ending…
その日の目覚めは、昨日よりも更に悪かった。
全身に冷や汗が滲み、毛布からはみ出した爪先が冷え切っている。身体を起こして首を振ってみると、風邪でもひいたのか少し頭痛がする。小指が疼き、虫が這いまわっているような不快感が身体を駆け抜けた。黒い糸は昨日切れたときのままだらりとぶら下がっていたが、嫌な予感は消えなかった。今日、何かが起こるかもしれない――そんな疑念が、心を捕えて離さない。
今日が、その日なのか。
ぼんやりとしか思い出せないとはいえ、夢のなかの出来事を踏まえれば、そうとしか考えられなかった。窓の外を見渡せば、晴れ渡った青い空に綿菓子のような雲が浮かんでいる。地上には人が行き交い、紅葉した木々の枝先では小鳥たちが歌っている。爽やかな優しい風が吹いて、色とりどりの落ち葉を舞い上げた。今日に限って、世界はあまりに平和だった。
洗面台に立つと、紫苑は汗で張りついた前髪ごと冷水で顔を洗った。気づかないフリを決め込んでいた自らの裏の顔――死をまき散らす化け物になり果てた自分自身の望みが、ついに実現する。鏡に映った細面の顔は端正だったが、憎しみが滾る虚ろな目の下には深い隈が刻まれていた。化け物に相応しい顔つきだ。髪を丁寧に梳き、寝癖をとって綺麗に下ろしてみても、それは変わらなかった。数え切れないほど多くの黒い糸が頭皮から垂れているように見えて、却って不気味だった。セーラー服を着て白いスカーフを巻けば、紫苑はホラー映画に出てくる少女の幽霊そっくりになった。
身嗜みを整え終えると、紫苑は焼きたてのトーストにマーガリンを塗って齧り、熱い牛乳にティーバッグを浸してつくったロイヤルミルクティを啜った。世界が終わる日の朝くらい、少しマシなものを食べたっていいだろう。テーブルの向かいにある二つの椅子を眺めながら、彼女は山ほど砂糖を入れたミルクティを飲み干した。
ベランダに出ると、凛とした冷たい空気が頬を撫でた。洗いたての朝陽に目が眩む。手すりの上に腕を組んで頭を乗せ、生まれてから十五年ずっと住み続けた故郷の街を見下ろして、紫苑は無表情のまま呟いた。
「……さようなら、世界」
骨ばった白い小指で、黒い糸が揺れた。
家を出て駅に向かう途中も、紫苑の心は変わらなかった。淡々と世界の崩壊を待つ。自分のすべきことはそれだけだと、固く信じ込んでいた。ひとりぼっちの私にはもう、糸しか残っていないのだから、と。
けれど、そんな凍てついた意志は、地下鉄のホーム、切れかかった蛍光灯の下に立つ幼馴染の少女を見たとき微かに揺らいだ。
「あ、紫苑! おはよう、今日は早いんだね」
少し垂れた目を瞠ったあと、澪はとびきりの笑顔を浮かべて紫苑を見上げた。その優しさに、明るさに、紫苑の胸が痛み始める。
「……うん、おはよう。今日はちゃんと起きたよ」
澪の横に立つと、紫苑はやっとのことで微笑を返した。いつの間にか胸の奥が焼けつくほど熱い。このままでいいのか? そう問う声が聞こえた気がした。
「みたいだね。えらいえらい」
背を伸ばして紫苑の頭を撫でる澪。ゆっくりと瞬く瞼を縁取る栗色の睫毛は、薄暗い残光の下でひどく繊細に見える。染めてもいないのに色の薄い髪は、今朝もアイロンを当てたように真っ直ぐだった。髪や睫毛だけでなく、澪は全体的に色素が薄い。幼い頃、澪が差していた日傘によく入れてもらっていたことを、紫苑はちらっと思い出した。
「あのね、澪……」そう言いかけたとき、地下鉄がやってきて紫苑の声は掻き消された。人波に流されるままに電車に乗ったあとも、紫苑の心にはモヤモヤとした何かが渦巻いていた。言うべきか言わざるべきか、そもそも言ってどうなるのか。運命はもう、決まってしまっているというのに。
「さっき何か言いかけてたけど、どうしたの?」
「あ……えと……その……」
無垢な瞳に見つめられて、紫苑は吃った。澪から目を逸らした一瞬、小指で何かが蠢いた。それに気がついて右手を見たとき、燻っていた闇が――黒い糸の塊が、爆発した。
短かったはずの黒い糸があっという間に伸びる。撚り合せた繊維は解けて幾筋にも分かれ、植物の蔓が棒に巻きつくように、車内にいた人々に次々と絡みついた。目の前に座っていた高校生に、背後のサラリーマンに、果てはガラス一枚隔てた向こうにいる運転手にまで。高速で動く車両が地獄へと向かう巨大な棺桶のように思えて、紫苑は咄嗟に澪の小指を確認した。
薄いピンク色の小さな爪をつけた澪の小指には、まだ糸は絡まっていない。減速していく電車のなか、スクールバッグを右肩に掛け変えて左手で澪の手を握ると、紫苑は深呼吸をした。
たとえ世界が滅んでも、澪だけは死なせない。
ドアの開閉を知らせる電子音と共に、圧縮空気がプシューと音を立てる。鋼鉄のドアが開いた直後、紫苑は澪の手を引いて地下鉄を降り、地上へと続く出口に向かって走り出した。澪は、何故紫苑が最寄りでもない駅で降りた上に無言で走り出したのか理解できなかったが、繋いだ手の力強さと温かさを感じて、不思議と立ち止まろうという気にはならなかった。夢物語の始まりのような高揚感と戸惑いが合わさって、胸の鼓動は高鳴るばかりだった。
偶然降りた駅は、この近辺では一番の都会だった。スクランブル方式の交差点には歩行者が闊歩し、何ブロックも続く商用地には様々なショップが並んでいる。二人が地上に出ると、黒い糸は通りがかりの通行人にも絡みついた。まだ逃げ足りないのかと舌打ちをして、紫苑は澪を連れて走り、交差点の人混みのなかを縫うように進んでいった。
大型デパートや雑居ビルの壁面についた街頭ビジョンでは、化粧品のチューブを持った女優、流行のファッションに身を包んだモデルが魅力的な笑顔をつくっている。スカートのポケットに入れていたスマートフォンのバイブレーションに気がついたとき、巨大スクリーンに映っていたコマーシャルは緊急放送に切り替わった。
「緊急ニュースをお知らせ致します。現在、地球外小惑星×××が日本に向かって接近しており、このままの速度で接近を続ければ二十四時間以内に地球に衝突するとの情報が政府から発表されました。政府はこれについて……」
そこでアナウンサーの声は聞こえなくなった。立ち尽くしていた人々がパニックを起こし、一斉に騒ぎ始めたためだ。狂ったように喚いている者、座り込んで泣いている者、呆然と佇んでいる者――その誰もが、紫苑の小指から伸びる糸に絡まっていた。
時間が停止したかのように、空気が粘性を帯びている。ゆっくりと澪を振り返り、その左手に絡みついた呪いを見てとって、紫苑は澪の目を見つめた。
「紫苑……」
ライトブラウンの瞳が絶望に潤んでいる。華奢な肩から力が抜け、澪の腕からスクールバッグが滑り落ちた。花弁のような唇が震え、何かを呟こうとしては力無く萎む。縋るように握り返す小さな手を感じたとき、紫苑の心は決まった。
「……澪。大丈夫、私がなんとかしてみせるから」
小さな耳にそう囁くと、紫苑は澪の手を離し、一歩後ろに下がった。そして、右肩に掛けていた荷物をアスファルトの上に捨てて、比較的人の少ない方向に向かって走り去っていった。澪を置き去りにしたことに胸がチクリと痛む。これから自分がすることを、彼女に見られたくなかった。
ずっと、気づかないフリをしていた。糸の呪いを止める唯一の方法――それは、紫苑が死ぬことだ。糸に絡まった人間が死ねば、糸は切れて呪いも解ける。だから、こちらから死んで糸を断ち切ればいい。適当な高さのビルを探して走りながら、この決意が揺らがないようにと、紫苑は唇を噛み締めた。
人混みを掻き分けて進み、やっと人口密度が低くなってきたところで、紫苑はひと気のない雑居ビルの階段を駆け上った。急がないと手遅れになる。世界なんてどうでもいいけれど、澪は、澪だけは、なんとしても生きていて欲しい。そのためなら大嫌いな世界だって救ってみせる。澪のためを思うと、血管のなかを流れる血潮が白熱し、力が無限に湧いてくるようだった。
屋上に辿り着いた頃には、黒い糸は紫苑の小指だけではなく全身に絡まっていた。これ以上進むなとでも言いたげに動きを邪魔してくるそれは、締めつけてはこないものの決して切れないためかなり邪魔だったし、なにより重たかった。最後の数段は、壁に凭れながらなんとか登り切ったほどだ。
吹き出した汗が冬の風に吹かれて涼しい。息を切らし、胸ほどの高さがある金属製の柵に手をかけたとき、屋上のドアが開く音がして、紫苑の名を呼ぶ声が聞こえた。
「紫苑……!」
見れば、その声の主は澪だった。紫苑と同じく息を荒くし、薄茶の髪は風に吹かれて乱れている。幼馴染が何をしようとしているのか悟った彼女は、驚くべき速さで紫苑に駆け寄り、放さないとばかりに抱きついた。
「紫苑……なんで、ひとりで死んじゃおうとするの? 最後くらい一緒にいてよ。ひとりで先に行かないでよ。ねぇ……ねぇってば……」
澪の声は涙に濡れていた。熱い吐息と涙で、セーラー服の胸がじんわりと温かい。その温かさは紫苑の胸の奥にまで沁み渡り、凍りついた心を溶かしていった。絹のように滑らかな髪を撫で下ろし、小柄な身体を抱き締めると、紫苑は澪の背中をゆっくりとさすった。優しく宥めるように、大丈夫、大丈夫だからと囁き続けた。澪が啜り泣くのをやめて顔を上げたとき、紫苑の瞳には水晶のような涙が溜まっていた。
「澪……あのね、信じてもらえないと思うんだけどね。私が死んだら、世界は救われるんだ。うまく説明できないけど、私にはわかるの。私は澪に生きていて欲しい。だからお願い……行かせて、くれないかな」
紫苑の細い眉が下がり、口元が寂しげに歪む。その指は澪の目元を拭い、白く透ける肌を慈しんだ。整った薄い唇が動き、紫苑が何かを呟く。聞き返そうとしたとき、澪は唇に柔らかいものを感じた。
目の前に、優しげな黒い瞳がある。唇と唇が離れたとき、紫苑は笑っていた。澪が驚いて何も言えなくなっているうちに、彼女は素早く柵を越え、屋上の縁に立って、澪に背を向けた。
「澪……私ね、ずっと世界が嫌いだった。憎んでさえいたと思う。でも……でもね、澪のお陰で、最後の最後で、世界を好きになれそうな気がするんだ。だから」
「紫苑……!」
澪の手が虚しく空を切る。紫苑はほんの少しだけ振り返って、澪に手を振った。そして――
「……今まで、迷惑ばっかりかけてごめん。でも私、生まれ変わっても澪と幼馴染がいいな」
奇跡のように美しい微笑を残して、飛び立っていった。
紫苑の世界が裏返る。逆さまの視界から見えた街が、澪と出会った世界が、今はただ愛おしい。落下していく数秒の間、彼女はこれまでの人生で一番の幸福を感じていた。
黒い地面が無慈悲に迫ってくる。目を閉ざす最後の一瞬、紫苑の目には恨みがましく蠢動する黒い糸と――屋上に向かって真っ直ぐに伸びる、一本の赤い糸が映っていた。
澪、さようなら。大好きだよ。
それが、紫苑の最後の言葉だった。
藤堂紫苑の死から数日が経った。
紫苑の死から四時間後、地球に向かって接近していた小惑星は、突如飛来した別の小惑星と衝突して何処かに飛んでいってしまった。そんな馬鹿なと誰もが思ったが、こうして世界は続いている。観測になんらかのミスがあったものとして調査が進められているが、一般人は誰もそんなことを気にしてはいなかった。
小惑星衝突の危機が消え去ったという報道のあとは、日本中がお祭り騒ぎだった。新聞記事は小惑星についてのニュースで持ち切りで、雑居ビルの屋上から投身自殺した少女がいたことなどには十数行のスペースすら与えられなかった。ネットニュースの何処にも紫苑のことが載っていないのを見て、澪はスマートフォンの電源を落とし、三階の教室の窓枠の上に組んだ腕を乗せて外を見た。目に染みるほど青い空が悲しくて、彼女はそっと睫毛を伏せた。
紫苑がいなくなっても、世界はいつも通りに進んでいく。それでいいのだろう。それが、紫苑の願いなのだから。小指に絡みついた赤い糸をぼうっと見つめて、澪は口を開いた。
「……きっと、また会える。そうだよね、紫苑」
天上へと続いていた赤い糸がいま――地上へと、張った。