白の山嶺
天高くそびえる山々の嶺がうっすらと白けていく。見渡す限り、切り立った断崖と迫り出した岩場が周囲を埋め尽くしている。そんな険しい山肌の上を息を切らせた一人の少女が駆け上って行く。躍動するしなやかな肉体に短く切った漆黒の髪が揺れる。その黒い両の瞳が目指す山の頂きはもう目前に迫っている。
この五年間、必死に鍛え上げた体が悲鳴を上げている。しかし、強い意志の力がくじけることを許さない。
ほら、一歩。もう、一歩。あと、一歩。最後の一歩を踏み締めた時、見慣れた空が少女の視界を埋め尽くした。
「……着いた――――――――ッ!!!」
遠く叫び声がこだまするのとほぼ同時に東の嶺から赤く燃え立つ朝日がゆっくりと顔を出した。それを見た少女は満足した表情を浮かべて、岩の上に寝転んだ。まだ夜が明けたばかりだというのに、大きな雲が強い風に流されていく。この光景を何回眺めたことだろう。
火照った体に吹き抜ける風は優しく心地よい。少し肌寒いくらいだが、今の少女にはちょうどよかった。
「ま―た、夜明けには間に合わなかったか……。ここ最近、負けが込んでるよな、私」
目に染みるほど、透き通る青い空を見上げて呟いた。その時、少女の近くに何かがふわりと舞い降りた。視界の端に揺らめいた白に目を凝らしていると、聞き慣れた声が耳朶を打つ。それは少女と同じ年頃の女の子の声だった。
「おはよう。今日は早かったね、レイ」
「また朝の『散歩』でも楽しんでいたのか? フォン」
身体を起こし、白い布を纏う緑髪緑眼の少女フォンを見る。年より少し幼い顔立ちに今は優しい微笑みを湛えた彼女はレイと同じ、リュウ家の養女だった。二人は今から5年ほど前にこの山のふもとにある、鍛冶師の村に家族として迎えられた。
レイは鍛冶師のまとめ役をしている義母の跡を継ぐべく、日々修業に打ち込んでいた。フォンは古き血を受け継ぐ一族の末裔としての務めに励んでいる。
年が近い二人は姉妹というよりは気心の知れた親友のようにして育った。毎朝、ふもとの村からこの山の頂きまで遠駆けするレイをフォンが迎えに来るのは二人だけの習慣になっていた。
レイの隣に腰を下ろしたフォンは持ってきた篭から革袋の水筒を取り出して、レイに手渡した。
「お、ありがとな。お前が持ってきてくれるから、助かるよ。荷物を抱えていると、その分かさ張るからな」
少しくらいの荷物など、レイの体力を持ってすれば大したことはないが、いつもこんなところまでつきあってくれるフォンの優しさには感謝していた。レイの言葉を聞いたフォンは嬉しそうにはにかむとうんと頷いた。
「ううん、どういたしまして。お腹空いたでしょ? 昨日、シュンのところからもらっておいたお菓子があるの、一緒に食べよう」
「さらに気が利くな! 愛してるぜ、フォン!」
篭から取り出したお菓子を両手に持ったままのフォンをレイが冗談めかしに抱き締めた。いつもこんなやり取りばかりだが、相手がフォンだと飽きることはない。
お菓子を押しつけるように、レイに手渡したフォンは少し頬を赤らめて俯く。それから小声で、ぼそりと言った。
「もう、レイったら……。あとでちゃんとシュンにもお礼を言っておいてね。この間のこと、まだ怒っていたみたいだから」
フォンの言葉を聞いたレイはとたんに不貞腐れたように顔をしかめると、お菓子を一口で頬張ってから、寝転んでしまった。
「あれは、全部義母さんが悪いんだろ! 誰があの大酒飲みのツケを払ってると思ってるんだか! いい迷惑だよ、全く!!」
同じリュウ家の養女であり、レイの実の姉でもあるシュンの澄ました横顔を思い浮かべ悪態をつく。シュンはレイの一つ年上で、二年ほど前に村で商いをしている男に嫁いでいた。去年、かわいい女の子にも恵まれ、夫婦仲はますます順調なようだった。
そればかりか、シュンはレイが通っている工房の食堂を切り盛りしており、村の外から訪れる旅人や村人を相手にいつも店は繁盛していた。シュンと仲のいいフォンは時々こうして売れ残りのお菓子や総菜をもらってきてはレイと二人で分け合っている。
元々仲の良かったレイとシュンの姉妹は、ここ二三年、考え方の違いや意地の張り合いであまり顔を合わせていない。どちらかといえば、義母譲りの頑固さや誇り高さを身につけてしまったレイの方が何でも器用にこなし、人付き合いの得意な姉を一方的に苦手にしているのが現状だった。
そんなレイを一番近くで見てきたフォンは彼女の気持ちがわかるだけにもっと自分に素直になって欲しかった。
「ねえ、レイ。何をそんなに焦っているの? 最近のレイ、らしくないよ」
寝転んだレイの上に覆いかぶさるようにして、フォンが顔を覗き込む。その表情には心配の色が浮かんでいた。
一方のレイも自分の中にあるシュンへのわだかまりが姉に対する嫉妬だけではないことを理解していた。他でもない自分自身のことだ。
「わかっているさ、そんなのは。けど、どうしようもないんだよ。村長様や親方、義母さんや大先生は言うにも及ばず。私は鍛冶師としてはまだまだ未熟だ。この5年、必死に頑張れば頑張る程、それがいやという程よく分かるんだ。けど、どうすることも出来ないでいる。そんな自分が、もどかしいだけなんだよ……」
鍛冶とは過酷な仕事だ、そこに女の身で入って行くことの無謀さは分かっていたはずだった。しかし、レイにはそれ以外の選択肢はなかった。全てはあの義母の逞しい背中を追いかける。それだけだった。
あの頃はただ直向きに前だけ見ていればそれでよかった。しかし、大きくなるにつれ自分の中の理想と現実に打ちのめされ、悩むことが多くなった。
――いつから自分はこんな風に臆病になってしまったのだろう?
もう迷わないと決めたあの日の誓いはどこに行ってしまったのか。気づけば、フォンの不安げな眼差しが目の前にある。フォンに隠し事はできなかった。苦笑いを浮かべて、弱音を吐く。
「カッコ悪いよな、私……。こんなんじゃ、あの子たちに笑われちまうよな」
「そんなことないよ、レイの思いはきっとあの子たちにも伝わってる。それとも私の言うことは信じられない?」
ひどく澄んだ深緑色の瞳がじっとレイを見つめている。励まされているはずなのに、フォンの方がレイに縋っているような気になるのはなぜだろうか。
フォンの気持ちを無碍にはできない。なぜなら、大事な友達だから。
「……いや、信じるよ。フォンが言うなら、間違いないな!」
「うん、わかってくれてうれしい。レイが迷っているのは見たくないから……!」
フォンはレイの胸に体を預けると、気持ちよさそうに空を見上げた。もう日は完全に上り、周囲の山々は一面赤く染まっていた。
「さて、そろそろ村に戻ろうか。仕事の前に一風呂浴びておきたいし、朝ご飯に遅れるとチビ達や義姉さんに怒られるからな!」
フォンを抱き締めたまま、レイが体を起こす。フォンは恥ずかしそうに体を離すと静かに立ち上がった。
「それなら、私先に戻っているね。遅れたら、ダメだよ?」
「まかせとけって! この辺りの村で、私の足に敵う奴なんて義母さん以外にいやしないからな!! 村まで競争だ!」
そう言って跳ね起きたレイはフォンを一瞥すると頂から姿を消した。あっという間に斜面を下り降って行くその姿はまるで谷底を吹き抜ける一陣の風のようにも思えた。
小さくなっていくその後ろ姿にクスリと微笑むフォンもまた、意識を集中し始める。
微かな旋律が周囲に響き渡った後、フォンの周囲に風が渦巻き、次の瞬間彼女の姿は消えていた。
誰も居なくなった頂きを強い風が吹き抜けていった。