20話 つ、ついに毒上司と対峙します!
就職してからはいつも寝覚めが悪くて、朝日の眩しさが鬱陶しくてたまらなかった。
食事は何を食べても味がしなかったし、お腹も体も冷え切ったままだった。
一番の苦行は、出勤前の身支度だ。縦長効果のあるストライプのスーツに袖を通して、美脚ストッキングを履く。口紅を厚く、濃く塗る。鏡を見ながら大人びた表情の練習をする。毎朝のルーチンをこなし、通勤電車に揺られる頃にはもう気持ちが死んでいた。
でも、今日は違う。
フルチャージされた感覚が心地よくて、モヤモヤした気持ちまで吹っ飛んで、久しぶりに真っ新な朝が来た。
おまけに、イケメンの見送り付きと来たらもう。贅沢の極みだよね。
……とは言え、更澤さん。
圧倒的に情報不足だし、サポート体制が杜撰すぎるのは大いに不満ですけどね! ちゃんと不満ですからね!?(大事なことは2度言っておく)
「ごめん、やっぱり不満だった……?」
ん?
しょぼくれた声に促されて、私は我に返った。
すると、異動先での教育担当・春田さんが、神妙な様子で私の顔を覗き込んでいた。元々の垂れ眉が更に下がり、絶望的なほど悲痛な面持ちだ。色白で透けるような肌は、文字通り今にも消え失せてしまいそうだ。
「総務は縁の下の力持ちだけど、営業に比べたら地味だもんね」
「ええ!?」
「それとも、指導担当の私に不満があるかな」
「春田さんのことじゃありません!! 別の人、いや、アパートにいる黒猫のことを考えてたんです! 私、脳内のあれやこれやが勝手に漏れ出す癖があって……!」
「え、あ、あはは。何それ? でも、ちょっと安心したー」
涙目の春田さんは、安堵したようにふにゃっと笑った。
あああ、天使……こんな素晴らしい先輩に不満なんかあるはずがない。百合子が毒々しいオニユリなら、朗らかな春田さんはタンポポだね。
「じきにお昼だし、もうちょっと頑張ろうね。それで、仕事はどう?」
「各部の消耗品の補充と、不足分の追加発注をすませてあります。マーケティング部のプリンタで不具合が出ていたので、業者に復旧作業も依頼しました」
「経営会議の資料は?」
「朝一でファイリングし、全社ファイルサーバにスキャンデータを格納しました。全社発信済みです。それから、先ほど頼まれたプレスリリースも作成して、部長に提出しておきました。今は、先日の入社式の報告書をまとめているところです」
「……はー……」
仕事の進捗を報告し終えるや否や、春田さんは頬に手を当て、深く息を吐いた。その意図が分からない私は、あたふたしながら報告書を確認する。
「あの、何か? 誤字脱字でもありました?」
「朝比奈さん、すごいね。異動してまだ一ヶ月くらいなのに仕事が早い。本当に助かるよー」
不安を一気に吹き飛ばすような明るいトーンだった。ポンポンと叩かれた背中がじんわり温かくなり、強張っていた体がスーっと解けていく。
でも、「ありがとうございます」と言おうとしたところで、喉がギュッと締まった。
春田さんの背後に見慣れたシルエットを見つけたからだ。
「ちょっと、そこ? 褒める相手はこっちでしょ」
声を聞いただけで、一瞬で背筋が凍り付いた。柱に寄り掛かった百合子は、什器の発注書らしい書類をヒラヒラ揺らしながら、満悦した笑みを浮かべている。
「だって当然でしょ。あなたに仕事の基礎を叩き込んだのは私なんだから」
「……」
「だから、余計に悔しくって。懇切丁寧に指導してあげたのに、やっと戦力になって来たところで総務に横取りされてー」
はああぁ!? 体よく雑用を押し付けられただけで、特に何も指導してもらってないわ! それに、業務効率が悪いだの、使えないだの散々ディスって追い詰めたくせに!
……ああ、まただ。また脳内で文句言ってる。
だめだな。頑張るって決めたのに、百合子を前にすると一気に体が縮こまる。これじゃ前と何も変わってない。
「それより、朝比奈さーん」
書類を春田さんに手渡しながら、百合子が唐突に私を呼んだ。その表情は不気味なほどにこやかで、思わず口の端が引き攣ってしまう。
「な、何でしょうか」
「その後の体調はどう? 鼻血は?」
「その節はご迷惑をおかけしました。おかげさまで回復しま」
「そう!! そんなに元気なら、営業に戻ってこられるんじゃないの?」
私は反射的に「え!?」と声を上げた。奈落のどん底に堕とされた気分だった。
「手付かずの新規案件が山ほどあって困ってるのー。ほら、朝比奈さんって新規顧客に警戒されないし、ヒアリングに行ってほしいんだよね。ベビーフェイスが役に立っていいじゃなーい?」
あ、あんたねぇ!?
百合子は猫なで声で「ね? ね?」と繰り返し、くねくねしながら距離を詰めてくる。
私は一歩だけ後ずさり、怒りと恐怖で震える顎をぐっと持ち上げた。
「あのっ、私は……! わ、私の異動は会社の判断なので……」
あーあ、なんて弱々しい声。しかも、情けないことに「なので」の先が一向に続かない。言葉巧みに言い包められる前にガツンと拒否しなきゃいけないのに。
すると予想通り、百合子は面白くなさそうに腕を組んで言った。
「何それ? 元はと言えばさー、朝比奈さんの健康管理が悪」
「ストーーップ!! うちの期待の新人をいじめないでね。異動は人事の判断なんだから、朝比奈さんへの直接交渉は控えてくださーい」
は、春田さん……?
毒づくオニユリの前に立ちはだかったのは、まさかのか弱いタンポポだった。でも、その背中は大きく、少しも力負けしていない。
「いきなり何よ、春田」
「人手不足なら総務の方が深刻だよ。こっちは広報も兼任なのに5人しかいないんだから。それに、確か営業には新卒入社組が10人も配属になったでしょ?」
「だって、あの子達は戦力にならないし」
「朝比奈さんだってまだ3年目。総務でじっくり大切に育てます! あ、そうだ、朝比奈さん。午後イチでミーティングだし、お昼に出よ?」
「ちょっと!」と食い下がる百合子を軽くあしらって、春田さんは私の手をきつく握った。そして、華奢でか弱いイメージとは裏腹にフロアをずんずん進んでいく。
「あ、あの?」
私は状況が呑み込めず、ヨロヨロと引き摺られるように付いていった。
「性格がひん曲がってるでしょ、あの子」
人気のないエレベーターホールまで来たところで春田さんは立ち止まり、総務部の方向に向かって下まぶたを引き下げた。ベーッと舌を出す仕草に面食らった私は、まごつくばかりで何も言えない。
「私、百合子とは同期なの。私はもう慣れっ子だけど、朝比奈さんは苦労したんじゃない?」
「そっ……」
「そりゃぁもう!」と言いかけて、私は口を噤んだ。
思いっきり肯定したいけど、私にも悪い所はあった。頑として「できません」「嫌です」って言い返せば、カモにされずにすんだのかも。
「何も言えずに辞めちゃった子が実はいっぱいいるの。だから、さっき朝比奈さんが言い返した時ね、『スゴイ! カッコいい!』って思ったよ。強いね。うちに来てくれて本当によかった」
あまりに気弱で、惨めな最初の一歩。
だけど、“何か”は変えられた……?
「ねえ! ランチは逃げ出す口実だったんだけど、本当に一緒に行かない?」
「でも、私、お財布が」
「いいのいいの、今日は先輩の奢りだよ♪ パン食べ放題のカフェがあるの。朝比奈さん、パンは好き?」
「う、はい。大好きです」
「そのお店はブルスケッタが絶品でね、スカートのホックがいつも止まらなくなっちゃうの。内緒だけど」
「……私、今日のスーツはウェストゴムなので大丈夫です!」
「あは、それなら良かった!」
今日のランチは、お腹いっぱい美味しいものを食べたいな。
きっと、お腹も体も温まるから。
入社してから初めて、そんな風に思った。
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拙い小説ではありますが、引き続きお付き合いいただけると嬉しいです!




