5話 ああ……私、唐突に異世界の住人になったようです
『もう広島に帰っておいでぇや、花野』
え?
……ああ、夢か。
鼻血ブー事件の直前に、お母さんと電話した時の会話だ。
『あんた、仕事がしんどいんじゃろ?』
「そりゃ、社会人じゃけぇね。楽な仕事なんかなかろう。私は平気よ」
『ほんとに大丈夫かいね。あんたは何でも一人で頑張ろうとするけぇ心配なんよ』
「ほいでも」
『食事はちゃんとしとるん?』
「それは、その……近所にいいお総菜屋さんもあってじゃし」
『買うてきたもんばっかじゃいけんて、この子はー! ああもう、はぐいいわ。お母さんが側におったら』
「ご、ごめん。もう切るわ! 出掛けんといけんのよ」
単身上京した娘が苦労していないか?
危険な目に遭っていないか?
お母さんの心配が身に染みて、すごく有難いのに……私は慌てて電話を切った。打ちのめされて、くたびれて、引き際を見失ってることを知られたくなかったから。
きっと全部お見通しなのに、ばかだなぁ。
そうだ、早くお母さんに電話しなきゃ。
もう大丈夫だよって。
いつも心配かけてごめんって。
◇
大家さんと別れる直前、瞼の裏に透けるような青空がチラついた。
幻覚だろうと思ったら……なぜか今、私はその下にいる。
「……夜だったのに何で明るいの。と言うか、あれって」
朝日?
呆然と見上げた空は、薄い青からオレンジに綺麗なグラデーションを作っている。驚きのあまり大きく見開いた瞳を刺すのは、多分朝日だ。普通の感覚ではあり得ないくらい眩くて、キラキラとした光の粉を振り撒いているようにも見える。
おまけに、私の前に広がっているのはアパートの部屋ではなく、妙にノスタルジックでレトロな街並みだった。
縦横に伸びた石畳の道に、少しくすんだピンクや黄色のパステルカラーの建物がずらっと並んでいる。それも、2階から上部分の窓が張り出しになっているものばかりで、私には馴染みがない造り。遠くに見える半球型の建物は、まるで『アラビアンナイト』に出てきそうなデザインだ。
それに、私の格好もおかしい。着古してクタクタになった中学時代のジャージから、シンプルなワンピースに代わっている。
あああ……な、泣きたい。
漫画や小説じゃお決まりの陳腐な台詞だけど、言いたい。どうしても言いたい。言うぞ。
ここはどこ? 私はどうなったの? いつ着替えたの!?
「お嬢ちゃーん、泣きべそかいてどうちたんでちゅかー」
は?
「うひょぉ、可愛いねぇ。裏通りの娼館にいりゃぁ高値がついてるぜ。俺が慰めてやろうか」
「よせよ、こんなチビじゃ面白味もないだろ」
テレビやゲームでよく見るような典型的なモブキャラ“街のゴロツキA・B・C”が、下卑た笑い声をあげて通過していった。私はぽかんとして、それを見送る。
……あ、うん、絶対日本じゃないな。むしろ、今の時代、あんなマニュアル通りのチンピラは現存しない気がする。
だとしたら、ここは本当に……
「よう、嬢ちゃん」
ううっ……今度は何なの。ちょっとそっとしておいてよ。
絶望に打ちひしがれつつ顔を上げると、今度は強面のおじさんが私の目の前に立ちはだかっていた。
3mくらいありそうな巨体に、印象的な金髪の口髭。頬には大きな十字傷。シャツは今にも弾けそうなほどパツパツだし、盛り上がった筋肉が革の鎧からこんもりはみ出ている。
怖っっ!!
「そこはちょいと邪魔だな、どいてくれるか」
あああ、大家さん! 大家さん! 大家さあぁん! 初心者向きのポイントどころか、いきなり死亡フラグが立ってるんですけどーーーー!!
「何だ、泣いてんのか? 迷子なら駐在所まで送ってやるが」
「ひえっ、大丈夫です。ご親切にどうも」
「大丈夫って顔色じゃねえぞ。悪いことは言わねえから、落ち着くまで奥で休んでいけ」
「へ?」
おじさんの声には裏も思惑もない。ただ単純に、私を案じてくれている音だ。
私は動揺を鎮めるために、口をすぼめて深く息を吐いた。
ふうぅぅぅぅーー。
すっかり息を吐き切る頃には、あらびっくり。周りの景色が驚くほどクリアになっていた。
「お前さんが通せんぼしてるこの建物は、俺が懇意にしてる宿屋なんだ」
「宿屋……あ、すみません。私、入口を塞いでたんですね」
飾り気のないペールピンクの建物に、こじんまりとしたドアと丸窓。少しこじゃれた外灯があるだけで、お宿と呼ぶには残念すぎる外観だけど。
「ハハハ! お前さん、今、地味だと思ったなー?」
「い、痛っ」
笑い飛ばしながらビシバシ背中を叩かれて、私は瞬時に涙目になった。
背骨が粉砕骨折したかもしれない……。ねえ、大家さん。ちょっと野蛮すぎない? この世界。
「図星だろう。だが、居心地の良さは俺が保証するぞ! さあ、入った入った」
筋肉おじさんは、ドアの中央にある真鍮の輪っかをドアにガシガシ叩きつける。どうやらインターホンの代わりみたいだけど、ドアは削れ、塗装が剥げてなんとも哀れな見てくれになっている。
そしておじさんは、応答を待たずに私を中に押し込んだ。
「わっ、押さない……で…………え?」
前のめりになった私は、びっくりして鼻をひくつかせる。
「これ、畳の香り……!」
慌てて室内を見回すと、入口の正面にはフロントとこじんまりとしたロビーがあって、その隅の休憩スペースらしい小上りがまさかの畳敷きだった。ほのかに漂う和室の香りの正体はこれだ。
基本の床は柔らかい色合いのフローリングで、内装のそこかしこに使われている木が温かい印象だ。白を基調とした壁のおかげで明るいし、無機質な外観からは想像できないくらいホッとする。
まさかだけど、うちのアパートに少し似てるかも?
「タタミを知ってるなんて物知りだな。ここは、異国風にリノベーションされた宿なんだ」
なるほど! この世界で言う“異国風”は和風ってことか。あー、よく見ると、つまみ細工の花飾りや陶器の一輪挿しが飾られてるしね。
ふむふむと頷いていると、フロントの奥から若い男性が顔を出した。
「おかえりなさい、ボルトさん」
え?
あ、あれ、この人って……。
読んでくださってありがとうございました!
※次回の更新は、明日を予定しています。