうって。でも、少しだけ羨ましいと思っている自分がいた。だから、その笑顔を見ると苦しくなる。吉野の優しさに押しつぶされそうになってしまうのだ。


 その優しさにいつも守られていると感じる。彼の優しさはごく自然に渡されるものだから、目を凝らさないと気付けない。これまでどれほど見逃してきたのだろう。

「ご飯の時間にしよう」

 そう言って私の隣に腰を下ろす。お弁当の包みを開けるとそこにはちゃんと2人分のご飯が入っていた。てっきりお弁当だけ渡されて、そのまま帰ってしまうのだと思っていた。

 でもそれは違った。吉野はきっと私と最初から一緒に食べるつもりでこれを持ってきてくれたんだ。

「ほら、早く食べないとまた食べられなくなるよ」

 皮肉っぽく言うけれど、その声には嫌な感じは全く含まれていなかった。

「なにか手がかりは見つかった?」

「いえ、まだ何も」

 ここで見張りながら数時間考えていたけれど、全くどういうことなのか見当もつかなかった。何の目的でこんなことをしているのか。どうして、この家が狙われたのか。お金持ちの家を狙うのならもっと高価なものを盗むはずだ。なのにそうしない犯人の狙いは何なのだろうか。考えても分からないのでとにかく犯人が来るのを待って捕まえてみようと思っていた。もし、犯人が現れなかったら幽霊の仕業として塩を撒こうと思う。このことを吉野に話すと案の定笑われた。

「春花さんは逞しいな」

「だって、こうするしか解決方法は見つからなくて」

「確かにそれが一番早い方法かもね。でも、危険だってことは分かっているよね」

「分かってますけど、そうしないと有村さんが……」

 早く解決してあげないと。元気のない様子を見てからそればかり考えていた。なぜかわからないけれど、私が助けなければと、どこから来たのか分からない責任感を持ってしまっていた。

「優しいね」

 吉野はそう言ってくれるけれどそうじゃない。私は優しくなんかない。私がこうするのは自分の居場所を確保するため。自分が役に立つってことを証明しないとここには居られない。まだここに居たいなら頑張るしかないんだ。


 ずっと張り込んでいたけれど何も変化はなかった。怪しい人物も変な現象も起こっていない。見張りは吉野に任せて私はもう一度何かヒントになるものはないかと写真を見ていると違和感を感じた。大したことではないようなことだと思ったが何かにつながるかもしれない。

「吉野さん。写真ってこれで全部ですか?」

「持ってきてもらったものは春花さんにわたしたよ」

「どうかした?」

「足りないような気がして」

 渡された写真には庭にあるものや家の中にあるものが写っている。これは、有村さんが昔このカメラを見つけた時に練習として撮ったのだと聞いた。だから、そこにあるのは家にあるものばかり。でも、足りないものがあった。

 それは、ブランコだった。入ってきたときに見たから覚えている。それに案内してくれた執事に聞いたところ、この庭にあるものは全部家が建てられた時にはそろっていたと言っていた。だから、この写真の中にブランコが無いのは不自然だ。もしかして有村は何かを隠しているのだろうか。

「明日、有村さんに確認してみよう」

「そうですね」

 少し眠たくなってきてしまった。眠気を覚ますように立ち上がったとき、庭に怪し人影が見えた。吉野の方を見ると、彼も気づいたようだ。

 有村に合鍵を借りていたので家を囲んでいる塀の裏口から入って様子を伺うと、その人物は庭にある大きな銅像の近くに居る。こんなにもあっさり見つかるとは思っていなかっただけに犯人を捕まえるのに役に立ちそうなものは何も持っていなかった。


 力ずくで行こうにも相手は男性のようだったから、勝ち目は少ないだろう。だったら吉野に頼めばいいと思うかもしれないけれど、それは無理だろう。お世辞にも体格がいいとは負えない。背は高いが細身の体ではこれまた勝ち目はなさそうだ。もとより吉野は自分で何とかしようとは思っていないはず。

 仕方ない。私が行くしかない。そう腹を決めた時、吉野が動いた。たまにはやる気を見せることもあるのだと思ったが、違ったようだ。

「君、もしかして翔太君かな?」

 翔太と呼ばれた男はびくりと肩を震わせ振り返った。持っていた懐中電灯で照らしてみると吉野を睨みつけていた。そういえば、この人を見たことがある。

「お前ら何なんだよ」

「僕たちは君のお父さんに頼まれてここを見張っていたんだ。君も心配なの?」

「あんな親父の心配なんかするかよ」

 そうか。彼が噂のやんちゃボーイだ。高校生くらいで反抗期のようにも見えるけれど、やはり家族のことは心配する気持ちはちゃんとあるようだ。彼は「めんどくせえ」と言い残しその場を去っていった。その背中は少しだけ頼りなく見えたのは気のせいだろうか。

 しかし、そんな簡単に犯人を見つけられるわけない。伸びをして見上げると空が少しずつ白んできた。もうそろそろ朝が来るみたいだ。


 次の日私たちは有村に写真のことを聞きに行った。すると、恐る恐る一つの写真を見せてくれた。そこにはブランコの写真があった。そしてそこにはもう一人。小さかった頃の翔太君が写っていたのだ。有村はこの写真のせいで息子がいなくなってしまうんじゃないかと怯えており、私たちに見せることが出来なかったという。

「この写真、有村さん以外で誰か見た人は居ますか?」

「息子が一度見ていたと思う。私が一度机に置き忘れていて、取りに行ったときにそこにいたから」

 そういうことか。吉野も分かったようで、小さく頷いた。そうと分かれば彼に伝えなければ。口を開くと吉野に制止された。

「今日も張り込みをしよう」

「もしかしたら、来ないかもしれないですよ」

「それでも、待っていよう」

 吉野は本当にお人よしだと思う。犯人が分かったところで本人を捕まえて話を聞けばいいのにここで待っているなんて。なにか考えがあってのことなのだろうか。まあ、何の作戦も無く来たわけではなさそうだったので今はおとなしく従うことにした。


 数時間後、また昨日のように庭に人影が見えた。急いでそこに向かい声をかけるとそこにいたのは翔太君だった。

「やっぱり、君の仕業だったんだね」

「だったら、なんだよ」

「別に責めてるわけじゃないの。翔太君のこと助けたいと思って」

 そんなの必要ないって言われるかと思ったけど、その反応は意外だった。うなだれるようにその場にしゃがみ込んでしまった彼は小さく呟いた。

「俺なんかい無くなればいいんだろ」

「誰がそんなこと言ったんだ」

 どこからともなく有村が現れた。

「お前だってそう思ってんだろ」

「私は翔太を心配しているんだぞ」

 今の翔太には否定の声しか聞こえていないのだ。いつかの私もそうだった。彼に会う前の私と同じだ。

「肯定の言葉ってさ、受け取り方が分かんないよね」

 否定の言葉を浴びせられたのだろう。心を破り突き抜ける。翔太はその言葉に染まってしまっているのだろう。百の肯定の言葉は、たった一つの否定によって砕かれる。それをいくつも受けていたら、聞きたくなくなる。いや、聞こえなくなってしまうのだ。

 自分を守るがゆえ、どんな言葉さえも跳ね返してしまう。心の奥底の脆い部分を守るにはそうするしかないのだ。壊されるくらいなら聞かない方がいい。それはよく分かる。けれど、それがどれほど苦しいことかも分かる。だから、安易に言葉を掛けられない。

「苦しいよね、救われたいよね」

「そんなんじゃねえっす」

「苦しい思いに触れてみて。きっとそこに本当の優しさを見つけられる」

「分かんねえけど、分かったっす」

 それでいい。分からなくても届いたのならそれでいい。

 どんな言葉も届かなければ意味がない。それが本当の言葉なら尚更。けれど、そう上手くはいかないもので言葉通りには届かない。どこかで曲がったり、消えてしまったり。だから、慎重に選ばなければならない。


 そうしないと思わぬ武器になってしまうから。癒そうと触れた手で傷つけてしまう。それほど恐ろしいことは無い。救おうとしたのにその手で谷底へ突き落されてしまったのなら、もう二度と誰の手も取れなくなる。

 だから私は長い間誰の手にも触れることが出来なかった。けれど、そんな私の手を強引に引っ張ってくれる人がいた。絶対に離さないといったように強く握るも、優しい手。そのおかげで少しずつだけど、私は自分から触れられるようになった。

 それでも時々怖くなる。だからそんな時は思い出す。どんなことも吹き飛ばしてしまう優しい声を。何度も心の中で繰り返す。その僅かな支えを大切に暗闇を進む。ほんの小さな光は私だけを照らしてくれる。そんな光を彼も見つけられたのなら、大丈夫。

 翔太はきっと知っていた。けれど、私と同じで怖かっただけなのだろう。「たまにはうちで夕飯食べなさい」と有村にいわれ、返事はしなかったものの頷いていた。

「ご迷惑おかけしました」

 深々と頭を下げる有村。当然私たちは迷惑だなんて思っていない。これが仕事なのだ。

 多分だけど、吉野は仕事でなくても迷惑だとは思わないだろう。そして進んで手助けをする。彼はそんな人だ。お節介と思うのだが、それで救われる人がいるのは確か。だから私はそのお節介のお供をする仕事が好きだった。


 後日、有村はお礼をしに訪れた。 

「ありがとうございました。あなた方のおかげで息子と少し近づけた気がして。どうお礼していいか」

「良いんですよ」

「対価は支払います。それと、お礼と言っては何ですがお二人の写真を撮らせていただいてもいいですか?」

「ええ、もちろん。こんな貴重なカメラで撮っていただける機会なんてなかなかないですからね」

 わくわくして言う吉野はなんだか少しだけ子供のように見えた。別にかわいいなんて思ってない。ただ、子供っぽいってっぽいて思っただけ。

 吉野と一緒に写真を撮るなんて初めてだ。そういえば吉野はこんなにカメラが好きなのに取っているところを見たことがない。

 集めるだけ集めて使わないなんてやっぱりよく分からない人だな。そう思いながら写真に写っている私の顔はどんなふうに映っているのだろう。

 きっと、うまく笑えてない。せっかくの写真だからいい顔で撮ってもらいたかったけれど、まあいいか。


 有村はしばらく経ったてから現像した写真をわざわざ持ってきてくれた。少し不機嫌そうな翔太を連れて。

「翔太、お礼言いに来たんだろ?」

「あざっす」

 ぺこりと頭を下げる。仲良しとは言えないが、以前のようなわだかまりは薄れているように思えた。

「お姉さん」

「どうしたの?」

「あの時言われたこと、もう少し分かったきがするっす」

「それならよかったよ」

 彼らは嬉しそうに帰っていった。ちゃんと言葉で伝えることって難しい。親子でさえ言えないこともある。それなら他人に言えないこともきっとたくさんあるはずだ。

 どんなに仲のよい友達でも、恋人でも言えないことはある。


 分かりあうって本当に大変なことだ。歩く2人の後ろ姿を眺めながら思っていると優しい風が吹いた。その風は机に置いてあった書類を容赦なく吹き飛ばした。慌てながら拾っているとそこには私が写っている写真を見つけた。

 それは、吉野と一緒に撮ってもらったものと色合いが似ていた。一人で撮ってもらって覚えはないのだけれど、きっと有村が置いて行ってくれたものだろう。

 貰った写真には目を伏せがちに写っている私。隣に立っている吉野はいつも以上のとびきりの笑顔だった。もっと笑っていたいのに笑えていない。吉野のように笑うためには、いったいどんな人生を過せばよかったのだろう。

 

 部屋に飾った写真。思い返してみれば、間違えたことばかりの日々。それがこの表情の差だろう。どんなに努力してもその差は埋まらないし、元に戻ることは無い。そして、笑えなかった日々はこれからも消えない。

 鏡に向かって笑ってみる。どうも引きつって仕方がない。手で口角を引っ張り無理やり笑う。頬の痛みは鈍く刺さる。私にも笑えた日々があったはずなのに。

 たぶんどこかに大切なものを置いてきてしまったのかもしれない。でもそれが何なのか思い出せない。もしかしたら思い出さないほうがいいのかもしれない。

「春花さん。今日も依頼が来てるよ」

 一階から聞こえる声が、少しだけ心にかかる影を払った。

「どんな事すればいいんですか?」

「今回は本当に謎に包まれた依頼だよ」

 なんでそんな格好つけたように言うのだ。私が聞いているのは依頼の内容なのに。でも、吉野がこういう時は面倒くさい案件のことが多い。なんとなく内容が分かってしまうから不安が募る。


 依頼はこの町の商店街にある本屋から来た。なんでも、最近複数の本が勝手に移動しているそうだ。店員に聞いても誰も触ていないというので店長がその本を元に戻した。そして、次の日にも同じことが起こっていたそうだ。

 店を開けた時には本はちゃんと本棚にあったということで、お客さんのいたずらだと思った店長はこっそり監視していたが怪しい人物を見つけることが出来なかったのでここに来た。

 やっぱり面倒くさいやつだ。また、張り込みの予感がしてやりたくないオーラを出してみるが効果はなかった。

「じゃあ、春花さんお願いね」

「分かりましたよ」

「ありがとう」

 どうして吉野はそんなに嬉しそうに笑うのだろう。私はこんなに不機嫌な態度をとっているのに。最近思うのだが、吉野こそこの町の最大の謎だと思うんだけどな。まあ、その謎を解く気はないのだが。いつものようにカメラの手入れをしている彼を一瞥して本屋へ向かった。


 店に入るや否や店長が慌てたように駆け寄ってきた。

「やっと来てくれた。もう、本が移動しているんですよ」

 私の腕をがっしりつかんでいる手は震えていた。本が移動したくらいで驚くことなんてないと思うんだけどな。でも、こんな様子を見ているとかわいそうになり早く解決してあげなければ。

 まずは状況を確認してそれからどうするか考えよう。店長に連れていかれたのは本屋の一番奥まった場所だった。ここには大きな本棚の間に小さな本棚が一つあり、そこに6冊の本が積み上げられていた。

 小説や絵本など本の大きさや種類はばらばらでどういう意図で集められたのかは分からない。とりあえず元あった場所に本を戻し、この近くに居ることにした。


 お客さんが入ってくるたびに監視していたが怪しい動きをする様子は見られなかった。閉店時間になっても何も起こらなかった。明日は開店前に来ると店長に約束して今日は帰ることにした。

「どうだった?」

 人ごとのように言う吉野はまだカメラの手入れをしていた。

「何の収穫もありませんでした。だから、明日は朝から行ってきます」

「そうか」

 今日のことを考えるために部屋へ戻ろうとすると吉野に呼び止められた。

「春花さん。どんなに目で見えるものでも見ようとしなければ見えないものだよ」

 そう言うとすぐにカメラに視線を戻してしまった。どういうことだろう。彼のこの言葉はこの謎を解決する役に立つことなのだろうか。

 よくわからないまま私はほったらかしにされてしまった。ヒントをあげたからあとは自分で考えろということなのだろうか。更に分からなくなった頭を抱え布団の中にもぐりこんだ。


 見えるものは見ようとしなくても見えるのは当然だ。その中で見ようとしなければ見えないものとは何のことだろう。私が目を逸らし続けているもののことなのか。

 いや、今はそんなこと関係ない。それに、吉野は知らないはずだから。頭の中でいろんなものがぐるぐるしているけれど、疲れた。それに、こうなった時は一旦思考を停止してしまはないとらちが明かなくなる。今日はこのまま寝てしまおう。



 枯れた大きな木の下で誰かが立っている。雨の中、立ち尽くすその姿に声をかけることが出来なかった。いったい何を待っているのだろう。そう思いながら私はずっと見つめていた。その背中が振り返るとき、私は目を覚ました。

 ぼんやりしたままだったけれど、その様子をまだはっきり思い出せる。最近そんな夢を見ることが増えた。そして、その寂しそうな背中が頭から離れなくなってしまうのだ。


 変な気持ちのまま着替えているといつものようにのんきな声が聞こえてきた。呼ばれなくっても時間になったらちゃんと行くってのに。

 吉野はいつも時間になる前に私を呼ぶからゆっくりできない。いつもならいいんだけど、今日みたいな夢を見た日はあまり名前を呼ばれたくない。誰とも会いたくない。

 でも、そんなのお構いなしに話しかけてくるのが耐えられなくなることがある。そんな時は無視を決め込んで何も話さない。

 だけど、少ししてしょんぼりしてカメラの手入れをしているのを見るといたたまれなくなる。そして、すぐに謝るのが落ちなんだけど。そんな感じになりそうな予感だったけれど、今日はいつもよりしつこく呼んでくる。

「春花さーん」

 また下から私を呼ぶ声が聞こえてきた。でも、その声に少しだけ救われた気がした。朝から嫌な気持ちにならずに済んだから。


 開店前の本屋は薄暗くて少し落ち着いた。昔、大学の図書館でアルバイトをしていたことを思い出した。一人、本好きの友達がいていつも遊びに来てた。そして、少しいたずらをして帰っていたような。

 彼は本の間にメモを挟み、メッセージを残して言っていた。その内容は「お疲れ様」だとか「また来るね」とかくだらない内容でいつもうんざりしていたが楽しかったことを思い出した。


 もしかして、何かのメッセージが隠されているのかもしれないと思い昨日の本を探そうとしたがそんな必要はなかった。だって、その本はもうそこにあったから。誰がそこに置いたのかを考えないといけないところだが、そんなことよりどんなメッセージが隠されているのかを知りたくてその本を全部読んでみることにした。


 どの本も面白くて、つい読みふけってしまった。本屋のスタッフ控室で読ませてもらっていたので、誰にも邪魔されることなく6冊すべて読み終えた。近くの窓に目をやるともう真っ暗だった。

 すべて読んだが何か隠されているものはないみたいだったし、内容も全部ばらばらで共通点は無かった。困ったなと思いながら最後に読んだ本を上に置き、伸びをするとあることに気付いた。もしかしてこれは本自体がメッセージになっているんじゃないだろうか。


 上から「赤い死神」「いつだってきみが」「白い空、何も見えない」「天へと続く虹」「ルルとナナとお昼ご飯」「花の香りが散るころに」の順番で並べられていた。頭文字をとったら「あいしてるは」になる。もしかしてこれは、恋する女の子から大切な人へ届けたい言葉なんじゃないだろうか。最後の「は」はきっと「わ」と間違えてしまったのだろうか。

 恐らく人の仕業ではない。けれど、この本はこのままにしておいてほしかった。きっと、悪意があってやっているわけではないから。

 店長にお願いしてみると少しと惑いながらも了承してくれた。よかった。これで、あの子が伝えたい言葉が残しておける。きっと、どうしても伝えたい言葉なのだろう。どうか、ちゃんとあの言葉が伝わりますようにと願いながら書店を後にした。

 

 死んでもなお伝えたいことがある。それは恨みでも憎しみでもない純粋な愛。どんなことをすれば、そんな風に想ってもらえるのだろう。きっとどちらも笑顔の素敵な人だろう。その間には温かい風が流れるような感じ。

 羨ましくも切なくもあった。愛というのはいつでも悲しいものだ。必ず来る別れの時を覚悟しなければならない。知りながらも、その未来を霞ませるほどに色濃い感情。

 私にもあったかもしれないと、心の奥が動いた気がした。けれど、もう思い出せない。

「おかえり。解決したみたいだね」

 私の顔を見て分かったのだろう。吉野は満足げに笑っていた。


 どんな子があの言葉を残したのだろう。どんな思いであの本を積み上げていたのかな。その様子を想像すると少しだけ苦しくなった。

 どうしても伝えたい思いがあるのに口では言えず、分かりにくい方法でしか伝えるすべが無かったらと思うと切ないよ。そう思うと、その日は一日眠れなかった。



 今日はなにも依頼が来ていないし久しぶりにゆっくり出来そうだ。そう思ったのも束の間。いつものように名前を呼ばれた。もしかしたら依頼が来ているのかもしれないと思い一階に下りてみるとそこには小さな男の子がいた。

 小学校3年生くらいだろうか。泣きそうな顔でこちらを見上げる彼が今日の依頼主だった。その男の子は季節外れの桜の木があるというのだ。

 花が好きだったその男の子は絶対に桜だと言ったが友達に2月なのに桜の花がさいているなんてありえないと言われたので確かめて欲しいといった内容だ。

「僕、嘘つきじゃないもん」

「春花さん、出番だよ」

「分かってますよ」

 こんな小さい子の表情を曇らせたままに出来るわけない。急いで準備をし、店を出た。


 季節外れの桜なんて大したない。放っておけばいつの間にか枯れて何の問題もなくなるのに。そもそも桜は春に咲くなんて誰が決めたのだ。冬に咲いたっておかしくない。そう言う品種もあるかもしれないのに。

 まあ、仕方ない。小学生にそんなこと言っても理解してもらえるか分からない

 世の中には分からないことや自分の想像を覆すことなんか山ほどある。けれど、それを知るまではまだ早い。もう少しだけ小さな世界で過ごしてほしい。いつかどうにもならないことや、思い通りにならないことに出会うだろうから。


 今回は確認してその花が何か確かめるために、その場所に行ってみよう。冬の並木道はこんなに寂しいものか。枯れ木々がずらりと並んでいる。

 まただ。心臓を強く打つように鼓動が速くなる。どうしてこんな気持ちになるんだろう。立て続けにきた3つの依頼で疲れているのかもしれない。

 それにしても変な感じ。今まで、こんな思いなんてなかったのに。なんだか思い出しさないようにしていた記憶の箱を無理やりこじ開けられるような感じだ。どうにかしてそれを押し込めてはいたがいつまでもつかは分からない。きっと、そろそろ限界が近づいてきているのだと思う。



 言われた場所に行くと確かに桜の花が咲いていた。十二月に入ったばかりのこの季節に咲くなんて気が早いんだね。なんて心の中でその木に話しかけながら近づくと、あることを思い出した。懐かしくなりひとり呟く。

「梅の花なのかな?」


『これはね冬桜って言うんだよ』

 そんな声が聞こえてくる。いつだったか君と一緒にここに来た時に私に言った言葉だ。花なんか興味がなかったので桜の花も梅の花も区別がつかなかった私は、この時期に咲くのだから桜はありえないという理由で梅だと思っていた。そして、そんな私にその桜のことを教えてくれたのが私の恋人だった良太だ。


「やっと僕を見てくれたね」

 振り返るとそこには良太が立っていた。どうしてここに居るの。もう二度と会えないと思っていたはずの彼は、まるで当然というようにそこに立っていた。あのころと変わらない優しい笑顔は私の苦しみを一瞬で温かい涙に変えた。

「もう、忘れられちゃったのかと思った」

「そんなこと出来ないよ」

 本当はちゃんと覚えていた。でも、思い出さなかった。だって、思い出したところで何も意味がないから。どんなに願っても君に会えないって分かっていたから。

 だから、忘れたことにしたんだ。一番忘れたくない人、絶対に覚えておきたい声だったから必死に忘れたふりをした。そうじゃないと私はつぶれてしまうから。

 そうしていたのに私の心は忘れたくないと叫び、何度も夢で見させていたんだ。きっと君の方が苦しかったんだよね。私に忘れられたら君は消えてしまうから。だから、私にあんないたずらをしたんだ。

 

 写真を撮るのは君の趣味だった。一緒にどこかに行くとき、君はいつも首からカメラをぶら下げていた。綺麗な景色をたくさん見たのに、彼のカメラの中心にいるのはいつも決まって私の姿。そして、今も彼の手には写真があった。彼は私を撮るたびにいつも言っていた言葉がある。


『忘れたくない瞬間を永遠にとどめておきたいんだ』

 それを知ってからというもの、彼が私を撮ってくれるのがとても嬉しかった。彼の思い出の一つに私がいる。そのことが、嬉しくてたまらなかった。

「ごめんなさい」

「どうして謝るの?春花は何も悪いことしてないよ」

 どうしてそんなふうに笑うの。君が死んだのは私のせいなのに。怒鳴ってよ。殴ってよ。君の中にある怒りを全部ぶつけてよ。そう思っているのに君はそうしてはくれない。

 なぜなら、君の中にそんな気持ちこれっぽっちもなかったから。だから、そんなふうに私を見つめてくれるのだ。そうやって優しく私を見るから、こんなに弱くなってしまう。

「泣かないで。僕は春花が笑顔になって欲しくて。だから、ずっとここで待っていたんだ」

「5年も待っていてくれてたの?」

「そうだよ。ずっと伝えたかった事があったから」

「なに?」

「愛してる。春花」

 この言葉を伝えるために君は私を待っていてくれた。そうか。あれも君の仕業だったんだね。なかなか会いに行かない私にメッセージをくれていたんだ。


『あいしてるは』


 あの本屋さんでのメッセージ。あれは女性が男性に送った言葉だと勘違いしていた。でも、君が私だけにくれた言葉だった。


『あいしてる はるこ』


 本当はこう伝えようとしていたのに。気付かなくてごめんね。君がこんなにも私のことを思ってくれていたのに私は何もしなかった。君との約束の場所にも行こうとしなかった。だから、さすがに気の長い君もしびれを切らしてきてくれたんだね。

「ずっと心配していたけど、大丈夫そうだね」

「え?」

「ちゃんと春花のこと、助けてくれる人がそばに居るみたいだから」

 そう言って笑う良太の姿は少しずつ薄くなっていく。そんな人いないよ。私のことなんて誰も助けてなんかくれない。良太だけなんだよ。私が頼れるのは君しかいないのに。そんなこと言わないでよ。

 君に見捨てられたら私は本当に一人になっちゃうよ。お願い行かないで。消えていく君の体を掴もうとするけれど、この手はすり抜けてしまい何も掴むことのできなかった手がむなしく風に触れる。

 そこに残されたのは写真だけだった。ひっくり返っているけれど何が写っているのは想像できた。そこにいたのは嬉しそうに笑っている私。そしてまた涙が止まらなった。その写真の裏には

『ずっと忘れたくない大切な春花』

 そう書かれていた。


 彼は5年前、私を助けようとして死んだ。昔から人に頼るのは苦手だったけれど、彼になら少しだけど助けを求めることが出来た。一人暮らしで不安になっていた私はあの日、良太に会いたいと連絡した。

 その日は日曜日で彼はアルバイトをしていた。だから終わったらすぐに来てくれると言ってくれた。でも、約束のこの場所には来なかった。そして、次の日ニュースで良太が事故に会ったと知った。

 後から聞いた話だが、良太の遺品の中に送ることが出来なかった私宛のメールが残されていたそうだ。内容は書かれていなかったけれど最後まで私のことを心配してくれた君の優しさが痛いほどに伝わってきた。そんな優しい君だから、ずっと見守ってきてくれていたんだね。

 俯く私をよそに桜の花は変わらす綺麗に咲いていた。



「おかえり」

 いつもと同じようにカメラの手入れをしながらこちらを見上げる。いまは誰とも話したくないから、そのまま通り過ぎようとするけれど吉野の手によってそれは阻まれた。

 抵抗するもののその手を放してはくれない。そのうち抵抗する気力もなくなりその場に立ち尽くすと優しく抱きすくめられた。

「おかえり、春花さん」

 なぜだか分からないけれど、涙が溢れて止まらなかった。二度目のお帰りは本当の私が帰ってきたこと意味していたのだと思う。

 だって、今の私はちゃんと心の底から泣くことが出来た。苦しいと感じることが出来たから。そして助けて欲しいと願うことが出来た。


 吉野は何も言わずただ抱きしめてくれていた。そして時折優しく背中をさすってくれた。きっと、彼は何でも知っているんだ。依頼のことだってそう。きっと、私がしなくても本当は全部自分で解決できていただろう。

「吉野さんはどうして私に全部頼むんですか?自分でやった方が早く解決すると思いませんか?」

 私なんか居なくてもいい。だって、吉野は一人でもやっていける。何のために私を雇ってくれているのかずっと不思議でならなかった。

「まあね。でも、知って欲しかったんだ。誰かに頼るのは悪いことではないってことを」

 どういうことなんだろう。私に依頼を頼むことと頼ること、どうやったらつながるんだろうか。吉野の考えていることはさっぱり分からない。きっと、いつものように謎のままで終わるのかと思っていたが、吉野の言葉には続きがあった。

「みんな私たちに頼みごとをする。そして、その頼みを聞いてくれる春花さんがいる。春花さんはいつだって誰かのことを助けてきた。それと同じように誰かに助けを求めた時、春花さんを助けたいと思う人がいるんだよ」

 そう言った声があまりにも優しかったから逃げたくなってしまった。逃げたいのにここに居たい。自分でもよくわかないけれど、心の中で何かが解けていくような気がした。

 私の中でずっと止まっていた時間が少しだけ動き出したようなきがした。私のことだったそう。どんなことがあったのかは知らないと思うが、いろいろなものを抱えているということは知ってた。きっとそうだ。 


 だから、ずっと見守ってくれていたんだ。それも少し離れたところで。なにかあればすぐに助けることが出来るように。

「今日も依頼が来てるよ。春花さん」

 私の肩をぽんとたたきどこかに行こうとするけれど、今日こそはそんなことさせない。私は決めたんだ。

「吉野さん、一緒に頑張りましょ」

 私がそう言うと驚いたような顔をする。なんでそんな顔するの。頼ってもいいって言ったのは自分なのに。やっぱり変な人だ。

「僕はあなたのことを救えたのかな?」

 彼は唐突にぽつりと呟いた。私への質問のように思えたけれど多分違う。それは、自分への質問のように思えた。

「突然どうしたんですか?」

「いや、少し心配になってね」

 この機会だから、いつもは言えなかったことを伝えよう。今伝えないと次はもう来ないかもしれないから。

「私は吉野さんに救われましたよ。あなたが居なければ私はきっと生きていませんでしたよ」

「そうか。良かった……」

 いつもとは違う少し震えている声。私、何かへんなこと言っただろうか。少しだけ弱々しく見える背中を見つめ考えてみるが、この短い会話の中に思い当たる節はない。


 話を聞くと、吉野は昔大切な友達を亡くしたそうだ。その人はいつも明るく優しい人だった。でも、突然自ら命を絶ってしまったそうだ。その前日に会っていた吉野は彼の異変に気付くことが出来る唯一の人だったのに何もできなかった自分をずっと責めていた。

 そして、その友達と私を重ねていた。彼を救えなかった思いから私のことをひどく心配してくれていた。だから、あの日私に声をかけてくれたんだ。彼と同じ目をしていた私を。


 吉野に会った日、私は死ぬ寸前だった。生きる意味も理由も見えなくなった。橋から身を乗り出し飛び降りようとしていた時に私は彼に腕を引かれた。

 振り返り見たその顔はなぜか私よりも苦しそうな顔をしていたのを今でも覚えている。そして、そのままここに連れられていた。それからはずっと彼が何でもしてくれていた。

 ご飯を作るのも洋服を買ってきてくれたりするのも。いつも笑顔で接してくれていた。彼のその気持ちが重たくなりそこから何度も逃げた。でも、彼は何度でも見つけてくれた。だからいつしか私はここに自分の居場所を見つけることが出来たのだ。


 そうか、私はいつも吉野に助けてもらっていたんだ。どうして今まで気付かないのだろう。ずっと、そばに居てくれたのに。いつだって手を差し伸べてくれていたのに。

 私はやっと、生きる理由を見つけた気がする。良太と吉野からもらったこの命をつないでいきたい。誰かが助けを求めた時、真っ先に助けに行く。

 私を待ってくれている人がいるならどんなに時間がかかってもそこに行く。そして、私がしてもらったように誰かの心を助けたい。きっとそれが私の役目だと思うから。そして苦しくなった時は吉野に助けてもらう。上手には生きられないけれど、ちょっとずつ進んでいけたらいいな。

「吉野さん。これからもよろしくお願いします」 

 深々と頭を下げると「いきなりどうしたの」と笑っていたがその目は少しだけ涙が見えた。でも、気付かないふりをしてごみ箱に向かった。

 もうこれは必要ない。ポケットから退職願いを取り出しびりびりに破って捨ててやった。本当はこんなもの出すつもりなんてなかった。だって、私はここが好きだったから。

 ずっとここに居たいって思っていたから。それなのにこんなものをずっと持っていたのは怖かったから。ここから追い出されそうになった時に逃げられるように。でも、もう大丈夫。私は本当の居場所をちゃんと見つけたから。


 どんなに遠く離れても連れ戻してくれる人がいるから。だから、大丈夫。私はこれからも生きていける。

「よし、今日も頑張りましょ」

「そうだね」

 嬉しそうに笑う吉野の顔は少しだけ安心したようだった。私たちには足りないものが多すぎる。でも、それでいい。足りないのなら一緒に見つけていけばいいから。きっと誰だってそうだ。だから、今日も私たちは誰かの足りないものを探すためにここに居る。


 さあ、今日はどんな依頼が来てるのかな。


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