終章(167)
――今のわらわは姫巫女とは名ばかりの存在にすぎぬ。
いつだったか、義姉がそんなことを言っていたのを覚えている。その時はまだリュウシンの故郷を目指す旅の最中で獣使いに支配された中原の地から逃れることに必死だった。
そんな中でも、暇を見つけてはよく義姉は身を浄めることを好んでいた。やはりともに旅するリュウシンを慮ってのことか、常に自分の美しさを保とうとする意識は強かったのだと当時から思っていた。
侍女見習だったリュウレイと姉のリュウシュン、当時はまだラナとセラと呼ばれていた二人の姉妹も神秘的な容貌を持つこの王家の末姫に仕えることをまるで夢のように感じながら過ごしていた。
それから時は流れ、ふもとの町の中心に位置する炎神の神殿の一画。清らかな清水を湛えた沐浴の場に彼女はいた。普段の自由気ままに過ごす気楽さはなく、静謐な中にも他を寄せ付けぬ清冽さを感じさせるそれはやはり彼女こそが当代の姫巫女なのだということを如実に物語っているかのようであった。
他に並ぶものがないほどの美貌を持ち、二人の子を持つ母としての成長を遂げた彼女はどこか在りし日の純粋さを残したままこちらに背を向けて泉の中に身を沈めている。
そこから彼女が何を考えているのかうかがい知ることは出来ない。しかし先ほどまでの浮ついた気持ちはどこかに消え去り、誰もがみなその場に跪いて首を垂れていた。
――やはりこの人には敵わない、私が何者であるのか一番よく理解してくれるただ一人の人だからな……。
忘れかけていた自分自身の思い、それらすべてが心の中に蘇ってくるのをリュウレイは感じていた。それはこの場にいる者たちすべてに共通する思いであろう。
「皆、揃うたようじゃのう。今宵は身内だけの弔いの場、ゆるりと過ごせばよい。そうかしこまらずとも好いわ、わらわは咎め立てたりせぬからのう」
ゆったりとした動作で立ち上がった姫巫女メイシャンの素肌から、水滴が零れ落ちる。そのさまを楽しむかのように当代の姫巫女はこちらを神妙な面持ちで振り返った。そこには微笑ともつかぬ表情が浮かんでいる。
彼女は泉の前にひれ伏した裸身の女たちを一人ひとりくまなく見つめていた。
そんな中で彼女が目を止めたのは短い黒髪の少女、リュウレイであった。自身の最も信頼する家族であり、護衛士でもある彼女は姫巫女からすれば手間のかかる存在に過ぎないのかもしれない。
「まだ、儀式が始まるまでは余裕がある、そなたたちもここで身を浄めておくがよい。わらわは心を静めておかねばならぬゆえ、別室にて過ごす。後でリュウレイ一人、参るがよい」
「わかりました、姫巫女様」
よどみなく答えるリュウレイに頷いたメイシャンはそのままその美しい銀髪を払い、部屋の外に控える女官たちの下へと歩いていった。彼女が過ぎ去るまで、リュウレイたちは皆身動き一つするものは無かった。
特に一番若いカンショウは緊張どころか、まるで別世界にでも迷い込んでしまったかのような夢見心地であった。そんな彼女の頭を先に立ち上がったリュウレイがやさしくなでていた。
「少し緊張したか?」
いつもとは違う、どこか落ち着いた優しい声音にカンショウは驚きを覚えつつ頷いていた。
まるで別人のように澄んだ瞳のリュウレイは姫巫女の消えた入口の方をしばし見つめていた。
「やはりあのお方こそが王家の姫巫女、我ら炎の民を統べるものでありよりどころとなるべきお方なのだな」
「はい、奥様のおっしゃる通りですね……」
フェルネート主従もまた、リュウレイ同様に姫巫女の去りし先を見つめそう呟いていた。
「リュウレイ姐さん、私たちはこれからどうするんですか?」
「ここで沐浴する、姫巫女様のお許しは得ているから心配はいらない。そうだよな、フォン」
「うん、そうだね」
今まで無言だったリュウフォンもリュウレイの問いかけに頷いていた。リュウレイ曰く、彼女はもともと風の祭祀一族の出で本来ならばリュウフォンもまた風神を祭る巫女のようなものなのだという。
それ故にこうした場に対する畏敬の念は他の者たちよりも強いものがあるのだろうということであった。
それから姫巫女の血族たるフェルネートを先頭に泉での沐浴を済ませたリュウレイたちは神殿の女官たちから新しい衣装を授かり、それを身に着けて控えの間に赴いた。
ただ一人、姫巫女の待つ別室に通されたリュウレイは懐かしさとともに心が落ち着いていくのを感じていた。それが義姉の気遣いによるものであると気づいたのはそれから間もなくのことであった――。
… … …
「姫巫女様、リュウレイ参りました」
御簾の先、ゆったりとした椅子に腰かけた姫巫女メイシャンは眺めの良い窓辺から町の夜景を楽しんでいるかのようであった。返事はなく、頭を上げたリュウレイはその近くまで静かに歩みを進めともにその光景を楽しむことにした。
出歩くこと叶わなかった日中とは異なり、収穫祭初日の夜は前夜祭の時よりも人々は活気に包まれて夜遅くまで騒ぎ明かしている。そんな人々の陽気な賑わいがまるで遠くのことのように思えてくる。
「随分、己を持て余しているようじゃな。リュウレイよ」
どれくらい時が流れたのか、そんな姫巫女の言葉を聞いたリュウレイは現実に意識を引き戻されていた。無意識のうちに、首を垂れる。やはり義姉には敵わない、そんな思いが心の中に込み上げてきて不思議と安心感に包まれていた。
「そなたは恵まれておる、姉上様や父上様の跡を継いでリュウ家の工房の主となり、亡き村長や工房の者たちにも目をかけられておる。そして今また一人前の鍛冶師となって独り立ちも果たした。まさしくこれからが本番じゃのう」
「おっしゃる通りです、私は姫巫女様や周囲の方々のお引き立てによりここまで成長することができた、一生をかけても返しきれないご恩を戴いています。まさしく身の引き締まる思いです」
「そうじゃな、そなただけではない。わらわや我が子らも皆同じじゃ。そなたらや村の者たち、フェリナたち北方の者たちのおかげでこうして穏やかに過ごしておる。全ては我が神の導きあってのことであろうな」
落ち着いた姫巫女の言葉はリュウレイの心に染み渡るかのような響きに満ちていた。六年前にこの地にたどり着いて以来、北に住まうものたちの尽力で生きる糧を得ることができた姫巫女とそれに仕える侍女見習は感謝を忘れた日はなかった。
メイシャンが姫長を名乗り、鍛冶師の村で暮らすことを選び、リュウレイが義母リュウメイの跡を継いで鍛冶師となることを決めたのもすべては北の地の人々ともに歩むと思い定めたからに他ならない。
しかし、リュウレイにはそれだけではない思いがある。村長や親方たち、それに大先生や義母から受け継いだ技術や志を自らのものとし、それを後の世代に伝えていくという使命がある。それを成し遂げるためにはまだまだ学ばねばならないことは山のようにあった。
はっきりしているのはこのまま山奥の村の留まっていてはそれがかなわないということくらいか。
そんなリュウレイの心理を見透かすようにメイシャンは言葉をつづける。
「良く、生前の村長とそなたの将来を話したものじゃ。女だてらに鍛冶師とならねば、リュウシュンのように婿を迎えて静かに暮らす道もあったはず。されど自ら険しい鍛冶師の道に足を踏み入れた以上、余人よりも厳しい道がそなたには待ち受けているはずだとな」
それは自らに鍛錬を課し、はるか東方の地で古の技術を模索し続けた村長ゴウケイならではの結論であろう。彼には見えていたのだ、いずれリュウレイも自分と同じ道をたどることになるであろうことが。
そしてそれを成さねば、リュウレイは義母リュウメイや大先生リュウゲンを凌駕することなど到底不可能であることも。
「村長は普段のそなたが己の思いを持て余していることなどとうに見抜いておった。それ故にリシンやリコウたちにそなたの鍛錬役を任せておったのだ。姉上様や父上様はお忙しい身、ほかにやらねばならぬことはいくらでもある。それにまだそなたはお二人から技術や知識の継承を受ける域には達しておらぬ。その意味は分かるな?」
「はい、今の私ではリュウメイ様……義母さんや大先生の足元にも及びません。だからこそ今の自分にできることをと焦っていたのです」
利き手を握りしめながら、自分の中に渦巻く思いをかみしめるリュウレイ。それは自分の中にあるもどかしさ、さらなる高みを目指す欲求の塊のようなものであった。
それを満たすにはただひたすらに鍛冶師としての修行に打ち込む以外に道はなかった。
予感はあった、あの居心地のいい鍛冶師の村をいつかは去らねばならないということが。
そして自分だけの技術を作り上げ、名実ともにリュウ家の後継ぎとして生きてゆきたいという願望が自分を突き動かしていることを。
それから案内役の女官が呼びに来るまでのわずかな間、二人は無言で夜の町を見つめていた。その夜のことは誰にも語ることはなく、リュウレイは生涯忘れることはなかった。
この日を境にリュウレイは己の生きるべき道の険しさと成し遂げるべきことの大きさを自覚し、大いに奮い立つことになるのだ――。




