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「ミヒャイル・ゴットハイム」
「…は?」
俺と目を合わせたまま真剣な声色で放ったその言葉は、人の名前に聞こえなくもない。
でもまさか、明らかに外見日本人なコイツの名前とは思えない。
思わず虚を衝かれて目を瞬かせた。
「…それ、お前の名前じゃないよな?」
「俺んちの犬に決まってんだろ、バ~カ」
「………」
イラっとした。今度こそ本気でコイツを絞め殺してもいいだろうか…。
最初に蹴られた時よりもムカつきを覚える。目が険呑な色を帯びていくのが自分でもわかるくらいだ。
だが何故か、眇めた眼差しで下から睨み上げたというのに、オレンジ頭はフッと笑った。
それはそれは楽しそうな笑い顔に、苛立ちを通り越して不吉なモノを感じる。
意味不明な行動の数々に、もはや感じるのは警戒心のみ。
「俺の名前が知りたいんだ?それならまた明日の放課後ここに来いよ」
案の定、神経の図太い言葉が返ってきた。
そう言われて、わかったまた会いましょう、なんて言う奴がいるわけないだろ。
いや、もしかしたらいるかもしれないが、俺は違う。
「いらない。お前の名前なんてどうでもいい」
「やせ我慢しちゃって」
「してない!」
沸点が高いと言われている俺でも、さすがに血管が切れそうだ。血がグツグツと煮えたぎりそう。
誰だコイツと思うものの、それを知る事で関わりが増えるとなれば、コイツが誰だろうともうどうでもいい。
改めて相手の顔を眺めても、やっぱり記憶に引っ掛からないという事は、本当に見知らぬ他人なのだろう。
…俺が忘れていなければ…の話だが。
内心でそんな事を思いながら見ていた俺の視線に気が付いたのか、いまだ上に乗っているオレンジ頭が小さく首を傾げた。
「何ジロジロ見てんの?格好良い俺に見惚れちゃうのはわかるけどさ」
「いや、ありえないだろ…。っていうか、いいかげんにどけよ」
「イヤだね」
「…オイ」
即答に一瞬絶句するも、すぐに手を伸ばして相手の制服の裾を掴み、思いっきり横に引っ張ってやった。
上から落としてやろうとしたのだが、それでも態勢をよろけさせない様子に、今度こそ深い溜息が零れる。
「…どうしたいんだお前は…」
「明日もここに来るって言わなきゃ動かない。来ないって言うなら俺にどいてほしくないんだって受け取る」
「………」
清々しいほど自分中心の発言に、二の句が告げない。
…すごい理屈だな…。
今にも唇を尖らせそうな雰囲気は、まるで小さな子供のよう。
思わず呆れた眼差しを向けてしまった。
「知らない奴と約束なんてしたくないし、する必要もないだろ。お前の名前を知らなくても問題はないし」
少し冷たかったか?と思いながらも、今までのコイツの態度を思えばしょうがない。
素っ気なく対応していれば、そのうち諦めるだろう。
という俺の目論見は、見事に覆された。
「それなら一生このままだね。っていうか、押し倒されていたいなら素直にそう言えばいいのに」
「は?!」
傲岸不遜の勘違い野郎とは、まさにコイツの事。
…誰か通訳してくれ…。日本語が通じない似非日本人がここにいる。
会話が成立しているようで成立していない状況に、とうとう頭が痛くなってきた。
このままでは埒があかない。それどころか、おかしな方向へ話が進んでいく気がする。
こうなったら多少手荒でも、実力行使で逃れた方が自分の為だ。
グッと腹筋に力を入れて上半身を少しだけ浮かせ、チカラの限りに体をグイッと斜めに横に捻った。
こうすれば、上に乗っている相手が落ちるだろうという簡単な原理。
案の定、すぐに相手は俺の上からコロンと転がり落ち、そのまま転がったかと思えば、落ちた際に打ったらしい片肘を痛そうに摩っている。
その間に立ちあがり、制服についた砂埃を手で簡単に払い落しながら歩き出した。
「明日!ここで待ってるからな、ハニー」
「…だ…れがハニーだ!」
唐突に背後から言われた恐ろしい単語に反応するも、振り向いた先でふざけたように投げキッスをしながら笑う相手の顔を見た瞬間に「しまった…」と自分の失態に気がついた。
無視すればいいものを…、まだまだ甘いな、俺も。
二度と振り向かない事を自分に誓い、足早に歩き出して屋上から校内へ戻った。
その際に思いっきり音を立てて扉を閉めてやったのは、もちろんワザと。
少しは俺の不愉快な気分を感じ取れ。