終章(108)
――何だ、今の叫び声は……?
夜も更けた鍛冶師の村の寄り合い所、その中に安置された亡き村長ゴウケイの遺体のそばに付き添っていた女衆の一人リシンは心の中でそう呟きながら、外に向かい駆けだしていた。
交代役のリシンが眠気を覚え、うつらうつらしていた最中の出来事だけに驚きや怯えといった感情よりさきに胸騒ぎがした。それは凶暴な獣使いとの戦いを生き延びた歴戦の傭兵としての勘の為せる業かもしれない。
外に飛び出したリシンが強い山風の吹き下ろす夜空を見上げたその先にそれはいた。
「なんだい、あれは……?」
光り輝く何かが遠く山影の向こうに飛び去るのをただ一人、リシンだけが目撃した。それは翌日、村人の中でも限られたものだけに伝えられた。
リュウレイはリシンから直接それを聞き、しばらく自分の胸の内にとどめることになる――。
… … …
「――というわけでさ。あの晩、リシン姐は金色に輝く毛並みの何かが山向こうに消えていくのを見たっていうんだよ。ちょうど赤の山嶺がある灰色の隧道の先にな」
「それなら、南側だね。赤の山嶺は中央山塊がある一番真ん中、それも大きな活火山だし」
夕食を終えた後、早めに離れに戻ったリュウレイたちは村長の亡くなった晩に起こった出来事について、自分たちの知る情報の整理を始めていた。それも全ては昼間、森の中でリュウレイとリュウオウが話していたことを妹のリュウサンが知ってしまったことに起因する。
あの後、なんとか泣き止んだもののリュウサンは誰とも口を聞こうとせず、兄であるリュウオウにさえ話しかけるのを拒んでいた。
母メイシャンに抱き着いたまま、彼女は離れようとせず結局釣り上げた魚はリュウレイたちが料理して夕食を食べることになった。いつもなら楽しいはずの食卓が、その日ばかりはまるで通夜の晩のように味気ないものになってしまった。
――あれだけ食べることが大好きなリュウサンがいつもの半分しか食わないなんて、よほどの重症だろうな。
いっそのこと、自分たちも今夜は客間で眠ろうかと思ったが義姉はそれを良しとせず、リュウレイたちは気を使って、早めに母屋を後にしたというわけである。
それにリュウレイ自身もあの夜の出来事を積極的に確かめようとする気にはなれなかった手前、相棒のリュウフォンの提案もありリュウオウ達のためにもなるべく情報の整理をしておこうということなったわけである。
最もリュウレイたちの知ることは限られている。あの叫びにも似た咆哮が記憶の中にあるリュウオウの父リュウシンに似ていたことなど確かめようがないし、それ以外ではリシンが唯一目撃したあの金色の何かがいたというだけ。
手がかりとさえ呼べないその情報にどれだけの意味があるのだろうか。
腕を組んだリュウレイが思わずため息をついていた視線のその先、向かいに座るリュウフォンは無言のまま、何か考え事をしているようだった。
「何か、思い当たることでもあるのか?」
特に深い考えがあるわけでもなく、リュウレイは問いかけていた。この世界とは起源を異にする母なる原初の世界で生まれ育ったリュウフォンはリュウレイたちの知らない何かをつかんでいるのかもしれない。
そんな淡い期待がないわけではなかったが、それにしても雲をつかむより可能性の低いことだろう。
リュウレイがリュウフォンの返答を待つ間、彼女はじっと虚空を見つめていた。そして何かの結論に達したであろうリュウフォンは再びリュウレイの方に視線を向けるとこう切り出したのである。
「一つだけ気になることがあるの、リシンが見たという金色の何か。そしてあの遠吠え。私の部族、ううん風の民に古くから伝わる一つの伝承。それに関係があるかもしれない」
「風の民の伝承か……それってもしかすると獣絡みのことなのか?」
リュウレイの問いにリュウフォンはうんと頷く、歌姫である彼女もその気になれば原初の世界に住まう獣を従える力を持つだけにその話にはどこか現実味があった。
「遥かな昔、神々が世界を作り出して間もなくのころそれは生まれた。天を衝くほどの巨大な体、黄金色に輝く見るもおぞましきその姿。世界に住まう全ての獣たちの源とも言うべきそれを私たちは始まりの獣と呼ぶ。始まりの獣は醜く不完全な姿で自分をこの世界に産み落とした神々を恨んだ、そして自分が生み出した何十万という眷属とともに神に戦いを挑んだ。
炎神をはじめとする神々は自らの軍勢を率いてそれと戦い、世界の滅びと引き換えに始まりの獣は息絶えたとされている。母なる原初の世界の中心、その中原に巨大な躯を晒す古の遺骸が今もなお存在する。しかし、その姿を見た者はいない。なぜなら、始まりの獣は死してなお、自分をおぞましい怪物にした神への恨みを失っていないから――」
リュウフォンの独白、それを聞き終えたリュウレイは全身から力が抜けるのを感じていた。
――よりによってなんて話を聞かせやがるんだ、うちの嫁は……。
それだけ思うのが精いっぱいであった、話しを終えた当の本人もよほど怖かったと見えて、ふわりと浮かび上がると、自分の纏う布を脱ぎ捨ててリュウレイの胸に飛び込んできた。
「なんか、自分で言ってて怖くなっちゃった。まるで自分でない何かが私の口を借りて話していたような感じがして――」
それは錯覚ではないのかもしれない、どこかでそんな生々しい感触がリュウレイの中に芽生えていた。それは底なしの恐怖を張らむおぞましいなにかを伴ってリュウレイたちの心の底から湧き上がってくるかのようだった。
――十中八九、間違いなくそれだろうな。私たちは今触れてはならない何かに触れようとしていたんだ。
自分の胸に顔を埋める相棒の頭を撫でながらリュウレイは反芻していた。これ以上は考えても無駄、下手な推論より危ういことだと自分を戒める。
いや自分だけならまだいい、そこに大事なリュウフォンやリュウオウ達を巻き込むわけにはいかないのだ。それは自分が死んでしまうことよりつらい出来事なのだから。
「このことは私たちの胸にしまっておこう、特にリュウオウ達に知らせるわけにはいかないからな」
「うん、わかった。それよりそろそろお休みしない?」
顔を上げて頷くリュウフォン、思ったより強い力で自分を抱きしめるあどけない表情の相棒に頷くリュウレイ。二人して寝台の上に寝そべっていたが、リュウレイが体を起こすのに合わせてリュウフォンは音もなく宙に浮かんでいた。
「それじゃ、まず服を脱がないとな」
「それなら私が脱がしてあげようか?」
何気ないリュウレイの一言に反応したリュウフォンが嬉しそうににこりと笑う。それと同時にリュウレイを取り巻く空気がまるで生き物のようにうねり、衣服を切り刻んでいた。
あっという間の出来事にリュウレイは起こるより先に近くを浮遊していたいたずらなリュウフォンを自分の方に強引に抱き寄せていた。
「……服代のこと、少しは考えてほしいんだけどな?」
「ふふ、リュウレイだってこういうの、嫌いじゃないくせに」
かみ合わないお互いのセリフをすり合わせるように熱い唇を重ね合う二人。今日はいろいろあって少し疲れているのかもしれない。だからこそ余計にいつもとは違う雰囲気を楽しみたくなるのだろう。
最もリュウレイたちにとってそれはどうでもいいことに過ぎないが――。
静かに更けてゆく鍛冶師の村の夜、闇の帳が人々の心をやさしく包み込んでいた。




