2話 今日こそ毒上司にサヨナラします!
――ポンッポンッポンッ
LINE+の新着メッセージ通知音が五月雨に鳴り、私は小さく唸った。
メッセージの送り主は見なくても分かる。
百合子だ。
渋々スマートフォンのホーム画面をチラ見すると、案の定『例の事件からそろそろ一ヶ月だね。あんなことがあったのに、朝比奈さんって本当に神経が太いよね』と表示されている。
うんざりした私は、乱暴な手付きで電源を切った。
「お電話ですか?」
「いえ、LINE+のメッセージです。お話中に喧しくてすみません」
「構いません。返信はしなくていいんですか?」
不動産屋のカウンター越しに、若い女性店員がにっこり微笑んだ。突き刺せば人を殺せそうなほど鋭いキラキラネイルにすっかり怯えた私は、ふるふると小さく首を振る。
「職場の元上司からなので後にします……」
そう、元上司ね。
結論から言うと、私は営業部から総務部に異動した。
あの後すぐ、私は総合病院の夜間救急へ駆け込んだ。無事に処置がすんで、窮地を救ってくれたタオル(と言う名のボロ雑巾)とお別れできた時は心底ホッとしたわ。
でも、診察してくれた医者が青い顔で言うの。それはもう神妙な面持ちで、「心療内科の受診を強く勧めます」って。で、翌日仕方なく受診した結果、高血圧の薬と一緒に『休養、もしくは負担軽減のための環境調整が必要』って診断書を出されたわけだ。
それを会社に提出する時は、断頭台に立たされたフランス王妃の気分になった。どんな報復をされるかが恐ろしくて、部長の顔が怖くて見られなかった。
だけど、医者の「心身症の疾患は多岐に渡りますが、全部聞きますか?」(=「放置していると総当たりで出てくるぞ? お? いいのか? いいんだな?」の意)の一言でとうとう観念した。
「まさか、どうして、私が?」と疑う反面、思い当たる節はいくつもあったから。認めるよ、体の異変は心が原因だった。
もう降参。私はついに白旗を上げた。
人事・労務部との面談は、拍子抜けするほどあっさりすんだ。そして、比較的残業の少ない部署への異動が決まって今に至るわけだけど……そのスマートな対応も腹立たしかった。これまではどんな悪事も黙認してきたくせに、やればできるんじゃない。
まあ、多分、過労死問題を回避したかったんだろうね。なんたって私は、①突然の大量出血 ②ストレスで激ヤセ ③大量発生する10円ハゲの豪華3点セットの危険人物だからね。
……なんて散々毒を吐いたけど、正直なところ今度の采配は有難かった。「晴れて鬼畜女から逃げられたことだし、体調を整えて心機一転頑張ろう!」と思った。
本当にそう思ってたんだけどな……。
「でも、元上司は異動に納得してなくて、毎日小言を送ってくるんですよね」
「ははあ、面倒なのに当たっちゃいましたね」
ほんっと面倒くさい。
血が付いたスーツを一式弁償した後、異動の腹いせに「やっぱりこっちのブランドのにして!」ってもう一着買わされたしね。このまま一生百合子にいびられていくのかと思うと気が滅入るよ。
私はカウンターを吹き飛ばす勢いで溜息を吐いた。
「今のマンションにいると暗黒時代の記憶が蘇ってくるんです。気分が落ち込みっぱなしで……そんな訳で、心機一転引っ越しをですね」
「なるほど。栄えある第一歩に弊社を選んでくださって嬉しいです。景気づけに弊社のイチ押しを紹介しちゃいますよ!」
殺人ネイル(仮)の店員は、目を輝かせながら物件案内のプリントを差し出した。若干引き気味の私は、言われるがままに視線を落とす。
お? どうやらメゾネットタイプのアパートらしい。
「オシャレですね」
「ええ。ですが、オシャレなだけじゃありません! 好条件のオンパレードなんです!」
「へ? はっ、はい」
「快速の始発駅から徒歩5分の好立地。周囲は閑静な住宅街で、スーパーやコンビニも充実。築1年。南向きの1DK。風通しOK。防犯面で安心な2階の202号室。カメラ付きインターホン。バス・トイレ別。収納もたっぷり。白を基調とした内装はオシャレで、フローリングや扉の明るいベージュがいいアクセントになっています。もちろん広さも申し分ありません。オーナー様のご意向で入居審査はかなり緩めです! にもかかわらず、家賃は破格の7万円ジャスト!! 」
……え、あ、うん。
こ、この人、息継ぎもろくにしてなかったよ? ほにゃららショッピングの販売員じゃないの……?
一般人らしからぬ口ぶりに気圧されつつも、優良物件だってことは十二分に理解できた。とにかくすごい。
店員の顔を上目遣いでチラッと見ると、自信ありげな微笑を浮かべている。今気付いたけど、周りの男性店員達も「最高ですよ! お値打ちですよ!」と言いたげだ。
でも、営業畑で培った嗅覚が言ってるんだよなぁ。うまい話には裏があるって。
「この辺りの家賃相場って、ワンルームで10万くらいですよね? こんなに安いってことは、さぞすごい事故物件なんじゃ」
「と思いきや、まさかのクリーンです! ホワイト!」
「こ、このアパートに決めます!!」
ホワイト・クリーン系の単語に飢えていた私は、すかさず即答してしまった。衝動的に喉から音が出ていた。
ああっ、神様。もしどっかにいるなら全力で感謝します!
「ただし、少し変わった入居条件がありまして。
『入居者全員での共同作業に参加可能な方。かつ、ファンタジーに嫌悪感がない方』と言う内容なんです。過去の退去者様にヒアリングしたところ、特に何もなかったと言うことですが」
私は首を傾げる。
共同作業って言うと、アパート周辺のごみ拾いとか共用部分の掃除だよね。そっちはいいとして、ファンタジーについては謎でしかない。大家さんの趣味ってこと?
「多少気にはなりますけど、私、漫画は大好きなので」
何なら、ブラック企業に忙殺される前まではライトなオタクだったしね。こだわりはそれほど強くなくて、正統派からBLまで手広く愛せるオールラウンダー(自称)だった。
まあ、とにかく、奇跡の物件を手放すほどの障害にはならないわ。
「では、早速、内部見学に出ましょうか!」
「はいっ」
「……の前に、本当に成人されていますよね? とてもお若く見えるので、あの、ですね」
「24歳です。間違いなく成人済みです」
「ね、念のため身分証明書を確認しても……?」
小中学校の記憶はもう薄っすらとしかないですよ。お酒も飲めますよ。免許証はもう少しでゴールドになりますよ。
私の人生であと何回この問答を繰り返すんだろう、とほほ。
読んでくださってありがとうございました!
※次回の更新は、明日を予定しています。
話の進み方はゆっくりですが、のんびりお付き合いいただけると有難いです。