月夜の来訪者 上
聖女としての仕事を終えて、食事とお風呂を済ませて三階にある部屋へ戻れば、空にはもうしっかりと月が昇っている。
これからがようやく自分の時間である。
とは言え、出来る事はそれほど多くは無い。
本の類は暗記出来ているくらい読み尽くしたし、疲れているとは言えどこのまま寝るだけなのは、ただ無為に時間を消費している気がして勿体ない。
なのでここ最近のノエルはと言うと――。
「よっこらせっと」
――――筋トレが、主な暇つぶしである。
聖女の仕事というのは、この館の中でほとんどが事足りる。
そもそも誓言を使うだけならば、動く必要がないからだ。誓言を使うまで邪魔さえされなければ、どこでだって誓言は使える。
国が許せば自分の足で外を歩いて、誓言を使ったって構わないのである。
ただ、まぁ、やはり安全性の面で問題があるので、許可が下りる事はないだろうが。
まぁそんな状況なので外出は制限されているし、カウフマンから聖女らしくと口を酸っぱくして言われて入るので、人前で腕立てもスクワットも出来ない。
そういう日々が続いていて、ある日ノエルはふと思った。
これはもしかしてまずいのではなかろうか、と。
誓言の聖女というのは、死ぬまで聖女と言うわけではない。
聖女の代替わりがいつ行われるかにもよるが、力が発現する七歳前後から、力が衰える三十歳くらいまでが、聖女として在る時間だ。
ノエルの年齢は十八歳。三十歳まで聖女として生きたとして、まだまだ十二年は同じ生活を続ける必要がある。
ちなみに聖女として働いている間の給金は出ているので、誓言の力が衰えた後の生活自体は安泰だ。
それに力が衰えたと言っても完全に消えるわけではないので、護衛もつくとノエルは聞いている。
大体は一緒に生活する内に騎士団長と恋仲になって――という聖女が多いので、旦那兼護衛、という形になっているようだが。
(まぁ私とカウフマン様はあり得ませんな)
お互いがお互いに良い印象を持っていないので、万に一つも夫婦なんてあり得ない。
うんうん、とノエルは頷きながら、腕立て伏せを終えた。
話は戻るが、三十歳まではそんな感じの生活になる。
だがそうなると替えが効かなくなるのが身体の方だ。
このままほとんど運動もしないまま三十歳に到達すれば、ノエルの身体能力は大層貧弱な物になるのではないか、と。
もしくは太って自力での移動も大変な状態になるのではないか、と。
そんなのはさすがに嫌である。ノエルだって性別は女性だ。三十過ぎてから好きな事をしたいし、美味しい物を食べたいし、ちょっとはお洒落もしてみたい。
なのでノエルは僅かな自由時間にこっそりと、筋トレをしているわけだ。
まだまだ始めてからひと月ほどだが、継続は力なり。なかなか良い感じになっているのでは、なんて想いながらノエルは力こぶを作っては、一人悦に入っていた。
出来れば他人にも見せてみたいが、その途端に「聖女らしくなさい!」などと怒られるのが関の山だろうか。
カウフマンなんて「筋肉をお求めでしたら、訓練メニューを考えますか? 騎士団用のなので寝込むと思いますが」なんて、冗談か本気か分かりづらい事を言われそうだ。
だけど、それにしても。
「十四年かぁ……長いなぁ……」
窓の向こうに浮かぶ月を見上げて、ふと、ノエルの口から本音が零れ出た。
いつか終わるというのは分かっている。けれど、出来ればもっと早く――自由に外を歩いて、遊んで、生きてみたいとも思う。
聖女として生きていれば生活は安泰だ。だけどノエルはたまに考える。誓言の力を持っていなければ、一体自分はどんな風に生きていたのだろうかと。
「いやー、まぁ、死んでいる可能性はあるにはあるんですよねぇ……」
「へー、そいつはなかなか物騒だなー」
「本当ですよ。まぁでも? 凄腕のガンマン! とか、凄腕の魔術師! とかだった可能性もゼロではないですし、そうだったら人生もまた違って……ん?」
ふと、ノエルは首を傾げた。
何となく普通に会話をしていたが、今、誰かの声が聞こえはしなかっただろうか。
聞いた事のない男の声に、ノエルは動きを止めると声の方へ、ゆっくりと振り向く。
そこには赤毛の陽気そうな顔立ちの少年が、軽く手を挙げて立っていた。歳はノエルと同じくらいだろうか。
「はーい、どーもーどーもー! こんばんはー!」
「こんばんは。誰かを迎え入れた覚えはありませんし、何ならノックの音も聞こえませんでしたが、どちら様ですか?」
「チッチッチ。相手に名前を聞く時は、自分から名乗るのモンじゃない?」
不法侵入者に常識を説かれてしまった。
思わず目を向いたノエルの脳裏に「聖女らしくないです」などというカウフマンのお小言の幻聴が響く。
今は大人しくしていて欲しい、と想いながらノエルはコホンと咳払いし、
「色々と納得がいきませんが、私はノエルと申します。恐れ入りますが、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか、コンチクショウ」
「丁寧と物騒が一緒にやって来てるじゃん。俺はクラナカンでっす。どうぞよろしく!」
クラナカンと名乗った少年はサムズアップしながらそう言った。
いささか軽すぎやしないだろうか。そんな事を考えながらノエルはクラナカンに顔を向けたまま、手の届く位置に置いてあった聖書を手に取り、
「それはそれは、こちらこそ」
――――その分厚い角で思い切り、窓のガラスを打ちつけた。




