融解
突然足元が溶け始めたのだ。それはうららかな昼下がり、空気がとろりとした日向ぼっこに最適な時間帯だった。まずは靴から、何か泥のようなものを踏んでいる、と思ったら溶けていたのだ。溶けた靴は(靴下も)裸足の指の間をすり抜けて甲の上に広がる。もしくは側面から横に広がり、足を中心とした歪な円を描く。ぬめりぬめりとした元靴は泥を踏んでいるかのように矢張り、指の間をすり抜ける時は何やら異様な心持ちがする、背筋に激震が走り何かが足の指の間から生まれ、背筋の震えが最高潮に達した時それは不快感なのか快感なのか判らず、足の甲を侵食された時にはもう、理性など残っておらず、とろとろと靴が足の上から消えた時には喪失感すら覚える。しかし余韻に浸っている場合ではない、次は爪先である。中指の先端からとろけていき、まずは爪からだ、爪が表面から溶けて薄く薄く薄くなって擦り過ぎたガラスのように、そら消えた、それから肉がゆっくりと溶かされていく、肌色の、やわらかい、液体と固体の丁度中間にあるような物体がとろとろとろとろと足の傍を流れてゆく、おいしそうではないが本能をくすぐる光景だ、側頭部がじんじんと熱くなる。指がすっかり消えてしまって土踏まずより前は空っぽとなると立っているのは難しくなり無様に倒れるしかなかったのだが、今度は踵からも溶け始めた、どろどろと水に溶かした片栗粉のように粘度のある溶け方だ、同じ足でも爪先と踵では溶け方が違うらしい、粘度で並べると爪先<踵<靴といった並びか、そう言っているうちに踵からの侵食はスピードを増しとうとう足が無くなってしまった、お次は脚だ。踝のあたりから粉末状になって零れ落ちている、風に飛ばされること無く脚元に溜まった足と靴との混合液の表面へ落ちてゆく、昔駄菓子屋で売っていた、水に溶かして飲むジュースを思い出す。今も売っているのだろうか。粉末ジュースシリーズ①「脚」、これでは売れない。駄菓子屋の店長はまだ存命しているのだろうか、それとも溶けているのか。もう溶けているかもしれない。もしかしたら今、溶け始めているのかもしれない。そのことは駄菓子屋の古びて薄汚れたガラス戸を開けない限りわからない。ズボンも共に粉々にされてジュースに色彩を加えている、やはりジュースに色素は大事だ、青色でなければもっと良いのだが。せめて黄色や橙や、……蛍光色は青色以上にお断りだが。膝小僧の辺りから溶け方(溶け方? どちらかと言えば崩れ方だろうか)が変化する。粉末ではなくスライスになり、パラフィン紙のような厚さの膝の断面が空を舞う、あまりの薄さに空中で融解し、空気中の水分と混ざり合い液体となって先程のジュースへと落ちてゆく。ジュース、年に一度誕生日の時だけ飲むことを許されていたジュース、毎年オレンジジュースにするかりんごジュースにするか迷ったものだ、小学校高学年になると悪知恵が付き、小遣いでこっそり買って飲むことを覚えたのだが、見つかると母にこっぴどく叱られ、ジュースが地獄の番人であるような気分にさせられたものだ、それにしてもどうしてあんなにジュースを飲むことを禁じられていたのだろう? 中学生になると途端に飲み物への容喙は無くなった……代わりに読んでもよい本というものを限定されたのだが。恐らく彼女は与えてはならぬものがこの世には存在するということを信じていたのだ、髪を一つにくくり唇をきっと結んだ、長いスカートに薄い化粧、禁欲的な顔立ちの彼女。子供を理想化したかったのだろう……兎にも角にも脚はあらかたスライスされ水分と結婚しジュースはますます肥大化した、あとは付け根が僅かに残っているだけだ、と突然潰れた。まるでクレイアニメのように、相手役にめっためたにやられた相方のように、べちゃりと潰れ、ずるずると這ったかと思うとジュースの上で溶解し、何事も無かったかのように融合し、脚は綺麗さっぱり無くなった、とそこで終わるはずもなく、下腹部はじわじわ潰されてゆく。脚も消えた今無様に転がったまま空を、青い空を、やわらかな昼下がりを見つめていると、人間は完全に消えてしまうような心持ちがする。1,2の3で神様が手を叩くと消えた、という訳でなく、このように脚元からじわりじわりと溶けていき、跡には何も残らない。臍の上の辺りからメレンゲのようにふわりふわりと溶けていくので先程と打って変わり非常に美味しそうに見える、しかし色味がもう少し良ければ、白人であれば本物のメレンゲに見えるのかもしれない。少し羨ましい。メレンゲはふわふわとジュースの上に乗り、コーヒーの上の生クリームのようにやわらかくゆるやかに庇護欲を掻き立てるように溶けていく、こちらを振り向かせようとする清純な乙女を象った何かのように、ふわりふわりと胴体が消えていく、クリスマスツリーに飾る綿がどうしても手に入れたくて、何故かは分からないが、幼稚園にあるツリーから毎日少しずつ取っていたことを思い出す、集めて何がしたかったのか、何にそんなに引きつけられたのか、手触りか、消えてしまいそうで消えてしまわない雪という存在か、自分を包んでくれる暖かいものを探していただけなのか。中指の先から何かが飛び出したと思えばそれは中指自身で、と言っても全部ではなく先の、第一関節の更に半分程だが、丸い液状になって宙に発射された、宇宙空間の水の球のような見た目、のものは空に吸い込まれたかと思うとそのまま下に落ちやはりジュースと融合した。先程のメレンゲはまだすっかり溶けきっておらず、半端なカプチーノのようにゆらゆら浮いている、手からは水の球が無造作に、数知れず、小さな蒸気船のような音を立てて発射され、手はみるみるうちに消えてゆく。球は空から落ちてくる。水の弾丸? 大きな雨粒? メレンゲは空からの集中砲火にすっかり砕けてしまった、離れ島がぷかりぷかりと波に怯えながら浮かんでいる、と、まだ残っていた肩がぶるぶると振動を始め、マッサージチェアのようではあるが細かく激しく、己の振動で肩が溶け始めたことに驚き呆れる、一人芝居も良いところだが、溶け始めたというよりはいきなりべしゃりと溶けてしまったので最早肩から向こうの腕、上腕しか残っていな、否、それも宙に吹き上げられて消えてしまった。子供の頃に好きだった、息を吹いてボールを吹き上げるゲーム、ああそうだ、それに似ている。胴体も消えた、脚も、腕も、手も足も、最早残っているのは生首自身だけだ、さてどう溶けゆくものか。首の断面がとろとろと溶け始めた、足の時とは違う粘度で、ああこれは例えるならスライムだ、手に垂らして遊ぶ子供心を惹きつけてやまない玩具、こんなに汚してと叱るママの前でスライムをまとめてケースに入れるとあら不思議元の通り綺麗なまま、蛍光緑色のスライムが一番人気でわざと教室を暗くして光らせながら遊んでいた。未確認生物のような宇宙人のような見た目が好きだったのだ、子どもたちは訳の分からないものが大好きだから宇宙人と初めに友だちになるのは子供と決まっている。人差し指と人差し指を突き合わせてああもう宇宙人と友だちになれないな、頭を突き合わせるのが挨拶の宇宙人でも現れない限り。鼻の隆起がとろとろと溶けて減っていくのは見ものだ、まるで太平洋のどこかで島が沈んでいくのを眺めているような光景に心奪われる、感動的ですらある、クライマックスだ、映画で言えばラストシーン、船の舳先に立って手を広げる、島はとうとう沈んでしまった。最後に青空を見ておこうと、途轍も無く途方も無く、目も眩むようで歯が立たず、吸い込まれていくような、永遠の聖女のようなこの青空を目に焼き付けておこうと空を見上げ、嗚呼とうとう目の前が暗くなった、いや、眼球が溶けたのだ、見る機関そのものが身体に属さなくなったのだ、スライムの行き場はジュースだろうが、溶融し凝縮されたこのジュースは何処へ行くのか、みずたまりとなってやがてはじょうはつしてしまうのか、それともさいごのしんぱんのようにそらへととんでゆくのか、そらってなんだ、そ、ら、な、なな、なななあ、あ、あ、
あ。