終章(13)
――なんだかとってもいい気持ち……。
まるで夢を見ているような気分だった、とても懐かしくて安らぎを感じるこの時間――。まだ部屋の中は薄暗くて、誰かの寝息が耳元に響いている。頬に伝わるその感触はとても柔らかで何とも言えない温もりに満ちていた。
この世のものとは思えないほど、心地よい感覚に思わず身も心もとろけてしまいそうな気がする。どうやら自分は誰かに優しく抱きしめられているらしい。
――ああ、この時間がいつまでも続きますように。
心の中でただそれだけを願ってみる。が、世の中そんなに甘くはなかった。
「……母上」
その時、背中の方で誰かが寝言を呟くのが聞こえた。それと同時に小さな手が自分の背中にしっかりとしがみ付いていてくるのが分かった。その途端、頭から冷や水をかぶったように頭が覚醒する。それから、
自分の置かれた状況に思考を巡らせてみるが、混乱しているせいかあまりうまくいきそうにない。
――え、私今どうなっているの? ここはどこ、私誰のそばにいるの??
疑問符だらけでますます混乱が深まっていく中、自分を抱きしめていた誰かが腕を動かして、背中の小さな手を握りしめたのだ。
「おお、リュウオウよ。そこにいたのか、母はここじゃぞ……」
「母上……」
背中にいる小さな声の主、おそらくはリュウ家の長男リュウオウが背中にほおずりして、再び寝息を立て始めた。二人に間を挟まれたこの状況では抜け出すことはおろか、体を動かすのも得策ではない。
それどころか目を覚ましたら、なんでここにいるのかを追及されるのは目に見えている。
「お、落ち着け今の私……! どうしてこうなったのかを冷静に思い出して、対策を考えればきっと何とかなるはず……!!」
今にも泣き出しそうな黒髪の見習い少女カンショウはリュウ家の母屋二階奥にある姫長親子の寝室になぜ自分がいるのかについて必死にあいまいな記憶をたどり始める――。
… … …
昨晩は、母屋一階にある客間で姉貴分のリュウレイやリュウフォン達と楽しくお話していたはずだ。最初は賑やかだった子供たちもお菓子を食べつくした後は、退屈になって結局すぐに眠ってしまった。
こうした事態を見越していたリュウレイは上着を羽織るとリュウフォンとともに二人を姫長メイシャンの待つ寝室へと運んでいった。居間ではいつものごとく酔いつぶれたリュウメイが専用の長椅子に横たわり、獣のようないびきを掻いていたそうだ。
リュウレイたちが戻ってくるまでの間、一人で暇を持て余していたカンショウはリュウレイが飲んでいた強めの酒に興味を抱いて、ほんの少しと一口試しに飲んでみた。
それがすべての間違いの始まりだった、ほどなくして顔が熱くなり鼓動も早くなる。いい気分なのか、頭がくらくらするのかはわからないがそのまま寝台の上に倒れこんでからの記憶がない。
おそらくなれない酒を口にしたことで一気に酔いが回ってしまったのだろうと推測する。
――あれは失敗だったなぁ……。
リュウレイもリュウメイもあれより強い酒の好む割にすぐに酔いつぶれることはほとんどない。むしろ酒をすべて飲みつくして、それに満足して眠りこけるくらいの勢いだ。
カンショウはリュウフォンがリュウシュンの売店で分けてもらう甘めの果実酒を呑むくらいがちょうどいい。酒分はほとんどなく、さわやかな甘みだけがのどを潤していく。
一言に果実酒といってもかなりの種類があるそうだが、リュウフォンが好むのはこの地方でよく栽培される果実を発酵させたものがほとんどだ。数が多い分、安いし手に入りやすいのが一番だという。
その言葉に惹かれて、リュウオウ達に遠慮しながらお菓子をつまみつつ飲み物の方でお腹を満足させる。姫長メイシャンやリュウレイの作る料理はうまかったが、カンショウは少し控えめに食べていた。
リュウ家の面々のように大食いではないし、食後は部屋でリュウレイたちとお菓子を食べながら楽しく過ごすつもりだったからだ。けれど、リュウオウやリュウサンの登場でその考えはある程度軌道修正することになったが……。
――そういえば、夜中に少し催して用を足しに部屋を出た気がする。すっきりした後寝ぼけて、違う部屋に迷い込んだとしたら……。
なんだか全く関係ない階段を上り、部屋を開けたら大きな寝台があり戻るのも面倒なのでそのまま潜り込んで眠ってしまったらしい。相手も眠っていたせいか、気づかずに今に至ると――。
… … …
――ど、どうしよう! 正直に話せばわかってくれるかな? 私も一応姫長様の眷属でもあるし……。
実を言えば禁足地に向かう少し前に、姫長一家やリュウレイたちと一緒に共同浴場を利用した際にメイシャンから直々に力を与えると言われてなし崩し的にその加護を受けることになっていた。
彼女が言うには姫巫女の加護は特殊で炎の精の助けを受けやすくして、レゾニアの民ではない人間にも日々心身の強化をもたらしてくれるものなのだとか。要するに持って生まれた能力を底上げしてくれるものらしい。
それだけ聞くと、姉姫たちから受けた加護と大して変わりないように思えるが、それらの受け皿をより大きくするためのものと思えばいい。そのおかげかはわからないが、村に戻ってからの遠駆けや仕事でも自分でも驚くほどに体が動いてくれた。体力はまだないが、粘り強さが上がったともいうべきか。
その恩人ともいえる姫長メイシャンが今目の前にいる。彼女は今はなきレゾニア王家最後の王妃にして当代の姫巫女、つまりはカンショウが知りうる中で最も高貴な女性ということになる。
薄い寝具を纏った彼女から伝わる温もりや匂い、肌触りは今まで味わったことの無いくらいにカンショウの心を大いに刺激してやまない。それはリュウレイやリュウフォンとは違う大人の女性。
下宿先の主であり、身元を引き受けてくれている姉姫アルスフェローやリュウレイの姉リュウシュンと同様に暖かい安心感を与えてくれる存在だった。幼い頃に母を亡くしたカンショウにとっては遥かな記憶の彼方の存在でしかない。
――なんでだろう、なんだか泣けてくるのは……。お母さん――。
不意に目頭が熱くなって、カンショウは両手で顔を覆った。するとメイシャンが強く抱きしめてくるではないか。驚いて、顔を上げると耳元でメイシャンの優しいささやきが聞こえた。
「今はこのままでよい、リュウオウ達もそなたのことは気に入っておるしのう。そなたは一人この村にやってきてからよく頑張っている。たまにはこうしてゆっくり過ごして英気を養うがよい――」
「はい、ありがとうございます。姫長様――」
こらえきれなくなったカンショウは一人声を殺して嗚咽する。抑えきれない感情があとからあとから心の底から湧き上がってくるのを押しとめることはできなかったのだ。そんな泣きじゃくる年上のカンショウをメイシャンの二人の子供リュウオウとリュウサンが起き上がり、よしよしと撫でて励ましてくれる。
「お姉ちゃん、いい子――」
「頑張るのじゃ――……」
「ありがとうございます……、姫長様、リュウオウ様、ちび姫様……」
この朝の出来事はカンショウにとって一生忘れられない思い出となった。朝ご飯の用意を手伝うリュウレイたちも何かを察したかのように特に問いかけることもなくいつも通りに接してくれる。
ただ、リュウメイは違った。何より鍛冶師としての生きざまにこだわる彼女はリュウレイやカンショウを前に言い放つ。
「さあ、アンタたちもしっかり遠駆けして体を鍛えるんだよ! 鍛冶師は体を鍛えるのが仕事みたいなものだからねえ!」
「はい、わかりました!!」
「……空気くらい読めよ、ババアが!」
そのあと口を滑らせたリュウレイが朝っぱらからリュウメイの頭突きを食らう場面があったものの、すぐに復活した彼女に従いカンショウもまた東の頂を目指す。
その瞳には輝ける朝陽が何よりもまぶしく映る。そしてかけがえのない今日という一日を大事に生きてゆこうと心に誓うのであった――。




