医療機関を受診する時には健康保険証を忘れずに(三十と一夜の短篇第41回)
紙の被保険者証があった頃、平成の一桁代の時代辺りを想定しています。もう社会保険事務所はないですから。
一泊二日で出張すると決まり、かれは仕事道具一式と簡単に着替えなどの泊まりに必要な品を揃えて、カバンに詰め込んだ。一泊に過ぎないので、保険証は出張の持ち物の内に入っていなかった。
健康保険の被保険者証、横長の紙を三つ折りにしてあり、折られた一辺には被扶養者欄としてかれの妻子の名前と生年月日と続柄が記してある。子どもがまだ小さい為、何時小児科に駆け込む事態になるか知れないので、自宅に、妻に預けているのが一番いい。
「おとーしゃん、あしたおしごとでいないの?」
「そうなんだ、おかあさんとお留守番していてね」
「やあだあ、かえってきてよお」
「いい子にしていたらお土産を買ってくるから」
「おとうさんは大事なお仕事でお出掛けしてお泊りなんだから、困らせるようなこと言っちゃいけませんよ」
子どもは唇を尖らせて、はあいと小さく答えた。なんて可愛いんだろう。かれは我が子が可愛らしくて仕方がない。
かれは次の日、新幹線に乗って出張に出掛けた。家を出る前、子どもは行くなと駄々をこね、抱き上げ、頬ずりをしてやらねばならなかった。妻は手こずる夫に苦笑していた。
出張先に到着し、訪問先での仕事の話は順調にまとまり、夕方に職場への簡単な報告の電話をした。旅先での楽しみはこれ、と、かれは宿で聞いた料理屋に行って、地元の名物に舌鼓を打ち、地酒を味わった。いい気分になった頃合い、会計をし、外に出たら、雨が降っていた。出張先は好天の天気予報だったので、傘を持参してきていなかった。宿は近いからと、かれは早足で宿に戻った。
雨に濡れたが、服は一晩吊るしておけば朝まで乾く程度だ。しかし酔って温まったはずの身体が雨にあたった所為か、寒気を感じた。不味いと思ったが、酔ったまま熱い風呂に浸かるのは危険だ。ざっとシャワーを浴びただけにして、家に電話した。
「まあ、遅くまでお疲れ様。あの子ならおとーしゃん、おとーしゃんと言っていましたが、もう寝ましたよ」
「そうか、もっと早く電話すればよかったな」
「本当にもうあの子はあなたが大好きなんだから」
「大変だったね、俺も休むよ。お休みなさい」
「お休みなさい」
翌朝の目覚めは良くなかった。熱っぽい。かれはチェックアウトの際に、フロントで体温計を借りて、熱を測った。
三十八度。市販の熱さましや風邪薬を飲んで新幹線に乗り込んで、到着してから医者に行っても大丈夫だろうか、そう考えるのも辛いくらいに目の前がくらくらしてきた。更に熱が上がるかも知れない。
宿のフロント係が見兼ねて、近くの医者があるとか、タクシーの手配が必要かと尋ねてきた。帰りの新幹線の時間は大丈夫のはずだ。先に医者に行こう、と川に流されるように決まった。
タクシーを呼んでもらって、近くの内科医に連れていってくれと頼んで、着いた先の医者の窓口によろよろと辿り着いた。
窓口の職員はお手本のように正確で事務的に声を掛けてきた。
「初診の方ですね? 今日は如何なさいました? 保険証をお願いします」
「仕事で出張してきて、保険証は持っていないんです。昨日の夜の雨にあたって、風邪をひいたみたいで、熱が出てふらふらするんです」
「それは大変ですね。ただ保険証をお持ちでないと、一度全額負担していただいて、保険証を拝見して、保険負担分をお返しすることになります」
「全額負担は仕方ないですが、出張先に保険証を見せにだけ来るのはちょっと無理です」
「それでは保険診療の明細をお出ししますので、それと領収書を職場か社会保険事務所に提出して、払い戻しを受けてください」
保険証を持って医者に行くと、何割負担だったかも頭に浮かばず、かれは窓口担当職員の言うがまま肯くしかなかった。
医者からは風邪、いくらか疲労もあって症状が進むのが早かったんだと思いますよ、と診断された。飲み薬だけでなく、点滴もすれば回復が早いですよと言ってきた。
早く帰るか、この熱と不快な体調から逃れるのがいいのか、判断できないくらいになっていたので、医者は看護師に点滴の指示を出し、かれは午前中まるまる医者のベッドに拘束された。
窓口で提示された金額に目を丸くし、手持ちの金額で何とか間に合うので、支払いをした。土産だ、帰りの新幹線の指定席の料金だのは、駅の構内のATMで下ろさないといけないなあと心の中で嘆息した。
自宅に戻り、事情を話して、その日は子どもと遊んでやることもなく、土産物を妻に任せて、寝床に入った。子どもはかれにじゃれつきたがったが、妻から止められ、土産物を渡され、それで遊んで気を紛らわせていたようだった。きちんと相手をしてやりたかったが、風邪をうつしてはならないし、翌日は職場に行って、きちんとした復命と、保険診療分の払い戻しをしなければならない。
「災難でしたわね」
妻がお粥やら卵酒を用意して、かれを労わってくれた。妻の心遣いだけで回復できそうだと、嬉しかった。
しかし、本当の災難はこれからだった。
職場に行って、復命やその後の仕事に支障は全くなかった。しかし、保険診療明細証明書と領収書を持って、払い戻しの手続きの為に庶務課に顔を出した。
「出張先で雨に降られて、風邪をひいて医者に行ったら、保険証を持っていなかったからって、全額負担になっちゃったんだよ」
冗談めかして担当者に言った。担当者はかれの差し出した保険診療明細証明書と領収書を見比べ、払い戻し請求の用紙を出した。
「必要事項、お名前や保険証の記号番号、お金の振込先とか書いてくださいね。
それにしても、保険証を持って行かなかったからって、ぼられましたね」
「え、どういうこと? 風邪で医者に掛かったくらいで保険外の治療なんてないでしょ。もしかして点滴?」
庶務課の職員は手を振った。
「違いますよ。医者じゃないから診療の内容の適・不適は判りませんけどね、保険の診療って普通点数で決められていて、それで料金を計算するんですよ。一点十円って決まっているんです。この明細書の合計額と領収書を照らし合わせると、一点十円で計算されていません。二十円になってますね」
と、診療明細証明書の下の方に記されている合計の点数と領収書にある金額とを代わる代わる指差した。
点数に二十を掛けた金額……。
「ちょっと待った、それって払い戻されるでしょ!」
相手はいいえと即答した。
「役所は一点十円で計算した分の保険負担分しか返してくれません」
「ええ~、何とかなんないの」
「そのお医者さんに行って交渉するしか手はないと思いますよ~」
窓口であのあしらわれ方をされたのだから、電話で文句を言ってどうなるものでもないだろう。保険証と明細、領収書を持って直接あの医者に行かなければ埒が明かないのかと、また熱が上がってきそうになった。往復するだけで、払った医療費を超えてしまう、こちらの損害ばかりだ。
「ひどい……」
「一応お医者に行く時は保険証を提示することになってますし、保険証を持ってこない患者さんに全額負担してもらうのは、保険診療分のとりっばぐれが無いようにするお医者側の自衛ですからねえ。
それでも倍の請求はひどいですねえ」
所詮は他人事であり、庶務課の仕事の一つとばかり、心のこもらぬ慰めを口にされ、かれはすごすごと自席に戻るしかなかった。早く家に帰って愛する妻と子の温もりに包まれたい。それしか頭に無かった。




