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  作者: 天童美智佳
1/2

opening…

 闇のなかで糸を紡ぐ。いつからか、いつまで続くのかはわからない。ただ黒い糸だけが、無限に続く深淵へと垂れ下がっていく。


 紫がかった夜色の綿を、少女の白い指が僅かにつまんだ。引っ張られ、塊から引き出された綿が鱗雲のように広がる。その繊維を天の川で湿らせた指で挟み、丁寧に丁寧に撚り合わせれば、それはやがて一本の糸になった。


 無心に糸を紡ぐ少女の髪は、糸と同じ夜色。無数の星屑に飾られて煌めき、星風が吹くたびにさらさらと揺れている。暁を迎えつつある空の下、闇よりも黒いセーラー服が皓い肌によく映えた。


 もうじき夜が明ける。針のように細く朧げな月を振り仰ぎ、少女は天へと手を伸ばした。


 あと少し。あと少しで。


 色のない唇がそう呟いた瞬間、世界から光が、月が、星が、なにもかもが消え去った。


 少女の意識は暗転と共に深い闇へと沈み、気怠い微睡みのなかへと徐々に浮上していくのだった。



 藤堂紫苑の朝はいつも通り最悪だった。


 薄い毛布に安物のベッド、肌寒いマンションの一室で彼女は目覚めた。身体を起こしてまず一番始めに出たのは溜息だ。レースのカーテンの向こうに透けて見える空はどんよりと重苦しく、朝の爽やかさなど微塵もない。もっとも、たとえ空が晴れ渡っていたとしても、彼女の気分は晴れなかったろう。がりがりに痩せた身体はどこにそんな重量があるのだと言いたくなるほどに重たく、頭は霞がかかったようにボケていてすっきりしない。マットレスのスプリングが馬鹿になっているせいで背中や腰が痛む。寝違えたのか左腕が痺れているし、見えない重石でもぶら下がっていそうに肩が重い。抱き締めていた偽物の羽根枕を投げ捨てて伸びをすると、背骨や肩がポキポキと鳴った。上げていた手を下ろしたときに、彼女はまた溜息を吐く羽目になった。


 小指から伸びる黒い糸。


 だらりと垂れ下がったそれが床に蜷局を巻き、窓ガラスを通り抜けてベランダの外へと続いているのを見て、彼女はベッドから出ることすら嫌になった。こんな糸なんて切れてしまえばいいと何度思ったろう? この気味の悪い糸は、鋏で切ることも引き千切ることもできず、解いて指から外すこともできないのだ。身体から切り離すには指を切り落とすしかないが、その後に来る痛みや不便さを思うと、到底そんなことをする気にはなれなかった。


 今日学校をサボタージュしたところで、どうせこの糸からは逃れられない。彼女はまた溜息を吐くと、ぎこちない動きでベッドから抜け出した。壁掛け時計が示す時間は七時四十五分。家を出るまでにはあと十五分しかない。鎖帷子のように重い真っ黒なセーラー服に袖を通し、段ボールのような食パンと香りの薄い紅茶の朝食を済ませて、彼女は一人暮らしのワンルームをあとにした。



 築三十年を迎えた鉄筋コンクリート建てのマンションの五階からエレベーターに乗って外に出ると、紫苑は排気ガスと騒音に包まれた雑踏に紛れ込んだ。スーツ姿のサラリーマン、ハイヒールのOL、制服を着た女子高生。彼らの足元をぼんやりと眺めながら、彼女は肩に食い込むスクールバッグを掛け直し、身体に沁み入る十一月の寒さにぶるりと震えた。寝坊したせいで防寒用のインナーを着るのを忘れてしまったし、髪だって乱れている。きっと顔色も悪いだろう。急に身嗜みが気になりだして、紫苑は首を前に少し傾け、長い髪で顔を隠した。自然と視界に入る小指の糸が鬱陶しい。首を少しだけ戻してチラリと前方を窺う。糸が真っ直ぐ前へと続いているのを見て、また気分が落ち込んだ。


 隕石でも落ちてくればいいのに。


 呪文のように呟けば、糸が急かすようにクイクイと引く。逃げても無駄だ、運命を受け入れろ――そう言われている気がして、紫苑は忌々しげに目を(すが)めた。



 そのまま地下鉄の駅に行き、エスカレーターを降りて、紫苑は上り電車が来るプラットホームへと向かった。地下で熱気がこもるせいか、空気はじんわりと生暖かい。換気装置の稼働音は五月蝿いが、外よりましだ。並んでいるのかもわからない人混みの前を歩いて移動し、漸く空いている乗車位置を見つけたとき、紫苑は今日の《犠牲者》を発見した。そして、吸い寄せられるようにその左後ろに立った。


 黄色いタイルのすぐ内側に立っている彼は、ベージュのステンカラーコートにネイビーのストライプスーツと白いシャツを合わせ、色味を抑えた臙脂色のネクタイをシルバーのラペルピンで留めた、ごく普通のサラリーマンに見えた。右手でスマートフォンを弄りながら、黒い糸が小指に絡みついた左手で髪を撫でつけている。実際、彼は普通なのだろう。彼本人でさえ、このあと自分の身に起こることを知らない。丁度聞こえてきた地下鉄の接近メロディに、紫苑はそのサラリーマンから目を離し、一歩後ろに下がった。


 もう、今日の一限には間に合わなさそうだ。


 気を紛らわそうと、スカートのポケットからスマートフォンを取り出して弄ってみる。網膜を文字の羅列が滑り、脳内に雑多な情報が氾濫した。くだらないニュースやゴシップについて思案している間は、気分が少し落ち着く。紫苑がそうして時間を潰している間に、そのときは訪れた。


 高速で動く鉄の箱が起こす風と共に、地下鉄のレールと車輪が擦れ合う独特の摩擦音がホームを満たした。電車が来たことに群衆の表情が緩んだ――そのときだった。


 ベージュのコートの男の身体が、ふらりと揺れ――六十キロ近いスピードで向かってくる先頭列車の目の前に、頭から突っ込んだのだ。


 ドンッ、という鈍い音がして、彼の身体は紫苑の鼻先を通り過ぎ、地下鉄の進行方向へ何メートルも跳ね飛ばされた。鋼鉄に叩きつけられた頭蓋骨は即座に潰れ、身体は複雑骨折をしたうえに千切れてバラバラになる。その瞬間、紫苑の小指と男の小指を繋いでいた糸は自然に切れ、草臥れたセーラー服の袖から短く垂れ下がった。


 急ブレーキをかけた車両が停止したとき、線路の上にはひしゃげて目玉がなくなった血塗れの頭と捥げた手足、赤い染みだらけのコートに包まった胴体と思しき肉の塊だけが転がっていた。四方八方から悲鳴が上がるなか、紫苑だけが冷静だった。冷静というより、関心がないのかもしれない。彼女の指先は今も、大して重要でもない雑学や可愛らしい猫の画像を探して、液晶画面の上を踊っていたのだから。


 そう。藤堂紫苑には、運命の糸が見える。人だろうが犬だろうが、繋がった生物全てを死に引きずり込む、呪いの糸が。今までのところ、この糸に絡みつかれた生物が生き延びた試しはない。自殺か他殺か、あるいは事故か。死に方は場合によって違うが、彼らの結末は同じだった。自殺しそうになっているところを止めても、襲われそうになっているところを助けても、身を挺して庇おうとしても。紫苑が目を離したその一瞬に、彼らの命は奪い去られてしまうのだ。


 目の前で人が死ぬ。死に続ける。そんな日々を何年も過ごして、紫苑は自分が置かれている環境に適応しきっていた。徹底した鈍感さ、関心のなさ、感情の希薄さ。片親だった父が糸の呪いで死んでから紫苑が学んだことは、人はみな運命の奴隷であるということだけだった。今日死んだサラリーマン然り、紫苑の父親然り、誰一人として、糸の運命からは逃れられない。紫苑はその事実を淡々と受け入れていた。悲しんですらいなかった。悲しいなどという感情はとうの昔に死んでいて、記憶の土のなかで腐って崩れてしまっているのだ。掘り起こす意味もないし、そのつもりもない。自分が悲しむべきことなどこの世界には存在しないと、彼女は信じ込んでいた――事実、サラリーマンの薬指に嵌った指輪を見ても、紫苑の胸は痛まなかったのだから。


 ふと、風にすら靡かなかった糸がゆらりと揺れた。それに気がついた紫苑がスマートフォンから目を離して小指を見つめていると、どこからともなく駅員が現れ、ホーム上で狂騒している客を宥めにかかり始めた。係員の指示に従って移動しながら、紫苑は朝から四度目の溜息を吐いた。


 本当に、最悪の朝だ。



 紫苑が教室のドアを叩いたときには、一限が始まってから既に四十五分が経過していた。人身事故による遅延のせいで、黒いセーラー服が並ぶ教室にはまだちらほらと空席がある。古典の男性教師はいつも通りの眠そうな声で漢文を音読していて、遅れてきた紫苑のことはさほど気にしていないようだった。音読を一旦やめて着席を促すと、彼は子守唄としか思えない漢文の音読を再開した。


 一礼して後ろ手でドアを閉め、紫苑は窓際の一番後ろ、教室の隅にある自分の机に向かった。武器にできそうなほど重いバッグを椅子の横に置き、椅子に座って机の上に古典の教科書とルーズリーフとシャープペンシルを出してから、紫苑は寝癖でうねった髪に手櫛を通した。遅れたせいで髪を梳かすことすらできなかった。寝坊したのは自業自得かもしれないが、電車が遅延したのは糸のせいだ。


 暖房の温風は頭の上を通り過ぎていくが、窓から降りてくる冷気を和らげてはくれない。椅子の木材は氷のように冷えていたし、元々体温の低い紫苑の身体は地下鉄のホームで一時間以上も立たされて血行が悪くなり、かちかちに強張っていた。(かじか)んだ指先に息をかけて温め、背中を丸めて身震いしたとき、唐突に肩を叩かれた。


 横を見ると、薄茶色のロングヘアをストレートに垂らし、セーラー服の襟に白いスカーフを巻いた少女が、紫苑に向かってピンク色のブランケットを差し出していた(紫苑はこのとき、自分がスカーフまで忘れていたことに気がついた)。使ってもいいということらしい。紫苑が小声で礼を言ってそれを受け取ると、少女の桜色の唇が動き「大丈夫だった?」と囁いた。紫苑は反射的に「うん大丈夫」と呟いてから、「ありがとう、澪」と付け加えた。少女はそれを見てにこりと微笑み、明るい茶色の瞳を黒板に向けた。紫苑は澪が貸してくれたブランケットを膝に掛けて一息吐くと、分厚いプリーツスカートのなかで太腿を擦り合わせた。


 横の席に座っている少女――澪は、紫苑の幼馴染だ。幼稚園からの付き合いで、お互いのことは殆どなんでも知っている。好きな食べ物や家族構成、苦手なものに趣味……澪は家庭的で、料理や洗濯などの家事が苦手な紫苑とは正反対、服の趣味も正反対、ついでに性格も正反対だったが、二人は不思議と仲が良かった。


 紫苑はあまり人と関わるのが好きではなく、人好きのする性格でもないため、友達は殆どおらず、自分でも必要ないと思っていた。教室の隅でぼんやりしている陰気な少女。それが大半のクラスメイトからの紫苑の評価だったが、澪はそうは思っていないようだった。澪は明るくて優しいし、外見もいい。友達には困らないはずなのに、彼女は何故かいつも紫苑を構った。普段は背中に鉛の塊を捻じ込まれたような気分でいる紫苑も、澪と一緒にいるときだけは心が少し軽くなった。


 カリカリとシャープペンシルを動かしている澪を横目で見てから、紫苑は机に突っ伏した。ブランケットのお陰で身体が温まり、急に眠気が襲ってきたのだ。古典の教師の催眠音声もあいまって、一限の残り十五分はいい睡眠時間になった。



 紫苑は午前中の授業の殆どを寝て過ごし、気がついたときにはお昼休みになっていた。昼食のパンを買い忘れていたことに気がついて購買へ行ったが、パンを売っているワゴンの前に長蛇の列ができているのを見て心が折れ、自動販売機で買った紙パックの林檎ジュースで空腹をやり過ごすことにした。ジュースの糖分は血糖値を上げてくれるが、腹を満たしてはくれない。学食を使えばいいかとも思ったが、財布の中身を考えると約三百円を昼食にあてるなどという贅沢はできない。今住んでいる家を引き払えば多少なりとも余裕ができるかもしれないが、紫苑はあのワンルームを手放すつもりは毛頭なかった。


 空になった紙パックを握り潰してゴミ箱に放り込んだあと、紫苑は席に着いて背中を丸め、組んだ腕の上に顎を置いた。女子校の昼休みは騒がしい。弁当を囲んで馬鹿騒ぎをしているグループを尻目に、紫苑は腹の虫の不満げな声に無視を決め込んだ。もう数時間もすれば家に帰れる。帰り道にあるスーパーで、安売りのおにぎりか菓子パンでも買えばいい。夕食はインスタントで適当に済ませよう。不健康な献立を立ててひとまず満足したとき、紫苑の目の前にプラスチック製の弁当箱が置かれた。


「紫苑、お弁当忘れちゃったんでしょ?」


 小鳥の囀りのような声に顔を上げれば、悪戯っぽく笑う澪の顔があった。紫苑の好きな筑前煮もあるよと言って立ち上がると、澪は自分の机を紫苑の方に寄せた。紫苑はのろのろと上体を起こし、横で弁当を開いている澪を見つめた。


「……いいの? 食べても」

「いいのいいの! 昨日の夜、紫苑がお弁当を忘れてくる夢を見て、それでなんとなく持ってきたんだけど、まさか本当に忘れてくるなんてね。私って超能力者なのかも。なーんて」

「あはは、なにそれ」


 他愛のない冗談に紫苑の頬が緩む。その直後、腹からきゅるきゅるという音がして、口のなかに新しい唾液が湧き、紫苑はこくりと喉を鳴らした。言われるままに食べてしまってもいいものかと躊躇っていると、澪が弁当箱に嵌っていたゴムバンドを取って、蓋を開いてくれた。


「遠慮しないで、食べていいんだよ? 紫苑てば、いつもパンかおにぎりしか食べないんだから、今日くらいちゃんとしたもの食べて欲しいなって」


 白い蓋の下から現れたのは、つやつやした絹さやと人参、味が染みて茶色くなった蓮根と里芋と鶏肉の筑前煮、綺麗な黄色のふんわりした卵焼き、紅鮭の塩焼きなどのおかずと、ふっくらと炊き上げた白米だった。筑前煮から漂う出汁醤油の匂いに、紫苑の腹は再び空腹を主張した。涎が垂れそうになるのを堪えて、紫苑は澪に手を合わせ、礼を言った。


「……ありがとう澪。有り難くいただきます」

「えへへ、どういたしまして!」


 澪は満足そうに唇の端を吊り上げると、水筒に入れて持ってきていた温かいほうじ茶をコップに注いで渡してくれた。炒った茶葉のあっさりした香ばしい香りが鼻腔を満たし、喉を滑り落ちて身体を芯から温めてゆく。がっつかないように気をつけながら、紫苑は澪の手作り弁当に箸をつけた。


 澪の料理は、目を覚ましたときから続いていた重苦しい気分を吹き飛ばしてくれた。大体が薄味で仕上げられたおかずは胃に優しく、もちもちした米は噛むほどにほんのりと甘い。こういうちゃんとしたものを最後に食べたのはいつだろうかと思うと、黒水晶のような紫苑の瞳は何故か潤んだ。


 自分の料理を美味しそうに食べている幼馴染を眺めて、澪は柔らかい笑みを零した。澪は、紫苑の家庭の事情を知っている。一人暮らしで荒んだ生活を送っていることも。昔、家庭が壊れてしまう前の紫苑は、もっと元気いっぱいで溌剌としていた。それが今や、今にも折れそうなほどに痩せ細り、顔色は年中蒼白だ。その空虚な瞳を見るたびに、たまらない気持ちで胸が一杯になる。幼馴染に少しでも元気になって欲しくて、澪はこうして紫苑の世話を焼いているのだった。


 楽しい昼食を終え、弁当箱を洗って返す約束をしたとき、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。机を離して微笑み合い、二人は午後の授業を受けるべく前を向いた。



 午後の授業は二コマしかないため、昼休みから下校時刻まではあっという間だった。帰りのホームルーム終了後、二人はどちらかが誘うまでもなく、何とはなしに家路を共にしていた。空気はまだ真昼の温かさを残していて、外を歩くにはもってこいの気温だった。


 雲の隙間から覗く低い夕陽が、紫苑と澪の長い影を古びたアスファルトの上に映し出す。橙色に染まる空を見上げて、二人はとりとめもないお喋りに花を咲かせていた。体育で走るのがしんどいだとか、数学の問題が難しかったとか、今朝見かけた仔猫が可愛かったとか。紫苑は一回り低い位置から話しかけてくる澪に相槌を打ちながら、少し愚痴を言ってみたり、澪をからかってみたりした。沈みかけた太陽の眩しさに目を細めながら、紫苑は歌うように言った。


「……澪ってさ。なんていうか、昔から変わってるよね」

「え? どこらへんが?」


 二人の足が止まり、澪の澄んだ瞳が紫苑の含み笑いを映す。澪が自分の言わんとしていることに気がついていないのに安堵して、紫苑はくるりと前を向き、今日一番の笑顔を浮かべた。野菊のように可憐な微笑だった。


「あはは。んー、教えてあげない」

「えーなにそれ! 気になるから言ってよ」


 数歩先に歩き出した紫苑を追いかけて、澪が紫苑のセーラー服の裾を軽く引っ張った。紫苑が振り向き、長い黒髪がふわりと舞い上がる。手頃な位置にあった明るい色の頭を撫でて、小さな愛らしい顔を覗き込み、紫苑は自らの少し乾燥した唇に人差し指を当てた。


「ダーメ、秘密」

「えー……もう、紫苑てば、ひどいんだから」


 プリプリと膨れている澪に、紫苑は苦笑した。


「あはは、ごめんね。澪ってば反応が面白いから、つい」

「んむぅ……」


 澪はまだ唇を尖らせている。紫苑はそんな澪が可笑しくて、ついにやけてしまった。血管のなかに炭酸が通ったように身体がしゅわしゅわして、黒のハイソックスに包まれた足は、いつの間にか小さくスキップを踏んでいた。


 澪の不機嫌は、紫苑の楽しげな様子を見ている間にどこかに行ってしまった。紫苑の、ともすればきつく見えがちな吊り上がった目は穏やかに垂れ、顔色も夕焼けのお陰で心なしか良くなったように見える。紫苑が笑ってくれたことが、今はただ嬉しかった。



 やがて、二人は学校から最寄りの地下鉄の駅に到着した。


 階段を降り、下り方面の電車に乗って座席に座ると、紫苑は今朝死んだサラリーマンのことを思い出した。自分がなぜ地下鉄に飛び込んだのかもわからぬまま、真っ赤な血を振り撒いて死んだ彼。線路に飛び込む直前に見えたその左手には、確かに銀色のマリッジリングが光っていた。少なくとも彼は誰かの夫で、もしかしたら父親だったかもしれない。自分の父親が大型トラックに巻き込まれて血と肉の塊になったときのことを思い出して、紫苑は切れ長の目を伏せた。


 もしあのとき、糸を使わなければ。


 黒い瞳に炎が揺らめいた。知らぬ間に唇に血が滲んでいる。ちろりと舐めとったそれは、新鮮な塩の味がした。


「紫苑、唇が切れてるよ」


 澪が、ティッシュペーパーとディスクタイプのリップクリームを渡してくれた。「ごめん、ありがとう」と言ってそれを受け取ると、紫苑は唇の血をティッシュで拭い、リップクリームの丸い缶の蓋に爪を掛けた。蓋を開けた瞬間、ローズとベリーの瑞々しい匂いが仄かに香った。指の腹で掬って唇に乗せると、萎んでいた肺が甘い匂いに満たされて膨らんだような心地がして、紫苑は大きく深呼吸した。


「……ありがとう。これ、いい匂いだね」そう言ってリップクリームを返せば、澪は白い歯を見せて笑った。「いい匂いだよね。私も大好き」フリルのついたポーチのなかにリップクリームを入れると、澪は紫苑を見上げて、ふっくらとした柔らかそうな唇を綻ばせた。


 やがて最寄り駅に到着し、黒いセーラー服の二人組は地下鉄を降りた。地上に出て別れの挨拶を言い合い、それぞれ別々の方向に歩き出したあとも、彼女らはお互いのことを考えていた。



 適当に夕飯を済ませて風呂に入ると、紫苑はいつも使っている古いマットレスの上に寝そべった。死んだ両親の匂いが染みついたそれとこのワンルームは、幸せだった幼少時代を思い出させてくれる数少ないものだ。糸が好き勝手に動きまわり、無差別に人を呪い始める前――両親が離婚し、紫苑が片親になる前。何も知らずに笑っていられたあの頃を思うと、今の惨めさに自嘲の笑みが零れた。


 全ては自業自得。他人の死を願ったあのときから、私は死神になったのだから。


 小指から垂れ下がる呪いの象徴を見つめながら、紫苑はそう思った。ひとりきりでいると、どうしても糸について考える時間が長くなってしまう。目を閉じて澪の顔を思い浮かべれば、少しは気が楽になった。瞼の裏の澪がにこやかに微笑みかけてきて、紫苑の唇がふっと緩む。鬱っぽくて消極的な自分に親切にしてくれる、唯一の人。澪が自分を気に掛ける理由はわからなかったが、純粋な好意がただただ嬉しかった。澪だけは、今も昔も変わらないでいてくれる。


 今日は朝から澪に頼りきりになってしまった。明日はもっとちゃんとしなければ。スマートフォンの目覚ましを七時にセットし、アラームの音量を最大にしてACアダプタに繋ぐと、紫苑は毛布を被って目を瞑った。睡魔が伸ばす糸に繭のように包まれて、その精神は闇に沈んでいった。



 気がついたとき、紫苑はいつもの夢のなかにいた。頭上には無数の星々が輝き、眼下には奈落が口を開けて待ち構えている幻想世界。セーラー服に身を包んだ紫苑は夜色の雲の上にいて、黙々と手を動かし、黒い糸を紡ぎ続けている。宙を流れていく乳色の川、ポキリと折れそうな月が照らすこの空間は、人が生きる世界とは違う亜空間だった。昼の世界を生きる生き物を夜の世界の糸が絡めとり、永遠の闇へと引きずり込む、その糸を紡ぐために存在する、いわば世界の狭間なのだ。


 紫苑はこの夢の意味を理解していた。それが引き起こすであろう結果も。知っていて、目を逸らし続けていた。無限に伸びる黒い糸は、彼女の憎悪そのものだった。誰が憎いというのではない、世界の全てが憎いのだ。


 何故私は死の呪いを纏って生まれなければならなかったのか。何故私は愛していた人に傷つけられなければならなかったのか。何故私はあのとき、父の――私を殴った父の小指に、糸を結び付けてしまったのか!


 生まれ落ちた苦しみが、虐げられた痛みが、失った悲しみが、紫苑に糸を紡ぐことを選ばせた。いつか世界の全てをこの糸で絡めとり、地獄への道連れにするのだ――と。昼の光を浴びているときには思いつきもしない恐ろしいことを企む人格も、この空間では身体を乗っ取るほどに強くなる。彼女は紫苑の裏側であり、半身だった。昼間どんなに幸福を感じたとしても、どんな感情を抱いたとしても、結局、紫苑の心はこの暗闇に戻ってきてしまうのだ。


 負の感情に応えるように、垂れ下がっていた糸が蛇のようにうねり、紫苑の小指に巻きついた。シュルシュルとひとりでに動く糸は、彼女の脚に、胴体に、首に絡みつき、全身を締め上げた。黒い糸に(くび)られながらも、その瞳は赤い彗星を捉え、薄い唇には笑みが浮かんでいた。


 箒星からばら撒かれた星屑が、暁に晒されて赤く燃え始める。闇に浮かぶ青い惑星に向かって降り注ぐ星の子たちはみな、紫苑と同じ姿をしていた。一人燃え落ち、二人燃え落ち、その数はみるみる減っていく。太陽の光に世界が目覚めたとき、残っていたのはただ一人だけだった。


 やっと、やっと望みが叶う。


 星の子はそう呟くと、紫苑の腕のなかへとまっしぐらに飛び込み、既に消えかけていた夜色の雲を蹴散らした。絡まり合い縺れ合いながら落ちていく少女達の小指は、黒い糸で固く結ばれていた。

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