逃げる令嬢と追う王子~私、絶対に捕まりませんので~
「ラナウェイ公爵令嬢!チェイス第一王子の名において、今日この卒業パーティーの場で……おいっ!待てっ!!逃げるなっ!!!」
「待てと言われて待つ淑女はおりませんわっ!ごきげんようっ!!」
制止を振り切って颯爽と駆けだすラナウェイ。すでに高いヒールの付いた厚底靴を脱ぎ捨て、走りやすいように靴底に金属製の滑り止め用部品を装着した特製逃走専用靴『エスケーパーver2.01』に履き替えている。会場を出てもスピードを全く緩めないまま、瞬時着脱機能付き改造ドレスの面ファスナーをびりびりと外して脱ぎ去り、くしゃくしゃに丸めて適当に放り投げる。思わず両手で目隠しをする学園の生徒達。だが、下着同然のTシャツとショートパンツ姿になったラナウェイは周りの視線を気にすることなく風のように走り抜け、学園の外へと飛び出す。
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ラナウェイの逃げ癖は今に始まったものではない。幼い頃から大人しく机に向かって勉強することが苦手だった彼女は、いつも隙を見て王太子妃教育から抜け出していた。当然子供の脱走なので、すぐに家庭教師や使用人達に捕まってしまうのだが、それを繰り返していく内に彼女の逃走スキルは磨かれていった。婚約者であるチェイス第一王子とのお茶会も頻繁にすっぽかした。彼のことが嫌いだったわけではない。むしろ爽やかでつい見惚れてしまう均整の取れた容姿も、透き通って甘く響く耳に心地よい声も、優しく穏やかな性格も全てが初めて会った時から彼女の心を虜にしていた。だからこそ、そんな彼と二人きりで一緒に過ごすなどという緊張感に、彼女のノミの心臓は堪えられなかったのだ。
ラナウェイが問題行動を起こすだけならば早々に何らかの処分が下され、婚約解消されて当然だったのだが、彼女の逃走への飽くなき情熱は、様々な研究成果を生み出し、王国の技術発展に貢献することになった。『エスケーパー』と名付けられたスパイクシューズは、改良することで寒冷地や山地への行軍に重宝する軍靴に様変わりした。彼女が野生のゴボウの実から着想を得て発明した面ファスナーは、その着脱の容易さから子供や高齢者、病人の衣服などにも転用されるようになった。若者の間では、ラナウェイが遁走時に着用するTシャツが、ドレスやタキシードよりもお洒落で機能的な服装とされて大流行している。そういった様々な功績が評価されて、彼女の淑女らしからぬ立ち居振る舞いも見逃されているのだった。
一方、当初こそ自分の姿を一目見ただけで脱兎のごとく逃げ出すという婚約者のあまりの仕打ちに、ただ傷つき落ち込んでいたチェイス王子だったが、次第に彼女の振舞いによって、彼の奥底に眠る本能が刺激され始めた。『逃げるものを目の当たりにすると無性に追いかけたくなる』という動物的習性。太古の昔、人間のオスが生き残るために狩猟生活を送っていた頃から現在に至るまで脈々と受け継がれてきたその抑えきれない衝動が、チェイスの温厚な性格を徐々に変貌させていった。
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「待てぇえええええ!ラナウェイィィイイイ!!!」
雄叫びをあげながら貴人ではなく鬼神のような形相でラナウェイを追うチェイス。みるみる彼女との距離を詰めていく。彼が履いている靴には小さな車輪が埋め込まれている。『ローラートラッカーvol.23』と名付けられた特殊追跡特化靴を装着したチェイスは、直線距離において他の追随を許さない速度での走行を可能にする。
「なかなかやりますわね、殿下!でも、その靴には致命的な弱点があるのでは?」
そう言うと、ラナウェイは突然直角に進路を変えて路地へと走り込んだ。あとほんの少しで触れる距離まで追いつきそうだったチェイスの手は空を切り、猛スピードでそのまま真っ直ぐ通り過ぎてしまう。
「おのれえええぇぇぇぇ…」
チェイスの断末魔のような声が徐々に遠ざかっていく。数秒後、ガシャアアアンという凄まじい衝撃音が辺り一面に轟いた。
「…さて…そろそろフェーズ2に移行するべきかもしれませんね…」
彼女が胸元から取り出したホイッスルを鳴らすと、辺りから彼女と全く同じTシャツ、ショートパンツ姿に仮面を被った若者達が、何処からともなくぞろぞろと現れた。ラナウェイが事前に報酬として配っていた服装を身に付けて、その対価としてこの学園前の市場へと集まるよう指示されていた者たちだった。
「作戦通りね。後は、彼らに紛れて優雅に逃げるだけ…そろそろハスキーが仮面を持ってきてくれるはずなのだけれど…あっ、遅いじゃない!」
一つの仮面を手に、若者達と同じ格好で近付いてくる姿を見つけ、慌てて駆け寄るラナウェイ。
「もう!先に殿下がやってきたらどうしようかと思ったわ…………えっ……なんで……あなた……すね毛が……そんなに濃いの…?」
近寄って初めて、目の前のメイドのハスキーだと思っていた人物に、明らかにムダ毛処理を忘れたなどという次元ではないすね毛がびっしりと生えていることに気付く。だが逃げようとする間もなく腕を掴まれ引き寄せられる。
「策士策に溺れるとはこのことだな、ラナウェイ!」
「で、殿下…なぜここに…」
「すみません、ラナウェイお嬢様。殿下に捕まってしまいました」
申し訳なさそうに頭を下げるハスキーの姿がそこにあった。
「いい加減に観念するんだ!」
(ああ…もうお仕舞だわ…)
絶望するラナウェイの脳裏には、先日偶然目にしてしまった光景が浮かぶ。男爵令嬢と笑い声をあげて楽しそうに話すチェイスの姿。それを目撃したラナウェイの心の中には『逃げる』という選択肢しかなかった。婚約者であるのだからチェイスや男爵令嬢を問い質す権利は彼女にあったはずだった。きっと世の中には婚約者に近寄ろうとする女性に対して堂々と嫌がらせをするような人間だっているのだろう。だが、ラナウェイには到底そんなことはできなかった。その理由はどこまでも単純明快である。彼女のメンタルは、どこまでもどうしようもなくよわよわだったのだ!
「どうして話も聞かずに逃げ出したんだ!」
「…だって…殿下に婚約破棄されたくなくでぇっ!宣言される前に逃げ出せば無効になるかと思っでぇぇ!」
「なんだその理屈は…」
当然宣言を聞かなければ成立しないなどという規則は存在しない。堪え切れず嗚咽しているラナウェイを見つめながら嘆息して、かぶりを振るチェイス。
「はあ…俺はお前の誤解を正そうとしただけだ」
「はい?」
「お前…俺がカマセーヌ男爵令嬢に恋していると、勘違いしているんじゃないか?」
「ええ…違うのですか?」
「やはりか…彼女は俺の追跡用特殊兵装の開発を秘密裏に手伝ってもらっている研究員だ」
「そ、そんな…だってあんなに楽しそうに歓談していらっしゃったのに」
「新しい装具が完成すれば、お前を今度こそ捕まえてゆっくり話ができると思って喜んでいただけだ」
「……どうしましょう…私ったらなんて恥ずかしい思い違いを…」
真っ赤になるまで上気した顔を両手で隠して小刻みにプルプルと震えるラナウェイ。
「まあいい、これで疑いは晴れただろう?これからは二度とこの手を離さないからな…」
「えっ…嫌です…そんなことをされたら心臓が破裂して死にます」
「将来俺の妃になるのに手を繋ぐだけで一々死なれてたまるか。そもそも婚約破棄されたくなくて逃げていたんだろうが」
「それはそれ、これはこれです」
早くもチェイスの腕を引っ張ってじたばたと逃がれようとしているラナウェイ。
「こうなったら拘束具でも用意しておくべきかもしれないな」
「ひっ」
物騒なことを言い出すチェイスに青ざめて小さな悲鳴をあげる。
「冗談だ。……ラナウェイがプレッシャーに滅法弱いのは知っているし、そんな性格も全部ひっくるめてお前を愛しているんだ。逃げたくなったらいつでも逃げていい。もし逃げるのに疲れたり、寂しくなったりしたら、いつでも地獄の果てまで追いかけて捕まえてやるから安心しろ」
(……ああ…私は、今までチェイス様に捕まえてもらうために逃げていたのかもしれません…)
意を決したラナウェイは生まれて初めてありったけの勇気を振り絞り、チェイスに駆け寄り背伸びをしてその唇にそっと口づけした。突然のことに呆気に取られるチェイスを置いて、走り出した彼女。途中で後ろを振り返り、声を掛ける。
「ふふっ。王子、私を捕まえてごらんなさい!」
「………待てぇえええ!!!ラナウェィイイイイイ!!!」
先程まで完全に空気になっていた仮面を着けた若者達の生温かい視線に見守られながら、二人の逃走追跡劇が再び始まった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「全く…お嬢様にも困ったものです」
一人溜息をつきながら、ハンカチを目に当て僅かに震えた声で独り言を呟いているのはメイドのハスキー。彼女はチェイスに前もってラナウェイの逃走経路と方法を密告し、仮面やTシャツ、ショートパンツを渡していた。彼女が本当は『捕まえられたい』と思っているという女心を彼に説明したうえで、面倒で臆病で小心者な、そして誰よりも大切な妹のような主人を捕まえてくれるよう頭を下げて頼んだのだった。
「ああ、必ずラナウェイを捕まえると約束しよう。彼女は素晴らしい家族に恵まれているようだな」
温かい声音で掛けられたその言葉に(この方がお嬢様の婚約者で本当に良かった…)と心の中で呟いたハスキーだった。