ほら、やる気を出させるために尻を叩くって言うでしょ?
突然、婚約者が決まり、顔合わせもないままに結婚式となった。
何これ、どういうこと? なんて疑問は遥か彼方に飛んでいくような、てんてこ舞いなスケジュールをどうにかこなし、気付けば結婚式を終わらせていた。
そして迎えた初夜。寝室で夫と二人。私──アナスタシア・メルシエ男爵令嬢……いや、もう結婚したから、アナスタシア・クレメント公爵夫人が、夫となったノーラン・クレメント公爵から言われたのは。
「君を愛することはない」
だった。
こいつ、ぶっとばしてやろうかな、って思うには十分だった。
十六歳になった翌日、それまで婚約者もいなかった私が、王命によって結婚することになった。その相手こそ、ノーラン・クレメント公爵である。
彼は現在、二十三歳。
この国の王太子であるフレデリク殿下とも友人関係にあり、幼い頃から優秀だったノーラン。彼が十代の後半の時に、前当主である彼の父親が体調を崩しがちだったこともあり、公爵家当主の座を継いで若き公爵として王家からも領民からも大いに期待されていた男だった。
ノーランは艷やかな金色の髪に優しげな印象を受けるヘーゼルブラウンの瞳をした美青年であり、身長もそれなりに高い。剣もそこそこにこなし、性格も誠実で穏やかだというのだから、天は彼に二物も三物も与えたに違いなかった。
しかし私の七歳上になるノーランが、十六歳で結婚可能となる我が国において、高位貴族の初婚にしては随分と遅い方である。どこをとっても完璧な彼の初婚が二十三歳だったのはなぜか?
それには、ちゃんとした理由があった。
彼は、愛していた婚約者に捨てられた、悲劇の男だったのだ。
ノーランは二十歳まで、幼馴染である侯爵令嬢と婚約していた。ご令嬢の方も非常に優秀で美人だったために、二人は幼い頃から将来を期待された相思相愛の婚約者同士だった。
ご令嬢はノーランより四歳年下で、彼女が十六歳になったら結婚しようと約束していたそうだ。
しかしその約束はかなわなかった。
彼女の誕生日まであと三ヶ月という時期に、なんと彼女は視察に来ていた隣国の第四王子と恋に落ち、ノーランに婚約解消をせがんできたのである。
隣国は我が国にとっては友好国であり、第四王子は隣国両陛下の秘蔵っ子とも呼ばれるほど可愛がられていた。その第四王子も、侯爵令嬢と自分の出会いは運命の出会いだったとかなんとか言って、ノーランに婚約を解消するよう言ってきたのだとか。
普通なら、認められないし、あり得ないことだ。
しかしノーランは友人であるフレデリク殿下や国のことを思い、泣く泣く、婚約を解消したという。
第四王子と侯爵令嬢は大喜びで感謝の言葉を残して隣国へと渡り、早々に結婚した。
残されたノーランは、ひどく落ち込みながらも領民だけは苦しめまいと、公爵領の領地経営に励んできた……ということだ。
そうして、婚約解消から三年が経ち、そろそろ本気でノーランを支えてくれる女性を、というフレデリク殿下の思いやりから婚約者探しがスタートした。
けれど同年代で婚約もしていないという令嬢はほとんど残っておらず。過去のこともあり、婚約者がいない者を……と探した結果、結婚可能年齢ながら婚約者のいない私のところまで、話が巡り巡ってきてしまったのだ。
一方で、私はというと。婚約者はあえて作らずにいたし、そもそも貴族と結婚する気はなかった。それというのも、我がメルシエ一族が商いの才に優れており、昔から大小様々な商会を束ねている一族であることに関係している。
祖父の代で男爵となったのだが、まぁ……由緒正しき貴族からは白い目で見られてきたのだ。男爵ではあるが相当に裕福だったので、そこも気に食わないところだったのだろう。幼い頃から、商人上がりの成金貴族だ、金で爵位を買った品のない男爵だ、と言われることが多かったので、私はあまり貴族が好きではなかった。
だからというのもあって、爵位は弟に任せ、私は商会の女主人になろうと決めていた。世界中を駆け回り、メルシエの名を世界中に轟かせてやろうと思っていた。狙いはコストを抑えながらも品質を確保した、メルシエにしかご用意出来ない商品を!
そのために、経理に経済に交渉術に、各国の語学や文化も学び、ひたすら自己研鑽に励んできたのに。
忘れもしない。王命での結婚が決まった日、父が神妙な顔を取り繕って私に告げたあの一言。
「我が商会と公爵家のためだ……行ってこい、アニア」
そう言って渡されたのは、父が商会の皆から情報を集めて作成したノーラン・クレメントの経歴一覧と領民の声。それとフレデリク殿下からの推薦状。私はそこでノーランの過去を知り、領民の彼への高い評価を知り、殿下からのノーランべた褒め文章で彼の人となりを知った。
ノーランに対しては悪い人ではないし、上から目線ではあるが、領民のためによく頑張ってきた人だと思った。むしろそこに関しては好印象だった。ただ……領民からの評価は良いが、やけにノーランの体調を心配する声が多いのは気にはなった。
そしてその資料を読み終わって、もう一度父を見て。私は父に強く思った。
いや、あんた、娘よりも商売取りやがったな、と。
父は緩む口元を必死に隠していたがバレバレだった。
私にだってこの結婚がもたらす我が家への見返りが大きいことは十二分に理解している。公爵家との繋がりなんて、喉から手が出るほど欲しいものだ。しかも、王命。夫となる男と殿下はご友人。ともなればここで愛想よく振る舞っておけば、王族との繋がりだって出来るかもしれない。
いくら大きい商会といえど、やはり王族との絶対的な繋がりはなかなかに難しかった。王族が気に入ればそれが流行となる。その流行を我がメルシエ商会が担えるとすれば……何としてでもこの機を逃すべきではない! そう考えるのは商会に勤める者なら当然だろう。
それが、今回の結婚である。もう父には明るい未来しか見えていない。何をどうやって王族へと売り込むかという妄想ばかり膨らんでいることだろう。
そんな父の後ろには、窓の外へと目をやって立っている弟。弟も、鼻歌混じりなのが憎たらしい。
許すまじ、この父子。
いや、私が弟の立場だったら小躍りするくらいだろうけど! 頑張れ、姉さん! あとは任せて! ぐらい言ったかもしれないけど。それを言わないだけ可愛いものなのかもしれないけど。
しばらく呆然と立ち竦む私の肩に、そっと手をおいたのは母だった。母は小さく、いつでも帰ってきていいからね、と言った。母だけだ。そんな風に言ってくれるのは。
と、父弟に憤ってはいるのだけど。色々不満はあるが諦めるしかない。これはもう仕方がないのだ。どちらにせよ王命で断れないのだし。
過密スケジュールに押されながらも、どうせ結婚しなきゃならないならこれを前向きに考えて、家族のためにも商会の皆のためにも強固なコネクション作りに勤しみつつ、打ちひしがれながらも三年間、領民のために健闘してきたノーランを少しでも盛り立てようと考えていた。
というのに、だ。
初めて会った結婚式で。
この男、優秀なんてのは嘘で実はアホなんじゃないかと思った。
三年経ったというのに、まだ幼馴染のことでウジウジとしている。領民の心配の声通り、隈もひどいし、肌に張りもない。
おまけに雰囲気もオーラも暗い。結婚式ではピクリとも笑わない様に、しっかりしろと一喝してやろうかと思ったくらいだ。
けれど殿下のにっこり笑顔を見たらそういう訳にもいかず。商売人魂を発揮して、愛想よく振る舞った自分を褒めてあげたい。
極めつけは外面も作れないなんて頼りないな、と思っていたところに、二人で乗った馬車の中。公爵邸への帰り道。
会話なんかないだろうと思っていたのだが、ノーランがおもむろに口を開き……完全に思い出を美化しているだけだろう、元婚約者との美しい思い出をずーっと語りまくった。あの時の彼女はあーだったこーだった。あんなにも愛らしく素晴らしい女性はいない、とかなんとか。
よくぞ自分を捨てた女をこんなに褒められるな、と思っていたら、今度は勝手に一人で落ち込んでいった。
ウジウジ、ウジウジ。私は一体どうすれば良いのだろう……と答えの出ない自問自答を繰り返した。
もうね。お耳が疲れましたよ、私は。
そうしてげんなりして公爵邸へと到着すれば、使用人達は明らかに私を睨む者ばかり。歓迎されてないなぁと思いながら、ノーランの言葉を待てば。
「……フレッド……フレデリク殿下と国王陛下の命により妻になった、アナスタシアだ。皆、良きに計らってくれ」
ときた。いや、それ、何の紹介にもなっていないじゃないか、とね。ここら辺から私も青筋を立てていたのだけど。
「アナスタシアです。メルシエ男爵家より参りました。若輩者ではありますが、どうぞよろしくお願いいたします」
ある程度の礼儀、作法は身につけていたつもりだったが、使用人達のなんとも冷ややかな目。
平民出身者もそれなりにはいるが、執事や侍女頭は公爵家の分家の者だし、侍女も子爵出が数人いる。男爵、しかも商人上がりとなれば目つきが厳しくなるのも頷けることではあった。
それにきっと、いくら王命といえど商家の出身。商売人魂よろしく自分達の主人を搾取するためにやってきた、とでも思われているかもしれない。
いや、それが一番濃厚かな。ノーランを見る目は誰もが心配そうだし、彼の一挙手一投足への反応の速さは素晴らしいとすら思う。ノーランが大事にされている、ということではあるのだが……いやはや。こちらとしては非常に居心地の悪いことこの上ない。でもまぁ、私はここで暮らすしかないのだけど。
さっさと自室にこもったノーランは無視して、簡単に使用人達にも自己紹介をしてもらい、部屋へと案内される。
「ここが、奥様のお部屋となります」
案内されたのは、ノーランと同じ階ではあるが、端と端に位置するところだ。ちゃんとベッドもテーブルもソファもある。そこはありがたいことだなぁとは思ったのでお礼を言ったが、怪訝な顔をされるだけだった。
で、片付けやらなんやらをして。湯浴みも済ませた。
納得いかない顔の侍女達に全身に少し甘い香りのする香油をたっぷりと塗られ、それなりのナイトドレスに身を包んだ私は、ガウンを羽織ってノーランの寝室に。
どう考えても実現しない初夜に、形だけでも行かなきゃいけないってのが貴族の面倒なところだなぁ、なんて思いながら、入室する。
そうして、私を見るなりノーランが言ったのが例の一言。
「君を愛することはない」
もうね、何が、君を愛することはない、だ。何だその上から目線。
いい加減、勝手に組まれた過密スケジュールに、面倒くさい夫に、明らかに拒絶されている使用人の態度に……堪忍袋の緒も何とやら。
なので、愛することはないと言われた私の返答は。
「それはよろしゅうございました」
である。
え、と返したノーランに、それじゃあおやすみなさい、とさっさと部屋を出て、私に用意された部屋へと向かう。ついてくる侍女は一人もいない。
明日の朝は何時に起きるのか、とか。朝食はどこか、とかもうどうでも良かった。
「あー! 寝よ寝よ!」
思い出したくもない一日がやっと終わる。
明日から自分がどうなるのか考えるのも馬鹿馬鹿しくてやめた。
「あー…………こんな日は市に出て、叩き売りして値引き合戦やりたい……それか……そうだな。贋物売りにきたやつをこてんぱんにとっちめてやりたい……」
私の独り言は闇に溶けた。
これが、私とノーランの最悪な一日でもあり、愉快な結婚生活の始まりとなる日だった。
明けて翌日。
一応、そこそこの時間には起きて、自分で準備をした。侍女が来た時には顔を洗うだけにしていたら、侍女はちょっとムッとしていた。
「……奥様の身支度を手伝えとの命を受けておりますが……不要のようでしたね」
「そうだったの。ごめんなさいね。時間や担当なども聞いていなかったから。明日からはお願いしても良いかしら?」
「いえ、私どもの手伝いなど不要のようですので、今後はご自身でされてください」
めんどくさいなぁぁ、もう!
朝からため息をつきつつ、朝食の場へと向かう。そこには一人分だけ朝食が用意されており、ノーランの姿はなかった。
「……旦那様は?」
「朝はお召し上がりになりません」
「それは、体調によるもの? 朝食べなければ体調を崩すとか?」
「……いえ、そのようなことではございませんが……」
「そう。それなら良いのだけど。準備をしてくれてありがとう」
そう言って席に着き、一人で食事を始めて……すぐ。
まずい。
最初に思ったのはそれ。
朝のメインは白身魚のバターソテーだったのだが、ウロコは残ってるわ、味も薄いわで……え、これが公爵家のレベル? と疑ってしまった。
添えられているボイルした人参は茹で加減がまちまちだし。ブロッコリーは茹ですぎだし。
うーん、これは。
と思って見回すと、目線を合わせようとしない料理人に侍女達。くだらないなぁ、と思いながら、もちろん完食した。食材を無駄にするなんてありえないしね。
ただし、ここで忠告がてら釘を刺しておこうと思い至った。舐められてばかりいるほど、私はお淑やかな性格はしていないのだ。
「ごちそうさま。美味しかったとはとても言えないけど、これが旦那様の好きなお味なのね?」
と。その言葉に辺りはシンと静まり返る。
「私もお料理は出来るから。旦那様に作りたくなったら、このレベルのものをお出しして良いと思って作ることにするわ」
食べ終わった食器を厨房へと運び、そのまま自室へと帰った。さてはて。ここまで言ったら昼食はどうなることやら。
その後、侍女も執事も誰も部屋にはやって来ず。
帰ってもベッドは起きた時のまま。ベッドメイキングぐらいはされるかと思ったが、それはないようだ。そして何より、しばらく待ってもやっぱり誰も来ない。
公爵夫人初日として、この待遇はどうなの?
このままだと待てど暮らせど、になるのは目に見えている。時間は貴重だ。十分待って誰も来なければ、好き勝手させてもらおう。
そう思って十分待ち。
誰も来ないので邸内を隅から隅まで歩き回った。それに庭園にも足を運んだ。もちろん一人で。
公爵家ということで、やはり邸自体が立派な造りだ。家具や雑貨、絵画などに至るまでよく選定して購入されたものだと分かる品ばかり。同じ作家のものが多いのが特徴かな。まぁあれこれ手を出すよりはその方がまとまりは出る。
庭園は先代の趣味なのかノーランの趣味なのかは分からないが、青や紫の色合いの花が多かった。ここも邸内同様に、きちんとまとまっている印象だった。
昨日の馬車の中でのノーランの印象と家の雰囲気。そして事前に入手していた情報から。ノーランはまさに、真面目、なのだ。真面目すぎるから、まだウジウジし続けている。
それに元の性格である誠実で穏やかは、悪いように捉えたら刺激がなく物足りない、になる。
元婚約者の侯爵令嬢も、第四王子と運命の出会いだなんだと言ったのは、一種の刺激を求めた結果なのだろう。第四王子は秘蔵っ子なだけあって、甘やかされて育っていて、そこそこに横暴だと聞く。それが男らしく映ったか、情熱的に映ったか。
ノーランを思うと可哀想なことこの上ないが、まぁ……よくある話ではあるのかもしれない。
しかし、ここまで考えておきながら。
ノーランのように真面目で、友人である殿下や領民を思って選択も行動も出来る人間が、いつまでも辛い思いをするなんてのはおかしいと私は思う。
真面目は長所だ。殿下や領民からあれだけ評価が高いということは、ノーランがそれだけ信頼されている証だ。
信頼はお金では買えない。それに簡単に築けるものでもない。それだけ、揺るがない価値のある男なのだ。私の夫となったノーラン・クレメントという男は。
だからこそノーランには早く立ち直ってもらって、身勝手な第四王子や元婚約者を見返してやる、ぐらいの勢いを持ってほしいところである。
領地経営だけはちゃんとしていたようだが、朝食も抜いているし、隈も出来てやつれきった顔だ。下手をしたら昼食もそこそこで終わらせるかもしれない。それに昨日ちらりと見た寝室には、机の上に書類が積んであったから、寝ずに何かしらしているのかもしれない。
そんな領主を、領民が心配しないわけがないし、使用人も新しく来た妻に警戒してもおかしくはない。
まったくもう……手がかかる男だ。
手はかかるが、息を吹き返してもらわなければねぇ?
こんなところでウジウジする夫と暮らすなんて嫌だし。嫁いだ以上、私は私の思う正しい道を生きたい。我慢なんてするもんじゃないの。時間は有限。我慢してる暇があるなら行動する。
それに、世界を股にかける商会の女主人になることを諦めた代価がこれというのはあんまりだ。
だから……行動しようと思う。
私は部屋に戻り、午後に向けて準備を始めた。
そんな私を昼食に呼びに来る者は誰もいなかった。
誰も呼びに来ないので昼食を求めて食堂に向かえば。
ちょうどノーランが食事を終えたのか、ドアから出てきたところだった。
「旦那様、お食事はお済みになったのですか?」
「……ああ」
それだけ言って私の横を通り、ノーランは去っていった。
食堂に入ると、私の食事は準備されていたが、ノーランが座るであろう席からは二席離れた位置だった。
まぁそれはおいといて。朝、けっこうな嫌味を言ったので少しは改善されたかと思った食事は……変わらずまずかった。
文句は言わずに食べきって。ちゃんと準備してくれたことなどへのお礼は言って。
その場にいた侍女を呼び、彼女にとあるお願いをした。
「今から三十分後に、使用人を皆、ここに集めてちょうだい。話がしたいの」
「……皆、ですか?」
「ええ。今日は来客もないし、仕事を止めても大丈夫でしょう。どうしても無理という者は、その理由を明確にして。そうでなければ、全員集合」
「……ですが……」
「公爵夫人の命だと言って集めて。よろしくね」
「……はい」
小さな返事ではあったが、了承されたと取って私は部屋へと戻る。食事前に準備していたものを確認して、三十分待った。
三十分経過して私が向かった先は……
コンコンコン、とノックを三回。
はい、という返事に、名を名乗れば、中から扉が開いた。
出てきたのはやつれた様子のノーランだ。結婚式の翌日とは思えない様だが、彼の体調なんぞ、今はどうでもいい。
「……何の用だ?」
「こんにちは。お話がありますから、今すぐ食堂についてきてください」
「は?」
「ほら、早く。ちんたらすんな。さっさとこい」
「へ?」
ガシッと腕を掴んで連れて行った先。
集まっていたのは半分にも満たない使用人達。
「旦那様、使用人はこれで全員ですか?」
「……いや、半分もいない。というより、何だ、この場は? なぜ集められているんだ? 皆も忙しいのだから集まれなくても──」
「公爵夫人が全員集合と言って、三十分は時間を設けました。それで集まったのは半分以下、ということですね?」
にっこり笑うと、言葉に詰まるノーラン。公爵夫人、というキーワードに詰まったかな?
まぁ、なかなかにパワーワードだものね。うんうん。
さて、もう一度言いましょうかね。
「あと十分は待ちます。公爵夫人の命令です。使用人は全員、直ちに集まりなさい」
執事に向けて言えば、眉間にしわを寄せながらも執事が各使用人に指示を出した。ちなみに、私はまだノーランの腕を掴んだままだ。
怪訝な顔のノーランだが、私に圧されてか、視線を彷徨わせながらも大人しくしている。よしよし。良い感じ良い感じ。
ちょうど十分待って。
なんとか使用人も全員集まったところで、私はノーランの手を離した。
「申し訳ございませんでした、旦那様。少し皆様にお話ししたいことがありまして、お集まりいただいたのです」
「……話したいこと?」
「ええ、では、旦那様。旦那様は、こちらにお立ちください」
そう言って、使用人一同が並ぶ正面に立たせる。
何だ何だと私を見てくる使用人と、ノーランは諦めたのかもうこちらを向いていない。
さぁてと!
私はこのために準備した、枕を包んだ風呂敷の持ち手部分を両手で握りしめる。
そして。
決意を固めた私の目は、ギラリと光ったことだろう。向かいにいた侍女が、ヒッと息を呑んだ気がする。
その侍女の様子には気付かないノーランも。
私を不審げに見ている使用人達も。
てめぇら全員、お説教だ。
「……え?」
使用人の一人が上げたその声は、とても小さかった。
その音が私に届く直前には、私は大きく両腕を振り上げている。止めてももう遅い。
ブワッと風の音すらする勢いのまま、私は振り上げた手を、ノーランのお尻目掛けて──
思い切り! 振り抜くっ!
スパァァァン!
という小気味良い音とともに、風呂敷がノーランのお尻にクリーンヒット! その勢いにやられて、ちょっと前のめりになるノーラン。
「なっ……!?」
驚いてこちらを振り向いた彼は、狼狽えながら私を見やる。
「何をする!?」
「いえね、旦那様をはじめ、この家の方々は少々腑抜けていらっしゃるので、尻を叩いてやろうかと思いまして」
私のその返答に、口を開けて唖然とするノーランに使用人達。そんな彼らは無視をして、私は正面からノーランへと向き合った。いや、睨み上げた。
「……てめぇ」
「……へ?」
「てめぇ、いつまでもいつまでもネチネチウジウジしてんじゃねぇぞ! 何一人で悲劇のヒロインぶってんだ、行き遅れのおっさん!」
「……おっ、さ……!?」
「領地経営さえしときゃあいいってもんじゃねぇんだよ! 過去の女の無駄話する暇があったら、ちゃんと食べてちゃんと寝て健康な姿見せて、使用人と領民を安心させろや!」
一息に捲し立てた私に、これまた呆然とするノーランと使用人一同。
「いつまでも未練たらたらと、思い出にすがってんじゃねぇ! とっとと前向いて進め! てめぇに期待してくれてる殿下や使用人や領民を心配させるな! しっかりしろ、ノーラン・クレメント!」
ダン、と一歩踏み出した私に、ノーランはビクついた。しかしみるみるうちに眉間に深くしわが刻まれる。けれどそれが、私への嫌悪ではないことは見て分かった。なぜなら少し、目元が潤んでいるからだ。
私はふーっと長く息を吐き出すと、幾分、声色を落ち着けて言葉を続けた。
「たとえ王命でも、私とあなたは夫婦となったのです。私の夫がいつまでもウジウジとしているなんて、私は耐えられません。だから私は、何度でもあなたの尻を叩いて前に進ませますよ。そうでもしなければ、商会の女主人となって世界に名を轟かせることを夢見ていた昔の私が報われませんからね」
ノーランがまっすぐに私を見る。結婚してから目が合ったことがなかったけれど、今やっと、私のことを見た感覚がした。
「あなたほどの人間が、いつまでもつまらない者共に囚われているべきではありません。しっかりしてくださいませ、旦那様。しっかりとあなたを、ノーラン・クレメントを、取り戻してくださいませ」
そこまでで彼に言いたいことは言ったので、今度は使用人達へと向き直る。私の次なる言葉に、明らかに使用人達の肩が揺れた。
「ところで旦那様。旦那様は私への対応について、何か使用人に指示は出しましたか?」
「……いや……君が来た日に、言ったことしか……」
「そうですか。では、明日から使用人全員、給料を減額します」
「……え?」
ノーランの困惑の声とともに、使用人達がザワついた。短い悲鳴すら聞こえてくる。
「それは、横暴では……」
「横暴などではありません。私は公爵夫人。その立場の者に対し、今のお給料相応の仕事をした者は誰一人いません。食事も掃除も対応も、全ておざなりでしたから」
「……おざなり?」
「ええ。食事を例に挙げるなら、私に提供された食事は、とてもじゃないですが公爵家の食事としてはありえないものでした。美味しくなかったです」
分かりやすく、使用人は皆が青ざめている。
「あんなものを旦那様が普段から食べているのならば、旦那様はよっぽどの馬鹿舌ですね」
そういうと、ノーランは使用人達を信じられないものを見るような目で見つめた。そこでやっと、使用人達は彼ら自身の冒した罪の重さを実感したようだ。
「確かに私は男爵家の出身ですし、ぽっと出てきた王命での妻です。旦那様の過去のこともあって、使用人の方々からは受け入れられていないことも分かってはおりましたが……」
怯える彼らを前に、私はギッと使用人達を睨んだ。
「それとこれと、仕事の質を落とすのは話が違います。お給料が発生している以上、その金額に見合った仕事の質、量があるのです。あんな仕事に対して、今払われている給料をお渡しは出来ません」
料理人の顔色は白くなり、執事は俯いて、侍女頭は小さく震えていた。侍女の何人かは泣きそうな顔をしている。
「偏見や差別的な考えから、仕事の質を下げるだなんて愚か者のすることです。それに、そんなことをするだなんて自身の仕事に対する責任感がないものとみなされます。私が商会の主人ならば、そんなことをする従業員は問答無用でクビにします。ですが、ここは公爵家なので減額で我慢しましょう」
そこまで言うと、料理長が慌てて頭を下げた。
「お、奥様、申し訳ございませんでした! 食事は私の勝手な判断です! どうか、どうか、若い者達には……」
「謝らなくてけっこう。一度失った信頼は謝っただけではどうにもなりません。大切な花瓶を割って泣きながら土下座したところで、花瓶が元に戻らないのと同じ。私は公爵夫人という立場から、今の貴方がたの仕事ぶりを容認することは出来ません」
絶望したような料理長を前にそう言い切り、ノーランへと目をやる。
「旦那様、どうなさいますか? 私は彼らに対して、そのような印象を受けておりますけど」
ここでノーランに質問をしたのはわざとだ。私の問の意図を察してくれるかは賭けだったが、きっとノーランなら正しく答えを返すだろうとは思っていた。
「……不快な思いをさせてすまなかった。使用人の不手際は、私の責任だ。彼らは悪くない。彼らの行動は、いつまでも塞ぎ込んでいた私を気遣ってのことだ。どうか挽回の機会を与えてほしい。公爵家の使用人として恥じない仕事をしてくれる者ばかりだから……どうか、お願いだ」
ノーランが深く礼をした後、残る使用人達も揃って頭を下げた。何人かは土下座に近い形にまでなっている。
私は自身が望んだ答えをノーランがくれたことに満足していた。
割れた花瓶は元に戻らない。けれど、更に良いものを新しく作ることは出来ると思いたい。挽回の機会というのは、そういう思いからなることだと思う。
「分かりました。彼らへの対処は、旦那様にお任せします。これでも、使用人の皆さんが旦那様を大切に思っていることは理解しているつもりです。邸内も庭園も落ち着きがあり、どこもかしこも日頃から丁寧に手入れされているのは分かりましたから。まぁこのままの仕事ぶりだったら、私の中の旦那様の評価がとんでもない馬鹿舌のボンクラ主人ということになるだけですけど」
「……皆が、そうはならないようにしてくれる。アナスタシア、機会をくれてありがとう」
「とんでもございません」
話すことは話してスッキリした私は、この二日間で一番晴れやかな顔をして笑ったと思う。ノーランはそんな私を見て、目を瞠った。
「これでお分かりだと思いますが、私はお淑やかな公爵夫人になどなれません。口も出しますし、気合を入れるためなら尻だって叩きます。我慢も遠慮もいたしません。こんな私が嫌になったら、いつでも離縁を申し渡してください。ここまで好き勝手に言ってしまった以上、その覚悟は出来ておりますので」
そう言って、じゃあ皆様、仕事に戻ってください、と解散を促したのであった。
あったのだけど。
「すまないっ……! 本当に、すまなかった! 私が……私が、もっと、しっかり、していれば……使用人達も、あんなことをせずに、君を素直に、歓迎していたはずなのに……! 嫌な思いをさせてすまなかった!」
「それは十分に分かりました! 分かりましたから、泣き止んでください」
今目の前……というか、ソファに座る私の足にすがりついて泣いているノーランを前に、困惑するしかない私。
大人の男の人がここまで号泣してるのって初めて見た。本当に、まるで子供が泣くかのようにわんわん泣いて、ズビズビ鼻水を垂らしている。美形が台無しだわ、これじゃあ。
ドレスなんてもう涙が染み込んでいるぐらいだ。ノーラン自身も水分不足になりはしないかと心配になる。
あの。私が切れ散らかした後。
さっさと部屋に戻った私の元を訪れたのは、それはそれは大泣きをしていたノーランだった。
いやほんと。ぎょっとした。
思わずハンカチで涙を拭えば、アナスタシアは優しいな、と言って更に涙を流すのだから困るしかない。
とりあえず部屋に入れて、座ってくださいと言っても、隣に座るなんておこがましいと床に座る。私も床に座ろうとしたらだめだ、だめだ、とソファに押し付けられた。
諦めてソファに腰を落ち着けたところで、ノーランは土下座しながら話を始めた。
その話は、自身や使用人達の態度の謝罪から入り、私のブチギレについて心からのお礼を言われた。あんなにもはっきり言ってくれる人はこれまでいなかった、嬉しかった、とのことだ。お礼を言われるとはつゆほども思っていなかったので、ちょっと驚いた。
そしてノーランは、使用人達にも、不甲斐ない主人のためにすまなかった、と謝ってきたという。使用人達からは謝罪をされ、皆でひと泣きして、ここに来たとのことだ。だからこんなにも泣いていたのか、と納得した。
その辺りから土下座が正座になり、この三年間の話となった。
三年前に婚約解消をしてから、ノーラン自身は早く立ち直らなければと思っていたらしい。しかし周囲からあまりにも可哀想な者を見る目で見られ、無理をするな等励まされるばかりなので、自分はそんなにも可哀想な人間なのかと思い込むようになっていたとのことだ。
それに加え、可哀想な自分は元婚約者に想いを寄せていなければならない、と変な思い込みまでしてしまっていて、拗れていたそう。
それが今回、私から喝を入れられたことで、自分はもう立ち直ったと証明したいと思ったし、元婚約者のことも好きではないとちゃんと自覚したとのことだった。
あの一撃で目が覚めた、とノーランは言った。
話の間、私も相槌を打ったりしていたのだけど……気付けばノーランが足にしがみついて泣いていた。
「君が、私の、妻となってくれて! 本当に、ありがたくて……!」
「そう言っていただけて嬉しいです」
このやりとりを十回はやった。
「君は私に、光を与えて、くれて……!」
「そう言っていただけて光栄です」
これも今ので十回目ぐらいだ。
「私はなんて愚かな男なんだ……! 君のように素晴らしい女性が、妻になってくれたのに! なのに! 君を愛することはない、なんて言って! 取り消したい! 昨晩の自分を殴り飛ばしたい!」
「もう気にしておりませんよ。だから泣き止んでください」
これは五回目くらいかな?
「君はなんて優しいんだ、アナスタシア……!」
「こんなので優しさを感じるのは旦那様ぐらいですねぇ……」
そうして、ひたすら泣くノーランの頭を撫でていたら、今度は使用人一同が涙ながらに部屋へと駆け込んできた。申し訳ございませんでした、奥様! と、執事まで泣いていた。
これぞまさに、地獄絵図。
もう誰を励ましているのか分からなくなり、いつの間にかノーランが隣にいて、彼にぎゅうぎゅうと抱きしめられながら、使用人達からも取り囲まれて抱きしめられて……
いやもうほんと。勘弁して。とりあえず。皆一旦落ち着こう!
「もう! 分かったから! 一旦ストップ!」
立上がって叫んだ私。ノーランはちゃっかり手を握ってきたがもういい。好きにさせる。
「今晩、宴をしましょう。参加者はここにいる全員。食材など、人数分足りないものはメルシエ商会に手配させます。開始は遅い時間になってもいいので、今すぐ、準備に取り掛かってください」
「……宴?」
「三年間の労いと、旦那様の新たな門出を祝して。その不足物品をメルシエ商会で購入いただければ私は万々歳です。それで、この大泣き謝罪合戦をやめて、一からやり直しましょう!」
自分で言っておきながら、これはなかなかに良い提案だと思ったのだけど。
「……それではだめだ」
まさかのノーランから却下が。
「え、だめですか?」
「アナスタシアの提案は素晴らしい。しかし、今日は私だけの門出ではない。私達夫婦の門出だ」
そう言って、しゃきっと立上がったノーランは、そこから信じられないくらいテキパキと使用人に指示を出した。私の右手は彼の左手に繋がれたままだったけど。
「今日は私達夫婦の門出でもあり、我がクレメント家が生まれ変わる日だ。私達を明るい未来に導いてくれたアナスタシアを、心から歓迎する気持ちを込めて! 最大のもてなしを頼むぞ、皆の者!」
「はい!」
さっきまでの地獄絵図が嘘のように、あっという間に皆がいなくなった。
そして取り残されたのは、私とノーランの二人。
「アナスタシア」
ノーランは私の前にすっと膝をついた。そして私の左手を取って、薬指の、結婚指輪へと口付ける。
「私からも正式に……やり直させてほしい。君とちゃんと夫婦になりたい。こんなに情けない私だが、これから君にふさわしい夫となるべく努力をするから……どうか……私の非礼を、許してほしい」
少し眉を寄せて、それでも今まで見た中では一番生きる気力に満ちたその顔に、思わずドキリとしてしまった。私自身、こんな風に女性として扱われたことが初めてだったのもあるだろう。
今まで現場仕事をしているようなおっちゃん達や、元気の良い商人達の中でわいわいしてきたから、ちょっとどうにも慣れない。皆の前で披露したブチギレ口調も、完全に彼らの影響を受けてのことだし。
けれども……けれどもよ! 私ってこんなにチョロかったの!?
しゃきっとして、使用人に指示を出すノーランを見て、そして今の彼を見て、早くもちょっと見直してしまっている。
おいおい、どういうことよ、私。美形に泣きつかれて絆されたのか。おいおいおい、チョロすぎる。おいおいおいおい。
ううん、と咳払いをして、ひとまず、ノーランと目を合わせた。
「……私も汚い言葉を遣いました。公爵夫人としてあるまじき言動ばかりで……大変申し訳ございませんでした」
「いや、とても……かっこよかった。ありがとう。私がこうやってまた前を向こうと思えたのは、アナスタシアのおかげだ」
にこり、と笑われるともう。何だこの美形。
いや、私の夫だ、となるわけで。
「……私も、公爵夫人としてはまだお作法も十分ではありません。商売に関する知識はありますが、教養としては足りない部分もありますでしょうから、たくさんご迷惑をかけると思います。不束者ですが、よろしくお願いいたします」
そう言うと、見たこともないほど眩しい笑顔でノーランは笑った。思わず目を細めた私に、ノーランは更にとろけるような笑みを向けて、とうとう手の甲へと口付けを贈ってきたのだった。
その日の夜は、それはもう楽しい宴となった。
ノーランも私も使用人も。みーんなが笑って、私以外がまた泣いて。ごめんなさいとありがとうが溢れた宴だった。
しかもなぜかうちの商人まで参加させてもらっちゃって。
商人が私の話をそれはそれは面白おかしくするものだから、私は必死になって止めた。そんな私はノーランと使用人になだめられ、その隙にまた商人がベラベラと話をして……皆にこれまでの私の失敗成功話をたくさん知られてしまい……
「勘弁してよー……」
「アナスタシアは、なんて……なんて素晴らしい子なんだ! こんなにも素晴らしい女性が妻に来てくれるなんて! 私はなんて幸運な男なんだ!」
「おっしゃる通りでございます! 旦那様!」
「奥様ー! 本当に申し訳ございませんでしたー!」
「分かりましたってば! この白身魚のバターソテーも最高に美味しいし、この短時間にここまでの宴を準備した貴方がたは間違いなく、素晴らしい使用人だから! 邸内も来た時からとっても綺麗だしね! だからもういい加減泣き止んで!」
「お前達、妻を困らせるんじゃない。アナスタシアは私で忙しいんだから」
わいわいがやがや。公爵家としてはありえない雰囲気だっただろうけど。まぁ、一日くらいはこんなのもありだろう。皆のストレスも発散出来たようだし。
とにかく笑って、もう一度やり直しましょうと皆と握手をしてお開きとなった。
でもね。まさかこの日からノーランの寝室に連れ込まれるとは思ってなかったわよ。どういうこと?
「アナスタシアが私のことを愛してくれるまで、絶対に手は出さないし、君が嫌がることはしない! けれど一緒に寝てほしい! 君の寝顔を見ながら、私の妻はなんて素晴らしい人なんだと実感しながらその幸せを噛み締めたいし、朝起きて一番におはようと言いたい! 君からも言ってほしい!」
この人……こんなに熱烈で感情豊かな人なの? 穏やかという評価はどこにいったの? 私の気持ちを待つというところは、誠実ではあるみたいだけど。
まぁ、泣かなくなっただけ良しとしましょうかと思っているあたり、私は完全にチョロい人間である。
「……泣かないなら良いですよ」
そう言った瞬間に、ノーランの目からぶわっと涙が溢れた。
嬉し泣きだそうだが、ノーランは私を逃さないためにすぐさま抱きついてきて、固い握手を交わしたはずの侍女も二人がかりで扉を塞ぐように立っていて逃げ場がなかった。
もう諦めて、ここで寝ますから泣き止んで、と頭を撫でたら、ノーランはへにゃりと笑って、その笑顔にまた絆された。
もう何だ、この二十三歳児。勘弁してほしい。
ノーラン曰く、どうやら彼の感情の爆発は、ここ三年間で溜まりに溜まったものの反動なのだとか。そのうち落ち着くものなら良いのかな。私も開き直ろう。
「おやすみ、アナスタシア」
やけに幸せそうに笑うノーランを見ていると、これはこれで楽しめばいいんだろうな、と思った。
そんなこんなで……あっという間に、二年の月日が経ちましたが。
「おはよう、アナスタシア。愛しているよ」
「おはよう、ノーラン。私も愛して……」
る、と言い終わる前からノーランの手が伸びてきて、朝から熱烈なキスと抱擁を受け入れる毎日だ。もちろん、私も喜んでおりますけれど。
この二年で、ノーランの変わりように世間が沸いた。
結婚してから一ヶ月後くらいに、クレメント邸に遊びに来たフレデリク殿下が、ノーランのあまりの変貌ぶりに私が怪しい薬でも使ったのではないかと疑ってきた。
それに怒ったノーランが殿下に絶縁宣言をして、私が間を取り持たなければならなくなったりもした。
この件でフレデリク殿下と親しくなった私だったのだけど、しれっと父と弟は殿下にメルシエ商会の品を売り込むことに成功し、なんやかんやで王族御用達になったりして、商会を更に一回りも二回りも大きくしてみせた。
それからノーランの噂を聞きつけた元婚約者が帰ってきて、第四王子の女遊びが激しいと泣きついてきたこともあった。
やっぱり私にはノーランしかいないの! と泣く彼女を、使用人一同が意地でも家に入れないように努めてくれたりもした。
あまりにもしつこいので、最終的には完膚なきまでに私が黙らせたのだけど。ええ、それはもう、べっこりとヘコみきるぐらいに言い負かしてやりました。そしてノーランには一度たりとて会わせずに追い返すことに成功した。
そんな私にノーランは更に惚れ直したと踊りだす勢いだったのだが、その勢いのままサラサラ〜とどこかに手紙を書いて出したかと思えば、なんと第四王子が直々に私へと謝罪に来ることになっていた。
第四王子は、二度と彼女をこの家に近寄らせないと怯えながら約束して帰っていった。怯えた原因は何でも良いけど、私もノーランに惚れ直した一件となった。
と、そんなこんなで。色々ありつつも楽しく愉快な結婚生活を送っているのだが……
「……ねぇ、ノーラン」
「何だい?」
私は公爵夫人としてのお務めも果たしつつ、商会の経営もさせてもらえている。ノーランが是非やるべきだ、と勧めてくれたからだ。
今日はそのことで一つ。ノーランに話したいことがあった。
「最近ね、商会の皆からよくお小言を言われるようになっちゃって」
「なぜだい? アナスタシアはよく頑張っていると思うが……」
「自分達ばっかりじゃなくて、もっと旦那様にもかまいなさい、って」
え、と言葉を失ったノーランに、ちょっと気恥ずかしいけれど、とある提案をする。
「……うちの商会で扱う赤ちゃん用品の使い勝手とか……その、私が実際に使ってみて、良いところをたくさん広められたらいいかなって……思ってるんだけど……」
意味を察して、真っ赤な顔になったノーランだが、私もきっと同じ顔をしているだろう。初夜はとっくに経験済みではあるし、夫婦の営みだってちゃんとあるのだけど。
これは、まだ、本格的には始めてなくて。
「……こ、子作り、しませんか?」
「喜んで!」
一年後。私は元気な男の子を出産した。更にその下に男の子と、女の子と、女の子も。
なんとも、にぎやかな家族になったものである。私経営の商会も三つに増えた。万歳。
ノーランはとんでもない子煩悩な父となった。それに、使用人からも領民からも尊敬される当主となり、子供達にそのかっこいい姿をいつも見せてくれている。
使用人達も子供達を可愛がってくれて、本当に、ここに嫁いできて良かったなと実感する毎日だ。
国王陛下となったフレデリク陛下の御子息である末っ子の王子殿下と、次男が同い年である。ノーランと殿下のように、友人として仲良く成長していってほしいものだ。
「頼りにしてますよ、旦那様」
昔の呼び方をしながらそう言ったら、とても嬉しそうに子供達とともに私をぎゅうぎゅうと抱きしめるノーラン。
いつか子供達が大きくなったら、話してみるのもいいかもしれない。
お父様がお母様を好きになったきっかけはね……なんて。
真似はしてほしくないけどね。
おしまい。
お読みいただき、ありがとうございました!