終章(99)
「――私を殺しに来たのか……?」
産後の肥立ちが悪く、豪奢な寝台の上から身を起こすことさえかなわずにやつれた一人の女性。力なく精気の無い瞳で自分を見つめる彼女の口から洩れたのはそんな一言であった。
その傍らには、泣き声を上げて母を求める赤子の姿。体調の優れない彼女は生まれたばかりの我が子に満足に乳を与えることができずに、乳母を雇い入れたと聞く。
栄華の都防衛線より幾星霜、久方ぶりに出会った気高い姫将軍フェルネート。それが偽らざる彼女の現在の姿であったのだ。
案内役の召使はただならぬ雰囲気の二人を見て、ただうろたえるばかりであった。主の妹である領主フェリナの紹介とはいえ、相手は恐るべき原初の種族。しかも召使にとっても故郷であった栄華の都に長年攻め寄せた獣使いたちを率いる歌姫の一人でもあった存在だ。
まさしく忌むべき敵、敵の首魁とも言うべきその存在をなぜフェリナが体調の優れない主フェルネートの側仕えに起用したのか、彼女にはよく理解できなかった。
しばし、フェルネートと鳴き声を上げる赤子を呆然と見つめていたウルセバイオ、名をウルと名乗った彼女は気を取り直すと小さな赤ん坊を抱き上げると手慣れた手つきであやし始めた。
「ふふ、かわいいお子ですこと。こんなにかわいい子を見たのは初めてですね」
黒く髪を染めたウル、その口から洩れた穏やかなその言葉を聞いたフェルネートは大きく目を見開き、我が子を抱く目の前のその存在を凝視していた。わずかな邂逅とはいえ、ともに命のやり取りをした間柄。
その時垣間見た、刹那的な享楽を好むその性格をフェルネートは嫌というほど感じて嫌悪していた。凛々しく炎神に選ばれた若き王にその身を委ね、授かった我が子フェルネリア。
いつか自分たちを王都に迎えに来ると約束したその笑顔を見ることはもう叶わない。
その事実が、かつて幼いころから目標としいつしか淡い恋心を抱いていた母フェレナスの従兄弟、貴族連盟騎士団総帥であったリフルセドラ・イダムに続き最愛の人を失ったフェルネートの凍てついた心を打ちのめしていた。
――もはや私には何の希望も未練もないのだな……。
そんな空虚な思いに駆られていたフェルネート、しかしそんな彼女の前に現れたのは怪しくも美しかった緑色の長髪を黒く染め上げて、黒い召使の衣服を身に纏った長身の女ウルであった。
彼女はその姿からは想像もつかないほど穏やかで優し気な眼差しでフェルネートの娘をその胸に抱いていた。いつしか、泣き疲れたのかフェルネリアは静かな眠りに落ちていた。
そのあどけない表情を見て、安心したのかウルはフェルネートに笑顔を見せていた。
「とてもかわいらしいお顔、あなたにそっくりですね」
「……私だけではない、父親にもよく似ている。それに亡くなった私の母上や王妃殿下にもな――」
傍らで眠る我が子に安堵したフェルネートはその日、久しぶりにぐっすりと眠ることができた。それから半年余りの間、ふもとの町近くにある離宮にて静養を終えたフェルネートは自らの領地へと戻っていった。
その傍らには赤子のフェルネリアを抱く召使ウルの姿があったという。
… … …
安らぎに満ちたその記憶、脳裏をよぎる主フェルネートとフェルネリアの笑顔を思い浮かべながら、ウルは空中で自分を束縛する風の渦に必死で抗おうとしていた。
「……っぐ、私を離せ、レクルピオネ……!」
「どうした、その程度の戒めを振りほどいて反撃する気力さえ失ったか? まだあのリュウレイとかいう小娘の方が意気が良かったぞ!」
自らの目の前で風に縛られたウルの美しく白い体を全身余すところなく視界に収めた歌姫レクルピオネは勝ち誇った笑みを浮かべていた。ほぼ無抵抗に誓いウルを見下すその表情にはどこか嗜虐的な色が浮かんでいる。
真っ当な対決ならば、確かにウルとレクルピオネでは力の差に開きがある。しかし、レクルピオネには相手が反応するより先にその動きを読み取り、先んじる力が備わっている。
それゆえに一族の誰にも早く敵を葬る魁の名を冠しているのだ。風の民がその力を振るうには周囲の風の精に呼び掛ける必要がある。その旋律を制するものが戦いに勝利するのだ。
事実、ウルがその力を振るおうにもレクルピオネに邪魔されて、動きを封じられてしまっていた。
「こうなってみれば、貴様も哀れなものだな! どう扱おうがこの私の思うがままだ、ちがうか? ウルセバイオよ」
「その名で私を呼ぶな……今の私はウル、……ああっ!」
全身を弄ぶかのようなレクルピオネの風、恥じらうウルの声の中に甘い喘ぎ声が上がった次の瞬間、その近くの空間に忽然とリュウレイたちが現れた。
囚われのウルと騒ぎの張本人レクルピオネを見つけたリュウレイが大声で叫ぶ。
「そこまでだ、レクルピオネ!!」
「ちっ! いいところで私の邪魔をするな、小娘ども!!」
瞬時に右手で烈風を巻き起こしたレクルピオネはリュウフォンを先頭に浮かぶリュウレイたちにそれを打ち放った。ためらうことの無い本気の一撃に、森の上の大気は割れたように切り裂かれ、緑の木々が激しく波打っていく。
「そんなもの、私には通じないよ!!」
正面から迫りくるそれを受け切ったのは暁の歌姫エルカオネことリュウフォン。ただ、全身無事とはいかず、後ろにいたリュウレイ、カンショウともどもに身に纏う衣服を残らず切り裂かれてしまっていた。
いつも通りのこの展開に慣れつつある自分を悲しく思いながらもリュウレイが怒りをあらわにする。
「またこれかよ! いい加減に服代もろもろ請求してやるからな、レクルピオネ!」
「これから仕事あるのにどうしてくれるんですか!」
「ふん、もう少し見栄えのある成長を遂げてから言うがいい! 小娘どもが!!」
抗議の声を上げるリュウレイたちをせせら笑うレクルピオネ、どうやらリュウフォンに自分の風を防がれることはお見通しで、小細工をしていたらしい。
「もう許さない、私も本気で怒ったからね!!」
リュウレイたちの前でその豊かな胸をゆさりと震わせたリュウフォンはその片手にあるものを天高く掲げて、叫び声を上げる。
「わが主に申し上げる、この静かなる里を騒がせる不届き者に神の裁きを!!」
それを聞いたレクルピオネは大声を上げて笑い、身に纏うもの無き三人を嘲笑う。
「なんだそれは? いざとなったら神頼みか? あの忌まわしい炎神が炎の民でもない貴様らごときに力を貸すとは到底思えんがな!」
「……偉大な炎神が直接私たちを助けることなどあり得ない、けどもっと怖い存在が近くにいることを忘れてない? レクルピオネ」
そう言ってにこりと笑うリュウフォン、そのはちきれんばかりの胸元の先にある手が掲げるものはリュウレイやリュウメイ、リュウ家の鍛冶師のみが持つことを許されたあの姫巫女の種火が宿るカンテラであった。
「貴様、何を言って……」
未だ状況を理解しないレクルピオネが問い返したその時、赤く大きな掌がその体をつかみ取っていた。
「な、何だこれは!?」
身に着けていた白い衣を焼き尽くされながら、さらなる高みへと持ち上げられるレクルピオネ。
その眼前にいたのは、周囲の山々に比肩するほどの巨躯を持った巨大な人影であった。
――わらわの村で騒いでいるうつけはそなたか……!
周囲の森に重く響き渡るその声を聴いたリュウレイやカンショウはびくりとその身を震わせる。
その声の主こそほかならぬ炎神の姫巫女たるこの村の姫長メイシャンその人であった。




