終章(19)
――リュウシン、会いたかったよ……。
リュウレイの耳朶に響いたのはそんな甘い響きの余韻であった。それは愛しい存在に向けられた、若いリュウレイやリュウフォン、カンショウなどにはまだまだ無縁そうな世界のにおいが漂うものだ。
それと同時に口元になじみのない熱い口付けが迫ってくる。おそらくは自分ではない誰か、今もリュウレイが追い求めてやまないあの日見失った大きな背中の主であろうか。
一瞬、胸が締め付けられる思いを強引に拭い去り、リュウレイは自分に抱き着く女を引き剥がす。それから、まだ焦点の合わない彼女に向かい強い口調で語りかけた。
「私はリュウシン様じゃないよ、ちゃんと目を覚ましてよく見てみろよ、ラセルエリオ!」
「え、あなたは……リュウレイ? じゃあ、今のは全部……夢だったの……?」
まだ酒の香りが漂うと息を吐きながら、呆然とするラセルエリオ。その美しい裸身は却ってリュウレイの哀愁の思いを強くさせた。
必死に運命に抗い、戦い抜いた先にその姿を消した炎の王。彼は揺らめく陽炎のごとく焔の先に消えてしまったのだろうか?
「そっか、せっかく夢でもリュウシンに会えたと思ったのにまたお別れしちゃったのか、私……。ついてないなぁ――」
ぼさぼさに伸ばし放題の前髪の間から除くラセルエリオのきれいな緑色の瞳からぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちる。この五年間、リュウシンの帰りを待つ者たちは義姉やリュウオウ達、この村の住人たちばかりではないことを思い出し、相変わらず無力な自分に打ちのめされるリュウレイ。
気が付けば、リュウレイは力なく泣き続けるラセルエリオの体を強く抱きしめていた。
「……リュウレイ、何のつもり?」
「まだ、私なんかじゃリュウシン様の代わりなんて務まらないだろうけど、目の前でそう悲しそうにされたら鍛冶師リュウレイの名が廃るってもんだよ!」
泣きたいのは自分も同じだ、けれど精いっぱいの強がりを見せる。気持ちは義母も義姉も大先生も、村長様も親方たちも領主様たちも同じことだ。みんな、自分の心の奥底にある思いをぐっと飲みこんで歯を食いしばり生きている。
――生きてきたのだ、この五年間を!
自分を抱きしめるリュウレイの背丈はリュウシンにわずかに及ばない、まだ成長中の彼女はそれを差し引いてもまだ王子のリュウシンの逞しさには遠く及ばないだろう。
けれど、その心に横たわる思いの強さは同じだった。自分の周りにいる人たちを少しでも助け守ろうとするかけがえのない思い。
それは大事なものを失ったものだけが持つ思いの強さなのかもしれなかった。
「……不器用だね、そういうところはリュウシンそっくりだよ」
「あいにくと、私は義母さんの娘でリュウ家の後継ぎさ! 理由なんてそれだけで十分すぎるだろう?」
そう言って笑うリュウレイにラセルエリオはつられたように泣き笑いする。涙があとからあとから込み上げて当分止まりそうにもない。
「――もう少しだけ、こうさせていて。もう少しだけでいいから……」
無言でうなずくリュウレイ、ラセルエリオは強く抱き着いて声を殺してむせび泣く。
彼女の心が落ち着くまでにはもう少し時間が必要だった――。
… … …
「あ――、楽ちんでいいね――」
「それはよかったな……」
背中に当たる柔らかい感触と耳元に聞こえる陽気なラセルエリオの声。カンテラのもたらす淡い光の中をリュウ家の母屋に向かいリュウレイは客人というよりは手間のかかる身内のラセルエリオをおぶさりながら、村のあぜ道を歩いていた。
二人の子供たちを連れたラセルエリオはこの村についた時点ですでに酔いつぶれており、たまたまリュウ家の母屋ではなく工房前に飛んでしまった。
それに気が付いた村人がリュウシュンや姫長メイシャンに報告して、とりあえずラセルエリオが落ち着くまでの間、工房の客間で休ませていたそうだ。ラセルエリオも酒に弱いわけではないが、それでも節操なく飲めるときに浴びるように飲むために悪酔いすることが少なくない。
いうなれば、リュウレイの義母リュウメイに近い方か。もっとも、酒をこよなく愛するリュウメイよりは酒を飲んで憂さを晴らすといった感の強いラセルエリオは一人で飲み明かすよりは誰かに愚痴を聞いてもらいたい思いの方が強いようにリュウレイには思えてならなかった。
さすがにさっきまで自分の胸で泣いていた女性を一人にするわけにもいかず、リュウレイは自分が家に戻るのを見計らいラセルエリオに一緒に行かないかと誘いをかけてみた。
そして帰ってきた答えは実に彼女らしいものであった。
「じゃあ、先に服着せて!」
「……かしこまりました、少々お待ちを!」
いい年してそれくらい自分でやれよと普通なら言いたくなるところだが、そこは我らがリュウレイである。折り畳んだ洗濯行きの着替えとは別にわざわざ工房に用意されている来客用の寝間着を持ってきて、まだ眠気の抜けきらないラセルエリオに器用に纏わせるとついでに彼女を背中におぶってリュウ家に戻ることになったわけだ。
いかに欲望に負けたとはいえ、正気に戻ってみるとなんと間の抜けた対応だろうか。リュウフォン同様に、自分を頼る女性にはとことん弱い習性に思わずため息をつきたくなるのはなぜか。
――自業自得、だよなあ……。
時々この村に滞在する行商人ナルタセオに思いを寄せる姉のリュウシュンの態度を見ればわかるようにやはりこれも持って生まれた悲しい性なのかもしれなかった。
一人そんなことを考えていると、後ろから強く抱きしめられた。
――ありがとうね、リュウレイ。
微かなつぶやきとともに再びラセルエリオの寝息が聞こえてくる。そんな無防備な彼女の姿にリュウレイは笑顔を浮かべると小声で囁く。
――どういたしまして、これくらい大したことはないさ。
それが眠るラセルエリオに伝わったのかはわからない、目指すリュウ家の母屋はもう目と鼻の先だ。家の中からは賑やかな声が聞こえてくる。
差し当っての問題は、リュウレイの夕飯が残されているかどうかだが――。
――また片付けと賄いやらされるんだろうな、その辺は覚悟しておかないと。
ラセルエリオたちの滞在する客間の準備等まだやらなければならないことはいくらでもありそうだ。
夜空に輝く星々の下、まだまだリュウレイの長い一日は終わりそうになかった――。




