架橋へのファンファーレ~京東大学演劇サークル~
この小説は、みどりむし書房の蛇山夏子・華音によるリレー小説です。
担当:①稲葉四郎③八坂たま⑤山戸健→華音/②鵜野紗羅④大野安⑥咲夜胡乃葉→蛇山夏子
① 稲葉四郎
稲葉四郎は唖然とした。
あまりにも衝撃的な光景を目の当たりにしてしまったからである。
「今日は槍でも降るのか?降ってくるのか!?どうしよう俺防御できるもの持ってない・・・じゃなくて、落ち着け俺。落ち着け稲葉四郎!」
ぶつぶつと呟きながら研究室の廊下を行ったり来たり。これで何往復目だろう、けっこう歩いた気がする。
誰かにぽん、と左肩を叩かれ、俺は立ち止った。
「研究室のそばでは静かにね」
黒髪のロングヘアーをバレッタでまとめた、いかにも仕事できます、という感じの女性。ピンク色のセーターにクリーム色のロングスカート。俺に声をかけると、颯爽と立ち去っていった。
――嗚呼、去りゆく姿も美しき哉。
俺がいつもお世話になっている教授の助手さんである。ここだけの話だが、ちょっとあこがれている。大和撫子とは彼女の事を指すのだろう、間違いない。
しばらく助手さんに声を掛けられた余韻に浸っていたが、改めて「注意されたのだ」ということを自覚し、ヘコんだ。ラウンジの椅子に腰を下ろす。冷静さを大分取り戻した俺は、頭の中で先程の出来事をもう一度整理してみることにした。
ええっと。ついさっき―――・・・
俺はサークルの合宿許可願いの用紙に判子をもらおうと、研究室に向かったのだった。演劇サークル、毎年恒例の強化合宿。顧問の先生の判子が無ければ、合宿自体おじゃんになってしまう。大切な用事だ。
顧問は咲屋聖先生。中世文学を専攻している俺の、担当教授でもある。そのせいか、研究室にはよく出入りしている。
「失礼しまーす・・・」
助手さんは不在のようであった。奥の部屋から男性が言い争う声が聞こえてくる。どうやらその一人は、咲屋先生であるらしかった。
「その本は駄目だ。この間古書店街を探し歩いてやっと見つけた代物なんだ。そう易々と貸してやるものか」
「人として小さいぞ聖君。友と知識を共有しようという広い心を忘れてはならない」
もう一人は・・・誰だろう。どうやら本についてのことらしい。俺は気になって、中の様子をこっそりと伺ってみた。
「上手くまとめて本を借りようとしているようだが、そうはいかんよ」
「私だってその本を長いこと探していた。ここで巡り合えた今、手にしない訳にはいかないだろう」
大判の、黒い本――辞書みたいに分厚い――を取り合っているようだ。
咲屋先生と、藤原先生が。
「単刀直入に言う。貸せ」
「嫌だ。」
いい大人が真剣に本を取り合っている。しかも藤原先生といえば、この大学内で理系の権威、だ。噂には聞いたことがある。咲屋先生は文系の権威であり―――・・・対立関係にあるはずだ。
この大学で文学部と工学部が犬猿の仲であることは周知の事実である。俺も入学式の時点で、そのことを思い知った。
入学式は学部ごとに行われたのだが、我々文学部の入学式の時に―――・・・工学部の生徒数名が乱入し、騒ぎを起こしたのだ。彼らは式典の最中にメガホンでこう叫んだ。
「入学祝いの挨拶は簡潔にお願いしまーす」
「まわりくどい挨拶はご遠慮願いまーす」
文学部の学部長、咲屋先生が挨拶をしようとした時の出来事であった。完全に嫌がらせである。彼らはすぐにつまみ出されたが、あの出来事で文学部一同の心に敵対心が生まれたことは間違いない。犯人が工学部の人間である、ということが知れ渡ったから尚更である。
「あー俺らのところもあったよ、それ」
工学部の友人、大野安もこのような証言をしている。ちなみに彼は情報工学部である。
「入学式の最中に突然人が乱入してきてさ、『お前たちはロボットではない!人間だ!あいつらに洗脳されるな!』とか言ってた。なんか怪しい宗教団体の人かと思っちった」
どうやらこちらよりも幾分か感情的だったようだ。彼ら工学部一同の心にも、敵対心――というより不快感――を植え付けたらしい。
ちなみに大野安は演劇部のメンバーである。彼とは文理の壁を越えて仲良しである。まあ演劇部の奴らは皆そうであるけれども。
で、である。
話を戻そう。
そんな犬猿の仲である文学部、工学部の教授――しかも権威――が仲良く本を取り合っている光景を目の当たりにしてしまった。
これは槍が降ってきてもおかしくはない。いや、本当に降ってくるんじゃ。
「あああー!!皆の者、撤収じゃー!撤収―!!」
椅子から立ち上がり、サークル室へと向かう。わたくし、稲葉四郎は、とんでもないものを目撃してしまったようだ。
② 鵜野紗良
サークル室は五号館の地下一階、B105。
演劇サークルはこの一室を、居城にしている。
室内の壁には今まで演劇サークルが活動してきた変遷を示す新旧ビラや、舞台の写真、有名劇団の演目ポスター、オードリー・ヘップバーンの見目麗しいポスターなどが隙間なく貼ってある。備え付けの棚には、自分たちで綴じて作った台本や、演劇の本、脚本などが並んでいる。
ここは我らの根城。歴史が堆積した古城。古きよき先輩方と現在を繋ぎ、そして我らは見果てぬ未来へと、その美しい織物を織り次いでいる。
そしてその石造りの城は湖に囲まれており・・・濃い霧・・・甲冑を装着した兵士が歩く・・・夜の見張りをしているのだ・・・そして王の亡霊が現れる・・・。
―――この悠久の時を過ごす、サークル室に駆けてくる運命の足音が。
バタンと乱暴に扉が開かれた。
来たなデンマーク王国の王城に駆けて来た一人の伝令!
「皆の衆ー!!一大事であるぞー!!」
あ、こっちは、城は城でも中世日本、武士だったわね。
いかんいかん。
・・・いや、そうじゃないや。
目をぱちくりとさせて、鵜野紗良はサークル室のドアに立つ人物を認めた。
そしてにっこり微笑んだ。
「あ、おかえりー四郎くん」
サークル室の戸口には副部長こと稲葉四郎が息を切らして立っていた。
武士口調の騒ぎに、サークル室の隅に置いてあるソファから大野安がむくりと大柄な体を起こす。部屋の真ん中に据えたテーブルで、合宿スケジュールを確認していた八坂たまと咲屋胡乃葉も顔を上げた。
紗良はシェイクスピアの『ハムレット』の翻訳本をぱたりと閉じた。短い間に随分、物語に入り込んでしまっていたようだ。
頭を切り替えて四郎に話しかける。
「判子お疲れ様。いかんなぁ、遅かったからヤマトくんに行ってもらっちゃったよ。入れ違いになっちゃったねぇ」
ジーンズの細い脚を組んで、紗良は困ったように頭を掻く。山戸健が出てってもう五分経つ。今頃文学部の研究室がある三号館の廊下を歩いているところだろう。
まあいいや、仕方ない。ジーンズのポケットから黒白シックなデザインの二つ折り携帯電話を取り出し、アドレス帳から『山戸健』をディスプレイに呼び出す。
四郎は暫く息を整えながら固まっていたが、はっとして演劇サークル仕込みの声を張り上げた。
「それより!本当に!一大事でございます部長ー!!」
「うん、そうか。それについてはゆっくり聞こう」
紗良が自分のそばの席をぽんぽんと叩く。
何事かと目を見張っていた三年生一同は、慌てて四郎にテーブルの席を勧めた。その間に紗良は携帯電話で山戸健を呼び出す。テーブルは合宿スケジュールやら台本の印刷損ねやらお菓子が散らかっており、三年生五人が座るといっぱいいっぱいになった。
それでも紗良は、座ってまもなく落ち着いて話し始めた四郎を見守ってからにっこりした。これがいつもの風景なのだ。
そして電話に出た相手に言い放った。
「ごめん、四郎くんさっき帰ってきた。だからヤマトくん、悪いけどサークル室に帰ってきてー」
鵜野紗良、文学部英文学科三年生。「彼女が微笑めば人が道を開ける」とか、「無敵のマイペース」とか言われる、演劇サークルのスーパー部長である。ちなみに、部長の前の「スーパー」は自分で付けて呼んでいる。
英文学科の専攻はウィリアム・シェイクスピア。精力的に原文に取り組み、『真夏の夜の夢』は大学一年生から大学二年生にかけて自主的に翻訳した。サークルでは主役を演じる実力者で、脚が綺麗な女優と評判だ。三年生では部長を務めている。
アルバイトはイタリアンレストランのホールスタッフ、演劇もミュージカルも沢山観たい、毎日が多忙な二十一歳。
一部から「学生生活に励みすぎていてついていけねぇ」と言わしめる女子大生である。
そんな演劇サークルのスーパー部長、鵜野紗良も、四郎が持ってきた話に驚いた。
いや、サークル室全体に衝撃が走ったといっていい。
文学部の学部長、咲屋聖先生と工学部の学部長、藤原定信先生が仲良く本を取り合って喧嘩していた。
「ええっ うそぉ?!」
素っ頓狂な声が、紗良とたまとで重なった。
「藤原先生ってあの情報工学科のあの先生でしょ?眼鏡でしょ?工学部の学部長!」
紗良の矢継ぎ早な念押しに、四郎がまだ信じられない、という表情で頷く。
テーブルを囲む三年生の面々も、狐につままれたような顔をしている。半信半疑、といったところだ。
紗良も衝撃にくらくらする頭で考えた。この大学の文学部と工学部の教授連は伝統的に仲が悪いと決まっている。何でも遡れば五十年もの歴史があるそうで、文学部の大教授と工学部の大教授の教授会における権力争いから端を発しているらしい。
その確執たるや根深く、紗良のゼミの英文学の教授、村隈先生も、演算子に英語を多用する情報工学科の藤原定信先生をあてこすっていた。
「まあ、血が通った文学を味わう人たちではありませんしね。情報工学の教授は同じ単語だけ覚えていればよろしいのですよ」
あんまり工学部と関わることすらないはずなのに。
その、文学部の親玉である咲屋聖先生と、工学部の親玉である藤原定信先生が、仲良く本を取り合いしていた?
「・・・見間違えではないの?」
望みをかけるように、胡乃葉が訊く。
四郎は首を横に振る。
「いや、確かに見た」
武士口調が直ったのをみると大分落ち着いてきたらしい。四郎はテーブルに置いてあったクランキーチョコの袋をいそいそと手に取り、包装紙を剥がし、ぱくりと食べる。もそり、もそりと食べて、「おいしい」としみじみと呟いた。
一同は何とも言えない面持ちで顔を見合わせる。紗良は四郎の困惑する気持ちが手に取るように解かった。
みんな、入学式に参加して、文学部に対する工学部からの嫌がらせと、工学部に対する文学部からの嫌がらせを経験している。今、ここにいない山戸健にいたっては、大学の中庭で咲屋先生と藤原先生が罵倒し合っている場面を目撃したことがあるらしい。
みんな沈黙しているが、紗良が村隈先生のあてこすりを思い出したように、それぞれの頭には「あれは一体なんだったんだ」という場面が思い浮かんでいるに違いない。
紗良はちらり、と胡乃葉を見る。明らかに憂鬱そうな顔をしている。誰も胡乃葉に訊いたことはないが、紗良は胡乃葉と咲屋先生が親戚関係なのではないか、と思っている。咲屋なんて、珍しい苗字だ。そうそういるものではない。
胡乃葉は何か知っているんじゃないかなぁ・・・と思いつつ、まあいっか、と切り替えた。
最初は困惑していたけれど、少し時間が経ったら、それより好奇心が湧いてきてしまった。
うずうずしつつ、みんなの顔を窺う。
「それは、うちの文学部と、工学部の常識が引っくり返るような出来事ね」
ぐっと身を乗り出した紗良に、みんなは「う、うん・・・」と頷く。
「紗良さん、瞳が輝いているね」
「そりゃそうよ、ホレイシオ」
「ホレイシオて紗良さん、誰」
「あ、ごめん間違えた、安くん」
ああいけない、ハムレットが乗り移っちゃった。
頭を掻きながら詫びると、安は苦笑してはいはい、と頷いた。紗良は少し肩を竦めてみせる。
「だって、犬猿の仲だと思われていた文学部と、工学部の学部長同士が仲が良いのよ?それって面白いじゃない」
安を見ると、そうだね、としっかり頷く。他のメンバーもどことなく好奇心が刺激されたようで、ニヤッとした。
紗良もニヤッとしてみせる。このサークルの同期六人はそれぞれ半々が文学部と工学部の学生なのだ。大野安と八坂たま、ここにはいない山戸健は工学部で、紗良と稲葉四郎と咲屋胡乃葉は文学部。だけど、このメンバーは仲が良い。数々の公演を共に作り上げてきた仲間たちだ。
他のサークルでは文学部と工学部のサークル権力争いがあったりするようだけれど、伝統的に文理分け隔てない演劇サークルには関係なかった。みんながみんな、重要な役割を果たして演劇は成り立つのだ。紗良は部長、四郎は副部長、八坂たまは会計、山戸健は広報長、咲屋胡乃葉は脚本家兼合宿長、大野安は演出長。役者、裏方も務めるし、それぞれの役割に自負を持っている。
普段から馬鹿馬鹿しいと思っているのだ、学部同士の対立だなんて。仲良くしているのが、時に肩身が狭くなるなんて、おかしいじゃないのか。
咲屋聖先生は我らがサークルの顧問。
この大事件を目撃するのは、我らが一番相応しい。
紗良はビシッと四郎を指差した。
「ところで四郎よ、合宿許可願いに君は判子を貰い忘れたね?」
「はっ」
びくりと肩を震わせて、四郎は切ない目で紗良を見る。
だが、紗良はにんまりした。
「That‘s nice!! みんな、研究室を見に行こうではないか。判子、もらいにね」
安とたまはニヤッとして瞬時に立ち上がった。四郎は少しおどおどしつつ、「大事が起こらねばよいが・・・」と呟きながら腰を浮かした。胡乃葉は深い溜め息をつき、諦め顔で立ち上がる。
紗良はわくわくしながらみんなと出掛ける準備をし、あ、そうだと思い出して携帯電話を取り出した。
呼び出し先は、勿論、山戸健である。
『何だ、一度に用が言えないのか』
「ヤマトくん、やっぱり私たち今から咲屋先生の研究室行くから、先行部隊として先に行ってて!」
『・・・鵜野君?“私たち”と言ったか?今』
「うん、みんなで行く」
『・・・君が非合理的なのは今に始まったことではないが、一体それにどんな意味があるんだ。それから僕にまったくの無駄足をさせるつもりか?』
「うん」
『・・・もう一つ訊きたい。稲葉は判子をもらっていないのか』
「うん。だから今からみんなで行くから!」
『馬鹿か?』
「待ってて!」
『おい』
ぷちっと電話を切る。
やれやれ、と紗良は携帯電話の電源を落とした。理系の山戸健はすぐ合理だ非合理だと言う。男のくせに細かい。それじゃぁモテないぞ、と心の中で舌を出す。
スーパー部長紗良は、自分がかなりアバウト、かなりマイペースであることを自覚していない。
「紗良、行くよ」
振り向くと、既に他のメンバーはサークル室の外に出て、廊下から戸の中を覗いていた。若干緊張した、しかし悪戯しに行くような面持ちで。たまがサークル室の鍵を揺らして、閉めるよ、と合図する。
ふと目が合うと、安がにっこり笑って手招きした。
「紗良さん」
それだけで、なんとなく嬉しくなって紗良はにっこりした。
「さぁて、参りますか」
文学部と工学部の秘密を暴いていやるんだから。
ホレイシオ、というのは、ハムレットの腹心の友だ。
演じ手として舞台の上にあがる紗良は、スポットライトを当ててくれたり、いいタイミングで効果音を入れくれる安を絶対的に信頼している。
いつだって丁度いいところに、いてくれるのだ。
サークルでだって、マイペースな紗良と、暴走しやすい四郎を穏やかに見守ってくれる。体も大きいが、心も鷹揚で包容力のある安。
だから、紗良はハムレットが乗り移っているときに、安をホレイシオ、と呼んでしまうのだ。
紗良はまだこれが友情なのか、恋なのか知らない。
だけどまぁ、今は研究室に行って大事件を目撃するのが先決だけどね。
何せ、紗良は無敵のスーパー部長。
様々な思いが入り混じるみんなを引き連れて、好奇心に胸をときめかせ、先の尖ったブーツで廊下を闊歩するのだ。
③ 八坂たま
サークル室の鍵を閉めた後、私はぞろぞろと群れを成す同期四人に混ざり、研究室へと向かうため階段を昇り地上へと出た。そして五号館を後にし、信号二つ分の先にある三号館へと向かう。何だか遠足の班行動みたいで、ワクワクする。部長である紗良、そして演出長である安君が先陣をきって歩く。五人で歩いているのだから先陣もなにもあったものではないが、先をゆく二人はそれ位いきいきして見えた。私もその雰囲気に乗せられつつある。しかし同時に、私の目の前を歩く二人――胡乃葉と四郎のことも気になっていた。四郎は本の取り合いの現場を見た張本人だ。先程の慌てぶりからしても、まだ冷静さを欠いているだろうし、再び現場に出向くのはちょっと厳しいんじゃないかと思う。そして胡乃葉。彼女もここまでついてはきているものの、あまり乗り気ではない様子だ。
私個人の意見としては、ものすごく興味があるし研究室に行ってみたい、と思っている。犬猿の仲と呼ばれる咲屋先生と藤原先生が親しくしていた、なんて聞いたら、そりゃあ野次馬根性がくすぐられるに決まっている。写メ、撮りたい。待ち受けにしたい。
いやそこまで極端ではなくとも――とにかく興味がある。
しかし一方で許可願いに判子をもらいに行くだけでこの人数は多すぎるだろ!とか、一部あまり積極的には見えない人たちのことを考えると、わざわざ全員で行かなくても、なんていう風にも思う。
イベント的な出来事を楽しむと同時に、どこか冷めた目で見ていることがあるのだ。この性格がサークルの方向性を軌道修正する役割を果たしている、と一応自負している。
「四郎ちゃん四郎ちゃん」
私は前を歩く四郎の肩をぽんと叩いた。
「許可願いの紙、貸ーして」
「あ、はい。」
四郎がすんなりと紙を手渡す。私はそれを受け取ると、すでに三号館の入り口で待機をしている紗良と安君の元へと駆け出した。
「あ!?ちょっと八坂さん!?」
紙を渡してしまったという事実にようやく気が付いた四郎はあわてて大きな声で叫んだ。
「その紙どうするつもり!?」
「こうするのよ」
私は紗良に追いつくと、許可願いの紙をすっと両手で差し出した。
「我らが部長、ここは部長らしく、先陣を切って突入してください!」
紗良が一瞬きょとんとした顔でこちらを見た。よし、ここからが勝負だ。私は許可願いの「顧問の印」の空欄を指差した。
「この空白に『咲屋』のしるしを刻むことができるのは部長、貴方一人だけです。どうかお願いします、我々の未来は貴方の手にかかっているのです・・・!」
「たま・・・」
紗良の目が本気モードになってきた。皆固唾を飲んで見守っている。
紗良は私の肩をぽんとたたくと、許可願いの紙を受け取った。
「その話、私が引き受けよう。案ずるな、お前たちの未来は私が保障する」
「さすが部長!いよっ、男前!」
「惚れ直したぜ姉さん!」安君も一緒になって掛け声をかけてくれた。
演劇部、恒例の寸劇である。これがはじまると事態はスムーズにいくことが多い。わりと。
「まあまあ諸君、落ち着きたまえ、落ち着きたまえ」
紗良は許可願いの紙を手に、俄然やる気を出したようで、「さあいざ行かん研究室ー!」と、三号館の扉をばんと開いた。そしてそのまますぐそばにあるエレベーターのところまで移動する。
意気揚々とエレベーターの「開」のボタンを押し、皆を中に入れた。全員が乗り込んだのを確認すると、「閉」のボタンを押した後、10階のボタンを押した。
研究室は10階にある。騒ぎから意外と時間が経ってしまったが、先生方はまだ研究室にいらっしゃるのだろうか。あ、それからヤマケンを随分待たせている。ヤマケンというのは同じサークルの山戸健君のことで、私が勝手に付けたあだ名だ。山戸のヤマに、健のケン。たけると読むのだが、ケン。雰囲気である。
あいつ短気だからなぁ。怒ってないといいけど。
まあ、とりあえずこれで許可願いを四郎が直接もらいに行く必要はなくなったわけだ。良かった良かった。なんかヤバそうなことになったらサークル室に引き返そう。まあ大丈夫だとは思うけれど。
「なんかすごいことになりそうだね」
右隣にいる胡乃葉に声を掛けられた。
「うん。ひょっとしたら学校一のスキャンダルかもね」
「だね」胡乃葉はくすくすと笑った。
なんだ、胡乃葉も楽しんでいたんだ、この事態を。
「ひょっとしたらこの大学の歴史自体を変える出来事かもしれないな。俺達は今、その時代の変動の狭間にいるんだ・・・なんてな」
左隣にいる四郎も、聞いていたのか、会話に加わり始める。
「なんだ、四郎ちゃん全然平気そうじゃん」
「だいぶ落ち着いたからな。クランキーチョコで」
「単純なやつ・・・」
「四郎君らしいね」
三人でくすくすと笑う。
「なんだなんだ、四郎の話?」
「まぜてまぜてー」
安と紗良も加わる。いつもの光景だ。(ただし、いつもはここにヤマケンもいる。今は不在。残念)
この学校が特殊なだけだとは思うが、学科という大きな壁を越えて私たちは仲良くなった。学科など意識しなくても、私たちは気持ちが通じ合うし、お互いを思いやることができるのだ。
四郎が目撃した「咲屋先生と藤原先生が仲良く本を取り合って」いたことが本当なら。
このばかばかしい「学科の壁」ってやつも、取り壊せるのかもしれない。
何だかワクワクしてきた。
「着いたぞ諸君!私が「開」を押すスキに皆外へ出てくれ!」
私は紗良を見た。どこか破天荒だけれど、振り回されるのは悪くない。
むしろ私が余計な気をまわしているだけではないか、という気さえしてきた。
少し落ち込んでいると、左隣にいた四郎が声を掛けてきた。
「先程はありがとう八坂さん。ほら俺、衝撃の現場を目撃した訳だし、実はちょっと気が重かったんだよね、先生と直接話すの」
四郎はにこりと笑うと、エレベーターの外に出て行った。
無駄ではなかったらしい、私の行動は。
「たまも降りて降りてー!」
紗良が手招きをする。安君、四郎、胡乃葉がこちらを見ている。
まあいっか、楽しいし。
これからも振り回されてあげよう。そしてちょこっとだけ、進路をコンパスの向く方へ誘導していこう、楽しみながら。
④ 大野 安
三号館10階『咲屋聖・山川出研究室』。
文学部が誇る中世文学と中古文学の教授が使用している研究室だ。ドアに付いている細窓を少し覗くが、見える範囲には誰もいない。
紗良がドアの前に立って、部員たちに目配せしてニヤっとし、胸を反らしてノックをした。
瞬時にドアを開ける。
「失礼しまーす!」
静寂。
しんと静まった研究室から、応答はない。
「あれ?誰もいないね」
「咲屋先生ー」
紗良に続き、演劇サークル三年生一同がわらわらと研究室に入る。咲屋先生の名前を呼んでも返事があるわけでもない。紗良が奥の部屋を覗きに行ったが、誰もいないらしい。意気込んでやってきたのが拍子抜けだ。
大野安は出入り口で止まって、研究室を見回し、おかしい、と首を傾げた。ドアの外面には在室・外出表が貼ってあり、教授や助手さんの名前が貼ってあるマグネットがつけてある。『咲屋』というマグネットのみが「在室」欄につけてあった。咲屋先生だけはいることになっているはず、なのに。
トイレに行くにしても、大抵、先生方や助手さんが研究室を出て無人になってしまう場合、鍵を掛けるはずだ。
と、研究室の真ん中に佇立していた紗良が悪態をついた。
「なんだぁ、折角おもしろいものが見れると思ったのに」
ああ、ああ。そんな風に言ったら、他の人が気にするのに。
「べ、別に妄言ではありませぬ!」
案の定、おろおろしながら四郎がみんなに訴える。
まあ、紗良さんはがっかりしているだけで、誰かを責めようと言っているわけじゃないけれど。
安は様子を見守る。この後の展開は、予想がつく。
「大丈夫だって、みんな疑っているわけでも、責めているわけでもないよ。ねっ?」
たまに同意を求められて、安はにっこり頷いた。四郎は少しほっとした顔をした。
胡乃葉は携帯電話を見ていたが、ソファに座ってメールを打ち始めた。そういえばサークル室を出ようというときからずっと携帯電話を開いてメールをしている。健とメールをしているのだろうか。
紗良は少し不満げに髪を掻き上げ、胡乃葉に倣ってソファに座った。そして、ニヤリとすると長い脚を組んで傍若無人に言い放つ。
「留守を守ってたってことでいいわね?」
その目は輝いていた。
部長の「居座る」宣言に、部員たちは嬉々として対面式に配置してあるソファに座る。六人いたら丁度全員座れる広さ。いつも研究室に遊びに来ている学生も座っている。部員たちにもいつもの着席位置がある。
安は座らず、研究室をじっくり見回した。ドアを開けるとすぐ左手に助手さんのデスクがある。その背後の仕切りの向こうには先生方のデスクもあるはずだ。助手さんのデスクの手前には輪転機があり、向かいには流し台と食器棚がある。奥の方に紗良たちが座る応接セットのソファがあって、紗良と胡乃葉が一緒に座るその背後の壁際に岩波書店の古典文学大系が並ぶ本棚がある。もう一方、たまと稲葉が座るソファの背後には、安には何やら分からない辞書類が収納してある棚がある。
軽く溜め息をついて、安は憮然とした。先程から四郎が証言していた事件の痕跡がないかと探していたのだが、いつも通り、変わりない。というか、咲屋先生の研究室に多少乱れがあったとして、工学部の情報工学科に所属する自分にとっては馴染みのない場所だから気付けないだろう。四郎は中世文学専攻だし、紗良は部長で先生と懇意にしているから、まだ研究室に来る機会があるだろう。しかし、その二人はふんぞり返っているか小さくなっているかしているだけで部屋を観察している様子はない。意外と、胡乃葉がチラチラと研究室を見ているようだが。
ま、こんなもんか。と、思って安もソファに座った。四郎の隣、紗良の目の前だ。
座った途端、紗良と目が合い、にっこりしてみせた。
「紗良さん、なんだか不満げですね」
ん、と紗良さんは膨れてみせる。
「だって、決定的瞬間見逃しちゃったかも知れないわけじゃない?・・・藤原先生って、眼鏡してて、なんとなく怖そうなイメージしかないのに、そんなくだけたところあるんじゃないか、とか、学部同士の険悪ムードの馬鹿馬鹿しさをぶち壊せるんじゃないか、とか・・・色々、考えていたのに」
しょんぼりして少し上目遣いに見てくる紗良。安は冷静なところで、分析する。出た、上目遣い。慰めて欲しいんだ、紗良さん。どんなときも受け止めてくれ、丁度いいところにいてくれる“安くん”に。
安は大きく頷いて、そうだね、と同意してみた。
「先生たち、一緒に戻ってきてくれねぇかな。そしたら面白いな」
あはは、と紗良は表情を明るくして笑った。
安は内心得意な気分になるが、表情に出さず、一緒に笑ってみせる。
ホレイシオ、か。
俺的には片想いのロミオと自由なジュリエットだ。
安は演劇サークルに入ったときから、紗良のことを面倒なやつ、と思っている。
ブーツの音を高らかに響かせて、長いストレートの髪をなびかせて、挑戦的な目線で周囲を見回す。分厚い本なんか片手にして、誰かと約束するにもすぐスケジュール帳を持ち出す。「私は忙しいですよ」と主張している。
自己顕示欲の強い、自分が中心でないと気が済まないやつだ、と冷めた目で眺めていた。
健とも紗良についてそんな話をしたこともある。ほかに、サークルの同期メンバーの人格についても。同期の四郎はいかにも草食系で大人しい。ただ他人の為によく動く、働き者。たまは右に倣えのタイプだけれど人に細やかな気配りができる。胡乃葉は口数が少なく可憐な雰囲気だけれど、現実的なしっかり者。
健とそんな話をするのが多いのは、同じ学科だからだ。ゼミも同じ。演劇サークル以上に付き合いがある。一緒に飲みにいくのも健だけ。健は眼鏡で一見冷徹そうに見えるけれど、実は直情径行型なタイプだ。それに情に深い。本当は前に出て行きたいけれど、紗良のカリスマ性の陰に隠れてしまっている可哀想な奴。それでも安にとって、一番信頼できる友人だ。
そして自分は。安は自分が周囲の人間に概ね優しいと思われていることを知っている。自分がよく他人の話を聞き、適切な応答をするからだろう。人の気持ちに寄り添うことを言えば、大概の人は自分を信頼してくれる。一歩引いて、他人のことをよく観察する。正確な状況を把握し、理解する。そうやって計算高く、分析する事で、自分が歓迎される環境を作ってきた。それが賢いと思っていた。
我の強さを表面に押し出す人間は愚かだと思っていた。
ところが。紗良は確かに、自己顕示欲の強い、自分が中心でないと気が済まないタイプだった。一年生のときから、サークルで積極的に意見して、様々なことを実践していた。前まで既存の作品の演劇しかやっていなかったが、みんなで内容を考えて脚本を起こすようになったのは、二年生になって紗良が胡乃葉を連れて来たからだ。主役を張るくらいの女優だけれど、裏方の安ともよく話し、対等に意見を交わす。サークル以外にも、学業が注目され、オープンキャンパスで受験生の相談を受けるアルバイトを研究室から任されたりした。そういった姿勢が、演劇サークルの先輩や、同期のメンバーや、咲屋先生に認められていったのが、安にはよく分かった。
自己顕示欲が強いなら、他人に認めてもらえるくらいに自分を高める。提案したことは、必ず実現のための努力をする。紗良は自分の気持ちの赴くままに生きている自由人だから、あまりそんなことは意識していないかも知れない。でも、紗良がしていることは、そういうことだった。
演劇サークルに入ってからそんな紗良の実力主義に直面し、安は紗良を見くびっていた事を認めて、自分を恥じた。そうやって一度認めてしまうと、サークルに入って暫くは冷めた目で見ていた紗良や四郎の、文系特有の整合性のない言動が段々面白く思えてきた。そして、彼らの言動に馬鹿正直に反応して、そのたび憤ったり、ちょっと傷ついたり、唖然としたりする健を羨ましく思うようになった。自分は常に一歩ひいて、みんなを見るにも冷静でいようとする心が働いてしまう。自分は上から目線の勘違いヤローなのではないか。暫くそう悩んだ。
そんなコンプレックスを抱いていたあるとき、紗良がこう言うまで。
「安くんはいつも私たちを鷹揚に見守ってくれている大神さまなのだよ!」
一歩ひいて、冷静に面白いなぁと微笑して眺めていただけだったのが、みんなのことをきちんと理解して、柔らかく受け止められる大きな存在になりたいと思った瞬間だった。
勿論、紗良は面倒なやつなのだ、今だって。自分のやりたい遊びを提案して、みんながついてくることを疑わないくらいのマイペースさは、他人への配慮が欠けがちになる。おいおいちょっと待ってくれ、と言いたい事だってある。健なんかは、非合理だ何だと紗良につっかかることが多い。それでも、紗良は一回認めてしまえば、良いところをいくつでも認めることができる女の子だ。
紗良のリーダーシップを信頼して、足りないところはみんなで補えばいい、という風潮があるのは、三年生の幹部たちが紗良のそんな人間性認めているからだろう。
それに、安は知っている。紗良はみんながいるから自分の立場と言動が有り得るのだと、分かっている。
安は一年生のときから演劇サークルの裏方をしている。ライトや音響、大道具の転換や小道具の用意。舞台の上でスムーズにお芝居を進行させる重要な役割だ。お芝居を客観的に支えるから、演出の役割も兼ねる。それだからこその『演出長』だ。
安はどんな役者に対しても、先輩後輩関係なく、平等に、その役に相応しい演出をすることを心がけている。それが代々の演劇サークル裏方の方針で、そのための話し合いも役者側とよく行う。意見がぶつかることもあるが、そうやって作り上げていく舞台ほどいいものはないと思う。
そんな安たち裏方の役割を、一番理解して、積極的に話に応じて意見を取り入れ、認めてくれるのが、紗良なのだ。我を通そうとするほかの役者を説得して、裏方と話をするよう促すことさえある。そして、安の音を入れるタイミングや、見せ方や助言を完全に信頼して、思い切り演じてくれる。
安が一番達成感を感じるときは、本番が終わった後のカーテンコール。
紗良は演じきった達成感でいっぱいだろうに、忘れず必ず裏方の顔を見つけて、にっこり微笑むのだ。
相手に自分の事を信頼させるのではなく、まず相手のことを信用する。安は自分でも思う以上に紗良を信頼するようになっていた。
好きになるに決まってるじゃないか。
知っているよ、と胸の内で呟く。
ホレイシオはハムレットの腹心の友人だ。知らないわけがないじゃないか。
紗良さんが一生懸命翻訳したシェイクスピアの脚本なんだから。
読んだに決まってるだろ。
―――と、いうのも口に出さない、片想い中。
紗良はマイペースに、物凄い勢いで学生生活を消費しているのだ。安の想いになんて、気が付かないだろう。
それに、安には、紗良に好きだと言えない事情がある。
安と健は同じ古賀先生のゼミ生だが、その古賀先生は文学部に敵対する工学部の最先鋒だ。工学部と文学部の仲の悪さは藤原先生と咲屋先生が象徴的で有名だけれど、安は藤原先生の授業で文学部の悪口を聞いたことがない。むしろ古賀先生の授業の方が随所に罵詈雑言が散りばめられている次第だ。
実は藤原先生は状況的に文学部の敵にならざるを得ないのではないかと思っていたので、四郎が目撃した藤原先生と咲屋先生の仲の良い本の取り合いを聞いたとき、やっぱり、と思ったくらいだった。
しかし、問題の古賀先生。古賀ゼミに所属してから知ったのだが、文学部の入学式を妨害した学生たちは、代々古賀ゼミ学生が請け負っていたのだ。
古賀先生に洗脳されたゼミ生が自発的に始めたらしいが、どういうわけか運動部的なノリで受け継がれ、『毎年入学式は妨害に全員参加』が課せられている。
そんな最右翼のゼミに所属したばかりに、演劇サークルに所属していることはしぶしぶ認められているが、文学部の女の子が好きだとか付き合っているだとかはもってのほかなのだ。先生に睨まれかねない。
特に紗良は工学部の学生や先生にも名前が伝わるスーパー部長だ。睨んでもあまり意味がないのに古賀先生に睨まれている。
肌の浅黒い、への字の口をした古賀先生は鼻で笑って言う。
「演劇サークルの部長だそうな。お前ら可愛いとか思ってるんじゃないだろうな」
ほかのゼミ生まで、鼻で笑う。肩身が狭いことこの上ない。
隠れて胡乃葉と付き合っている健は、古賀先生がそんなことを言うたび緊張で顔をこわばらせている。
二人が付き合っていることを知っているのは、安だけだ。演劇サークルの誰も知らない。どこからバレるか分からないから、念には念を入れて秘密にしているのだ。
とはいえ、健と二人で飲みに行くたび「何で俺とこのはは堂々としてはいけないんだ!不平等だ!」と怒り出すからいつまで持つかと安はハラハラしている。
と、安は我に返る。
ちょっと待てよ。
健はどうした?
そういえばいないぞ。
「なぁ紗良さん」
「なんだいやっさん」
「健は先行部隊として研究室に来ているんじゃなかったかい」
「おや」
紗良は目をぱちくりとさせ、研究室を見回す。話を聞いていたたまと四郎も見回す。
安はかくっと軽くコケた。なんというか、演劇サークルでの健の扱いはひどいものがある。一番真面目なのに。いや、一番癖がないから存在を忘れられがちなのだろうか。
勿論、みんなが見回したからって、いきなり健が出てくるわけでもない。
「あ」
胡乃葉が携帯電話片手に、手をひらひらと動かしながら声をかけた。
「さっきメール送ってみたから、大丈夫」
みんな、胡乃葉に向けにっこりしてありがとう、と声をかける。さすが彼女、と安は心の中で声をかける。
いいなぁ。健。しっかり者で、相手の状況をきちんと分かっていてくれて、協力してくれる彼女がいて。一番に、考えてくれる人がいて。
俺は道のりが遠いよ。古賀ゼミの悪しき伝統に組み込まれつつある我が身もあるし、それを乗り越えないとアプローチなんてできないし。
紗良さんに告白するにしたって、自由人だから、きっと一番は自分のことになるんだろうな。紗良さんのことを好きな人だってたくさんいるだろう。今は紗良さんは突っ走っているから恋に目が向いていないだけ。いつまで、彼女にとってのベストポジションを保持できるか。
四郎から藤原先生と咲屋先生の目撃談を聞いたとき、安も工学部と文学部の変な敵対状態を脱することができるのではと期待した。
二学部の象徴たる藤原先生と咲屋先生の仲が良いと分かったら、学生も、先生たちも、みんなその馬鹿馬鹿しさに気付くだろう。
そしたら古賀先生の罵詈雑言だって意味をなくすだろう。
自由なジュリエットに、恋を伝えられないロミオになんてならないのに。
「それにしてもヤマケンはどうしたのかね。まだメール返ってこない?」
「うん、まだ」
「咲屋先生もまだかなー」
「そういえば脚本いつ上がりますか?胡乃葉センセ」
「大丈夫っ、期末試験前までには終わります」
しゅたっと敬礼する胡乃葉に、紗良は満足げに頷き、たまはにっこりする。
安はまったりした気持ちで、それを眺める。どうしようもないこともあるのかな。それでも、安はこういう時間が好きだ。
胡乃葉が座る向こうに、ベランダに繋がる出窓を見つけ、はっとした。
観葉植物が前に置いてあるから分からなかったけど、出窓が少し開いている。そういえば、三号館のベランダは全部繋がっていたっけ。
と、思っていると、研究室のドアがガチャリと開いた。
「おやぁ」
ドアを開けたのは、くだんの咲屋先生だった。ゆるい素材の赤いチェックのワイシャツを着た、にこにこした中年のおじさん。腕に大判の本をしっかり抱えている。その実、日本中世文学の権威だ。結構有名な教授らしい。
「演劇サークルの幹部連の勢ぞろいじゃない」
「留守を預かっておりました、先生」
「おおっ、それはどうも」
「ちょっと無用心ではありませんか」
「そ、そうかね」
安は先生を観察する。今、一瞬、どもらなかったか?
そして、安は先生の後ろついてきた人物に、瞠目した。
残念ながら、藤原先生ではない。
しかし、話題の健ではないか。
「健も一緒だったのか」
「あ、ああ」
健は、真面目そうな眼鏡顔を、どことなく強張らせている。
安は健の顔をじっと見つめ、訊いた。
「お前、何かあったか?」
「な、何もない。俺は何も見ていないんだ!」
何かあったな。
紗良やたまはあからさまにがっかりした感じだったが、気を取り直して咲屋先生に合宿許可書に判子を頼んでいる。咲屋先生は「ああそれね」とにこやかに助手さんのデスクの引き出しから判子を取り出した。
胡乃葉は座ったまま、何故か頭を押さえていた。憂鬱のポーズである。どうしたのだろう。
先生は合宿許可書に判子を押そうとしたが、本を持っていてどうしても手が自由にならない。仕方なさそうに、机に本を置いた。すると、四郎が先生と本を交互に見て、目を丸くしている。
安がはっとして、本を見ると、それは黒くて分厚い、いかにも高価そうな本だった。
『古事記 彩色絵本集成』
まさかこれ。
安は何故か端っこに立って様子を窺っている健をじろりと見る。
絶対、こいつは何か見たのだ。後で絶対聞きだしてやる。
胡乃葉ちゃんの携帯電話のメアドと番号を教えた恩を、よもや忘れたわけではあるまいな。
俺はまだ道のりが遠いんだ。紗良さんと付き合えるよう、少しくらい協力しろ。
穏やかにやりとりされる演劇サークルと先生の会話、何かが秘匿されている雰囲気と、水面下で思いが交錯する研究室。
安は誰知れず、静かに決意を漲らせるのであった。
⑤ 山戸 健
俺は見てしまった。この目で、有り得ないものを。
穏やかなやり取りが交わされる研究室。さっきの出来事などまるで無かったかのように振る舞う顧問の――咲屋先生。
何が一体、本当のことなんだ?分からない。
しばらく呆然と立ち尽くしていたが、呆然としたまま、視界には五人の仲間たちの姿を捉えていた。
部長である鵜野君――・・・は何やら楽しそうに先生と会話をしているし、安はそれに穏やかに頷いている。八坂さんは研究室の本を手に取り何やら読みふけっている。
稲葉は――・・・なんか挙動不審だ。机の上に置かれた黒い本と先生を、交互に見ている。もしかしたらあいつも目撃してしまったのか。後で話を聞いてみよう。
決意を固め、最後に胡乃葉の方に目をやる。何か言いたげな顔をしてこちらを見つめていた。目が合う。和やかな談笑の中、不自然にならないようにそろそろと胡乃葉の方へ向かう。タイミングを見計らって、胡乃葉はこっそりと俺に耳打ちをした。
「後で話があるの」
「失礼しました」鵜野君がきちんとお辞儀をした後で、俺たち六人はぞろぞろと研究室を後にした。決定的証拠が掴めなかったと不満を口にするのは鵜野君、八坂さん。安からはなぜかびんびんと視線を感じる。何だこれは。稲葉は「あれはやっぱり嘘ではなかったということだな・・・?そうなんだな・・・?」とぶつぶつ呟いている。
そして胡乃葉。俺の少し先を歩いていたが、こちらを振り向きちょいちょい、と手招きをするしぐさを見せた。俺はわざとらしく咳払いをするとこう言った。
「・・・俺の携帯電話が無い!」
「私、さっき研究室で見たよ。取ってこようか?」と胡乃葉。
「いや、それではお手数をかけるし、自分で行こう」
立ち止るメンバー。事の成り行きを見守っていると、紗良が二人に声を掛けた。
「二人で行っておいでよ」
「その方が確実性高いし、いいんじゃない」安も声を掛ける。
「・・・そうだな。悪い。すぐ戻ってくる。あれだったら、先に行っててくれ」
俺はぺこりと皆に頭を下げると、胡乃葉と一緒に元来た道を戻った。
「・・・健君の演技、下手だねー」
「うるさい」
胡乃葉の頭をぺしり、とたたく。ふふふ、と胡乃葉が笑った。
これでも一応演劇部員なのだ。実際のところ、あまり演技はしないのだけれども。どちらかというと大道具がメインだ。まあ、この話はとりあえず今は保留にしておこう。
人気のないラウンジまで来ると、俺は胡乃葉と向かい合って座った。
「健君、見たでしょう」単刀直入に胡乃葉が切り出した。
「俺は、何も見ていない」頭の中には鮮明にあの時の様子が浮かんだが、俺は否定した。
咲屋先生に念を押されたのだ。「今見た事は誰にも言わないでくれ」、と。
判子をもらいに研究室まで派遣され、しかももう稲葉が判子をもらったから帰ってこい、いややっぱりそっちへ皆で向かうから先行部隊として先に行っていろ、という七面倒くさいことを言われ、再び研究室へ出向いたわけなのだが。
がちゃり、と扉を開くと、そこには一冊の本の傍で談笑をしている二人の大人の姿があった。
咲屋先生と、藤原先生であった。
思い出される記憶。
日が沈む頃。
大学の中庭で罵倒しあう二人の姿。
「工学部だからって偉いわけじゃないんだぞう!この堅物親父!」
「文学部だからって偉いわけじゃないぞ!この妄想親父!」
確かそんなことを言っていた。大の大人が言い争いをしている姿を目撃してしまったことに動揺し、また恐れを抱いた。あの二人は仲が悪いのだという印象が頭に強く残った。 また後にその二人が工学部の権威である藤原先生と、文学部の権威である咲屋先生であったことが分かり、それならば仲が悪いのも仕方がないと、根拠を見つけて納得した。
それなのに。
有り得ない光景に声も出ない。咲屋先生は一瞬目をぱちくりとさせた後、眉をしかめた。藤原先生もしばらく視線をそらしていた。二人とも、とても動揺した様子だった。沈黙が部屋におちる。そこへ、黒電話のベルのような、着信音が鳴り響いた。咲屋先生が携帯電話をポケットから取り出す。しばらくディスプレイを見つめた後、俺の方を向き、藤原先生の方を向き、「まずいことになった」とつぶやいた。
そして、意を決したように、「君、ちょっとこっちへ」と咲屋先生が俺を誘導する。藤原先生も後に続いた。研究室の出窓を開け、ベランダから隣の部屋へと入っていったのだ。
幸い部屋には誰もおらず、教授二人は胸をなでおろしていた。咲屋先生が携帯を操作している。メールでもしているのだろうか。藤原先生は自分の腕時計を確認すると、咳払いを一つして、「大事にならないといいがな・・・聖君」と声を掛け、俺に軽く挨拶をして部屋を去って行った。
分からない。だって二人は仲が悪いはずではなかったか?頭の中を整理しようと懸命に考えるが、矛盾したことばかりでうまくまとまらない。そこへ、ズボンのポケットから携帯電話の振動が伝わる。携帯を取り出すと、胡乃葉からメールが届いていた。
「今どこにいますか?」
いや。どこって言われても。研究室の隣の部屋、とか?というか皆こっちに向かっているということか。どうしたら――・・・
あれこれ思案していると携帯電話の操作を終えた咲屋先生が俺に向かってこう言った。
「今見たことは、誰にも言わないでくれ、頼む」
「?・・・はい」
今見たことって?藤原先生と談笑していたことだろうか。
どうなっているんだ?二人は、いやそもそも文学部と工学部は仲が悪いはずではなかったか。納得のいかないまま、俺は秘密を守ることになってしまった。
咲屋先生に促され、研究室の入り口から何食わぬ顔で中へ入っていく。そこには見慣れた五人――鵜野、八坂、安、稲葉、胡乃葉の姿があった。
どうしよう。どんな顔をすればいいんだ。
咲屋先生は何事もなかったかのように皆と接している。俺はぽかんと、その場に立ち尽くしていた。
というのが、先ほどの出来事だ。
「さっきはごめんな。メール返せなくて」
「いや、大丈夫。何となく把握できたから」
「そうか」
胡乃葉はどこまで知っているのだろうか。こうして俺を呼び出したってことは、何か知っているのかもしれない。
「あのね」胡乃葉が決意をしたような表情で、こちらを見た。
「今から言うこと、よく聞いてね」
「うん」何だ。何が始まるんだろう。ごくり、と唾をのみ胡乃葉を見つめる。
「健君が見たこと、実は稲葉君も目撃してるの」
「そうなんだ!?」ああ、それであいつもあんなに動揺していたのか。それにしてもこの反応では見たことがバレバレだ。まあいいか、胡乃葉に嘘をついても仕方がない。
「そして二人が見たことは学校でも最大のタブーに触れること」
「まあ・・・そうなるな」未だに信じられないのだが。
「だから、皆を動揺させない為にも、何も見ていないって、言い通して欲しいんだ」
胡乃葉は、咲屋先生のようなことを言う。
「分かったけど・・・まあ、仮に二人はもともと仲が良いとしよう。それで、先生同士が仲良くしてるってそこまでマズイことなのか?」
「え」
「別に良いんじゃないか?プライベートと仕事はきっちり分けてるってことで、大人な対応だとも思うし。そこまでひた隠しにすることでも・・・」
「じゃあ健君、私と付き合っていることを皆の前で言える?」
「それは・・・」
急に自分の話を持ち出されると返答に困る。確かに言えない。言えないからいつもコソコソするしかないのだ。文学部への偏見が過ぎる、古賀先生のこともあるし。
「言えない・・・言えないが・・・これっておかしくないか?偏見だ。悪循環だ。・・・良くない、こんなこと」
今までのいらだちを込めて、俺は言った。どうして堂々としてはいけないのか。勝手な偏見によって。
「それもそうだよね・・・」
胡乃葉もしょぼんと肩を落とす。何も悪いことをしていないのに、コソコソするなんて変だ。でも、何もできない。
そもそも、偏見のかたまりであったのは、俺だったのだ。
入学式の文学部乱入事件以来、俺は文学部の奴らに敵対心を燃やすようになっていた。
「正式な式場の場に乱入するわけの分からん奴ら」の存在が気に食わなかったのだ。俺の中の文学部のイメージは入学式の事件によってものすごい勢いで下がった。
「所詮は妄想好きの馬鹿ばっかりだ」と。
そんなわけで、文学部の連中とは関わらないようにしていた。ゼミの担当教授、古賀先生が文学部をけちょんけちょんに言うのでなおさらである。
そんな中、友人の安が演劇部に入ったという話をきいた。
「お前、馬鹿か」思わずそんな言葉が出ていた。
「自ら文学部の人間と交流を持とうとするなんてお前は馬鹿か。」
「えー?楽しいよ演劇部。健も入ったら?」
安は同じ学部、同じゼミの友人だ。一番気心が知れている奴で、よく飲みにも行く。だからであろうか、安が文学部の人間と交流しているということを知り、俺は相当のショックを受けた。
「いつから入ってた」
「え、先月」
馴染んでるし。もう一か月も居るってことは絶対馴染んでるし。
一人でショックを受けていると安がこう提案してきた。
「実は今大道具人手不足なんだよね。健、手貸してくれない?」
こうして俺も演劇部に担ぎ出された。最初は大道具の手伝いをして用事が終わればすぐに帰る、というスタンスを保っていたが、安が一緒に休憩しようぜとか、ちょっと話していこうぜとかいうものだから、数週間後にはすっかり部員並に居座る人となってしまった。
部長である鵜野君にも目をつけられ、「じゃ、ヤマト君今日から正式に部員ってことで」と、ある日突然決定させられてしまったのである。
まんまとペースにはまったわけである。
それでも、俺は悪い気はしなかった。ちょくちょく手伝いに行っていた頃も、演劇部のメンバーは文理問わず皆優しかったし、フランクであったので、自由に振る舞うことができたのだ。
単純に居心地が良かった。だからこのまま、演劇部のメンバーとしてここにいようと決意をしたのだ。
二年生になり、胡乃葉が鵜野に連れられサークル室にやってきたのを、俺は今でも覚えている。
「私たちの救世主、咲屋胡乃葉ちゃんです」
「よろしくお願いします」
胡乃葉は一見すると普通の女の子だった。物静かなイメージを受けた。ところが、舞台稽古がはじまると、彼女はまるで別人であるかのように、はきはきと演じはじめたのだ。
「まあ、なんて素敵な靴!」
確かあれは新入生歓迎会公演の「シンデレラ」であった。新入生歓迎会では、新入生に親しみやすくしようという取り組みから、既存の作品を用いて公演を行っている。役どころはいじわるなお姉さんだったと思うが、まさにそこにいじわるなお姉さんが存在するかのような熱演だった。
舞台袖から眺めていた自分は、ぼうっとしていて安につつかれたくらいだ。
「どうした健。お姉さんに恋でもしちゃったか」
「ちち違・・・!」
顔が熱くなるのが分かった。
ああ、そうだ。
あの頃から、シンデレラではなくっても、魅力的だったのだ、胡乃葉は。
「その上文才もあるし本当すごいよな」
「どうしたの健君」
あ、やばいいつの間に口に出してた。
「いや、何でもない」全力で首を振る。横に。
文学部なんてって思っていたんだ、最初は。
でも違っていた。文学部とか、工学部とか、そんなことは関係ないんだ。
それをどうしたら皆に分かってもらえるのだろう――いつのまにかそんなことを考えていた。
「おーい」ラウンジに別の声がした。声のする方を向くと、それは安だった。
「みんな待ってるよ。携帯は取ってこられた?」
「ああ・・・まあな」
「お待たせしてごめんね、安君」
「皆待ちたいって言ってたし、大丈夫だよ」
三人でラウンジを離れた。結局、見たことを言うべきか、言わずにいるべきかは結論がつかないままだ。
それでも、いつかは隠し通せない日が来る。
その時にすべて、吐いてしまおうと誓った。
「それにしても」安が口を開いた。
「お前の演技下手だな。皆たぶん怪しんでたぜ」
「ウソだろ」
「ほらやっぱり下手なんだよ健君」
「うるせー」
今度、演じてみたいって、言ってみようか。
安の作り上げた舞台で。胡乃葉の作った脚本で。
そして、胡乃葉の隣で演じられたら。
下手くそな演技でも、笑って受け止めてくれることを信じて。
⑥ 咲屋胡乃葉
その昔、戦後の京東大学の話。
大学に学生が戻ってきて、学生闘争の芽が出始めた頃。
京東大学では教授会の権力が強く、その威力が大学全体に及んでいた。何でも、戦中に京東大学の有力な教授が戦争反対の立場をとっており、一時期投獄されたくらいだったらしく、その教授が戦後論壇に強力な論客として復活したことがきっかけで、京東大学の権威が増した。それに乗じて京東大学の教授たちも政治文化の論壇に乗り出して、社会的な影響力を持つようになり、その当然の結果として、大学内の権力も掌握するようにもなったらしい。
社会も混沌とし、思想のあり方を模索していたその時代にあって論争が深まっていく中、権力が集中しつつあった教授会でも権力争いが勃発した。すなわち、文系と理系のどちらが主導権を握るか。その二極の対立が浮き彫りになったのだ。
当時、文理、いわば東西を司る大教授がいた。東の大将、文系の権威は文学部の名木教授。西の大将、理系の権威は工学部の奈美教授。戦後に便乗して論壇に乗り出していき、うまく研究分野に重要人物として食い込んでいった文理双方の教授が、大学内で火花を散らしていたわけである。ちなみに戦中に反戦の旗を振っていた教授は、体調を崩して早々に隠居していた。
教授会の度重なる論争は次第に激しさを増していき、話し合いなのか罵倒なのか分からない有様になっていった。折衝案を出そうとした者もいたが、ことごとく双方の教授の前に立ち消えになった。なんとしてでも、双方の教授は自分の系統が主導権を握るべきだと思っていたのである。それを邪魔するものは例え身内であっても排除する。徹底した専制主義の結果、文学部は名木教授の配下、工学部には奈美教授の配下という状態になり、学部の教員たちも、学生たちにも、その対立意識をすり込まれるようになった。その二人のどちらかが折れない限り、いや例え折れたとしても、文理の溝は埋めがたいほどになっていった。
学部同士の内部抗争に明け暮れているうちに時代は高度経済成長期に差し掛かる。豊かな日本の社会を背景に、かつて京東大学にあった論壇の威光にも陰が見え始めた。また、双方の大教授も退職の時期がきていた。しかし、研究職を得たければまず学部同士の対立の仕来りを学ばなければならなかった京東大学において、二人は自分たちの悪しき対立・野望を受け継ぐ後継者に事欠かず、二人の信念は無事、伝統として定着することに相成った。
今日まで続く、京東大学の手厚い研究者育成の体系確立と、偏見と憎悪に満ちた文理対立の伝統を作り上げた名木教授と奈美教授両者が出席した最後の教授会。二人は最後に次のような言葉を交わしたという。
「私は工学部の学生を1000人にしてみせる」
「それなら私は、文学部の学生を1001人にしてみせよう」
どこかで聞いたことがあるような、いやないような、というかお前ら今日で退職するくせに何言ってんだよ、と意味のないやりとりをして、二人は京東大学を去っていった。
後には涙ながらに大教授を見送り、「1000人」「1001人」のやりとりをまともに受け取って対立を受け継いだ教授・研究者たちが残った。
こうして、現在まで連綿と受け継がれる、文学部・工学部の敵対関係は成立したのである。
健くんは銀色。銀色のフレームの眼鏡がシャープな顔によく似合うから。たまちゃんは黄色とオレンジ。柔らかそうな髪の毛は明るい色で、この間機械工学科の授業で作ったって言っていたロボットのボディがレモンイエローだったから。
安くんはブラック。案外黒いところあるもの。稲葉君は抹茶の色。この間、平家物語の古い本を持っていて、表紙の色が抹茶の色だったから。
紗良はいつもはチェリーピンクだけど、今日はシンプルに白いワイシャツに黒いジーンズで、複雑そうな顔をしているから白黒の幾何学模様。複雑そうな顔をしているって、珍しいな。
胡乃葉はふと思い出して、自分は何色だろう、と思う。しかし、よく分からない。人のイメージカラーをあれこれ考えるのが好き、だけど、他人のことはよく見えるけれど、自分のことはよく見えないもの。
視線を転じて壁に貼ってあるオードリー・ヘップバーンのポスターを見つけて、この人はロイヤルブルーだ、とすぐさま決めた。それは『ローマの休日』の王女役をやったときのヘップバーンだからだ。誰が引き伸ばして貼ったのか、その白黒のポスターは胡乃葉が始めてサークル室に来たときからあって、高貴だけれどチャーミングなヘップバーンの微笑みが雑然としたこの部屋に華やぎを与えていた。
「・・・あー!!!」
突然、叫んだ紗良に一斉に視線が集まった。
紗良は机の上に座っていた。さっきまで複雑な表情をして黙り込んでいたが、心底泣きたそうな顔をしてみんなを見回すと、悔しそうに爆発した。
「折角、文理の壁が取り去れるきっかけを掴めると思ったのに!先生いつも通りだしさ!だけど四郎くんはあの本がそうだって言うし・・・ニアミスじゃん!悔しい!」
そしてああ、と言いながら、紗良は書類の上に突っ伏す。その頭をたまがよしよし、と撫でて、四郎は肩を落とし、奥のソファでは安が溜め息をつき、健は端っこに座ってカチンコチンに固まっている。六者六様だ。
三号館から、我らが演劇サークルの居室である五号館B105に戻って来た。どことなくみんな沈んだ気持ちで、いつもの定位置に座っていた。
四郎が「咲屋先生が手にしていた本が藤原先生と取り合っていた本だった」と証言したのはついさっき。健も何か言いたそうな顔をしていたが、胡乃葉がじっと見つめると固まった。
四郎の証言に慨嘆したのは紗良とたまと安だ。よっぽど残念だったのだろう。
胡乃葉は紗良はいいよなぁと思いながら眺める。感情表現がいつも思いのままで、何の躊躇いもなく本心をさらけ出している。机の上で書類の上に覆いかぶさっているのはすごい姿勢だけれど、スタイルがいいからそれだって画になる。
安が逡巡して、頬を掻きながら言った。
「ニアミスっていうか、なんか秘匿された感じがしたよな。だって、四郎が見たとき、藤原先生と咲屋先生があの本を取り合っていたんだろ?で、健が行ったときは?」
「え」
「健は何を見たんだ?」
「俺は何も見ていない・・・見ていないんだ!」
胡乃葉は頭を押さえた。健は演技が下手すぎる。
安はじとっとした目で健を見る。
「お前、最初から見てないとか何とか言っていたよな」
「言っていない」
「俺がまだ何も訊いてないのにさ」
「いや、言っていない」
頑なすぎて、逆に怪しい。いつもだったら紗良に次いで何か物言いそうなのに、こんなカチンコチンになって頑なになっている。不自然だ。
今やサークル室にいる三年生全員が健に注目していて、胡乱な目を向けている。
あちゃーと思いつつ、それでも、胡乃葉はなんだか愛しい気持ちになってしまう。健は不器用にも、胡乃葉の要望に応えようとしているのだ。誰にも言わないで、という。
小さく溜め息を吐いて、胡乃葉は罪悪感にチクリと胸が痛むのを感じた。
咲屋先生が持っていたあの本は『古事記 彩色絵本集成』といって、古事記の絵巻物や江戸時代の色刷り板本を編年ごとに集め、カラーで収録した豪華版だ。今はなき出版社から数量限定で出版され、研究者の間でも、マニアの間でも幻の本とされている。相当お値段も高い。
何故、胡乃葉がそんなことを知っているかというと、数日前にその本についての講釈を延々と聞かされたからだ。
古本屋街で念願の『古事記 彩色絵本集成』を探し出し、喜び勇んで自宅に帰ってきた京東大学文学部、日本文学科中世文学専攻の教授の、父、咲屋聖に。
「・・・とにかくこれはすごいものなんだよ!見つかったとか!お父さんすごいっ!」
自画自賛だぁ。
自宅のリビングで戦利品を広げ、娘に語って子供のように喜ぶ父を生温かい目で見守っていた胡乃葉は、「でも」と言った。
「またノブちゃんに自慢するつもりでしょ。喜びのあまり学校に持ってって見せびらかしたりしないように。バレちゃうから」
ノブちゃんというのは藤原定信という父の幼馴染である。昔から本好きで気が合った二人は、コレクションが増えるたびに互いの家をこっそり訪問して自慢し合っている。胡乃葉も懇意にしているので、「ノブちゃん」と呼んでいる。
言わずもがな、この藤原定信という歴史上の人物みたいな名前の父の幼馴染は、京東大学工学部情報工学科の教授と同一人物である。
二人は学部同士の対立の象徴のようでいて、実は学部を超えた友情の象徴のようなものであった。子供の頃からご近所同士。本好きで学問好きの変わり者の二人は、それぞれの得意分野で互いを凌駕し競い合っていた一方、背中合わせで一緒に読書するほど仲が良かった。
胡乃葉に釘を刺された父は、半笑いでしばし黙る。胡乃葉は心配だった。今、藤原先生は学会で忙しく、しばらくお互いの家に訪問できないと聞いていた。大学でしか会えないけど大学では仲良くできない。「だけど放課後の研究室だったら大丈夫かなぁ」と呟いていて、前に母に怒られていたからだ。
『古事記 彩色絵本集成』の入手は、父にとってリスクを冒してもよいくらいの出来事なのではないか。父の喜びようから、胡乃葉は敏感にそれを察知していた。
「まさかぁ、大丈夫だよ。そんな危ないことしないしない。これは今度、ノブちゃんが来たときにね」
にやにやしながら首を横に振って言った父。胡乃葉は嫌な予感がしたけれど、父の言葉を信用するほかなかった。
だから、四郎の目撃情報を聞いたとき、瞬時に胡乃葉は悟った。
やっぱり我慢できなかったんじゃん!お父さんの嘘吐きッ!!
と。
父が京東大学に就任したのは、だいたい二十五年ほど前だろうか。
胡乃葉もまだ生まれていなかった頃。咲屋聖は京東大学の文学部の権威に招聘され、晴れて京東大学の専任講師となった。
戦後ほど社会において影響力は持っていないけれど、京東大学は優れた研究者を輩出していることから、やはり名声が高かった。
若い咲屋聖は、喜び誇りに思って専任講師として京東大学に勤めた。学部同士の溝はあるものの、そういうしがらみはどこにでもあるものだし、出世していくには学部長の力添えが是非とも必要である。時代錯誤で何かやだなぁ、ノブちゃんも情報集める何たらかんたらって理系だしな。ノブちゃんには知られたら絶交かな、とか思いつつ、長いものに巻かれていったのである。
一方、同時期、先見の明があった京東大学工学部では、情報分野での研究をするべしとして、新たな学科を設置した。招聘された若い研究者の中に、藤原定信がいた。先見性のある京東大学に招聘されたことは名誉なことであり、これまでの研究成果が認められたということだった。藤原定信も誇りをもって専任講師として勤めた。学部同士の溝に辟易しつつも、出世していくには学部長の力添えが是非とも必要である。情報は文理関係なくすべてが情報になり得るんだけどな。革新的なんだか旧弊なんだか。こんな大学に勤めていると文系の聖くんが知ったら、憤慨するかな。嫌だなぁ、とか思いつつ、学部同士の溝の激しい京東大学に身を投じていったのである
二人が再会を果たしたのは、初めて参加した大学の教授会であった。
双方の学部の席に互いの顔を発見し、思わず二人とも駆け寄り、肩を抱き合って、そのまま崩れ落ちて泣きたくなったという。
京東大学は現在も教授会の力は強い。学部長ともなれば、その発言力や決定権は多大だ。
今はその地位にある二人だが、若い専任講師だった時分は学部長にふっと吹かれたら紙切れみたいに簡単に飛んでいってしまうくらいの存在であった。逆らえない。否定できない。工学部に、文学部に竹馬の友がいるとか人に言えない。言ったらたちまち睨まれてしまう。自分たちの仲を秘匿するしかなかった。
そうして順調に研究成果を挙げ、二人は助教授、教授となり、ついには学部長にまでなった。
学部長にまでなっても、文理の対立がなくなるわけではない。二人の力なんぞ及ばず、後続の研究者たちはすでに京東大学の悪しき風習に染まっている。学部長の権威は学部の対立によって作り上げられた権威と同等である。だって、互いが学部の権威の象徴で、かつ対立の象徴だもの。ゆえに、学部長であっても、二人が仲が良いと知られれば、周囲の尊敬の念と、二人に後任していったお世話になりまくった教授の期待を裏切ることになる。その職から引きずりおろされることは必至だった。
文学部が偉いというからその権威を纏わなければならなかったり、工学部が偉いというからその権威を纏わなければならなかったり。胡乃葉に言わせればそんなの、虚妄だ。だけどその虚妄が、現実に人間の心を捕えている。未だに、二人は会う日のスケジュールを完璧に明けて、互いの家に遊びに行くときは必ず変装しているし、大学で顔を合わせることになれば罵倒し合うという念を入れようだ。
とんでもない遺産を残してくれたものだと、胡乃葉は戦後の二大教授を恨む。
とにかく、二人が仲が良いと知れたらまずかった。ましてやそれが広がったら、京東大学の他教授連の耳に入りかねない。
胡乃葉は父に呆れつつ、父が困る事態になるのは家族として回避させるべきだと考えた。
そして、四郎の目撃情報を聞いて、みんなで見に行こうとサークル室をわいわい出て行こうとする間際に、父にメールを送ることにした
演劇サークル幹部一同 これから研究室に行く にげろ
きちんと見るかどうかは、父次第だ。対処できなかったら、いっかんの終わり。いや、自分が大声を上げて近くに来ていることを知らせるか。
そんなことを思いながら緊張を押し殺し、研究室までついて行って、空っぽの部屋を見たとき、気付かれないようにそっと安堵した。
要するに。
今回の「文理教授、仲良く本の取り合い事件」の秘匿の立役者は、胡乃葉だったのだ。
胡乃葉は研究室に父が戻ってきたとき、真っ赤な嘘、と思った。何事もなかったかのように振舞って、赤いチェックのワイシャツを着ていたから。
そして、予想外にも、自分の秘密の彼氏が父と一緒で、頭が痛くなった。
秘密に秘密が重なって、今、そんな自分は何色なんだろう、と思ってちょっと落ち込んだ。
演劇サークルの仲間たちに、自分は隠していることがある。学部長の娘であることとか、今回、父と藤原先生の出来事を秘匿したこととか。健と付き合っていることとか。
何より自分が汚く思えてしまうのは、昔から姑息だからだ。小細工をして取り繕う。そんな自分の気質を意識するたび、自己嫌悪に陥る。ああ、こんなんだからきっと人から嫌われるんだ、と。
大分変わったこともあるけれど。そう、例えば。
紗良なんて大嫌いだった。ストレートの黒髪が似合うスレンダーな美人で、授業でもよく発言する。自分の考えが最も正しいと主張してやまないような人だと思った。それが高校のときに胡乃葉をいじめたリーダー格の女の子によく似ていた。しかし、そんな紗良から、演劇サークルで脚本を書かないかと誘われた。脚本を書く授業で一緒で、胡乃葉の脚本の評価が高かったのに目を付けたのだろう。胡乃葉は紗良への嫌悪をおくびにも出さないで承諾した。自分の書く力を試したかったのだ。いや、認められたことが嬉しかったんだろう、本当は。
そんな経緯で演劇サークルに入ったけれど、四郎も嫌いだった。いつもオドオドして自分の意見がない人。たまに気を遣わせていることに気が付かない。安も嫌なやつだと思っていた。いつも一歩引いて観察している。どんなことを思っているかわかりゃしない。健なんてもっと嫌いなタイプだ。つんと澄まして理系を鼻にかけている感じが気に食わなかった。
けれどそんな風に思っていたことは、一度も人前で言ったこともない。そういう態度をとったこともない。無駄に人を傷付けても人間関係が崩壊するだけで、言ったところで何にもならないのだ。自分が嫌だと思っていることを表面に出したって、ほとんど現実的に良いことではないと分かっている。だから普通どおり、みんなと付き合って、自分の姑息さに日々嘆息していた。
だけどそうしておいて良かった、と胡乃葉は今、心からそう思う。何故なら、付き合っていくうちに段々みんなのいいところが見え始めて、みんなも、演劇サークルも好きになっていったからだ。
最初に抱いていた印象と、大分変わっていたことを意識したときはいつからだったろう。なかなか気付けなかったように思える。自分の趣味の反社会的さを意識していて、人に言えないと思う内面のあれこれが多かったからだ。
胡乃葉は日本の近代文学を専攻している。それは精神病院が文学の中に登場したり、血みどろの事件を題材にしたりして、人間の内面の闇を向き合う作品が多いからだ。太宰治の『人間失格』や江戸川乱歩の猟奇的なミステリー。背徳の香りがする寺山修二の『毛皮のマリー』。昭和、戦後にエログロを扱う演劇がたくさんあることも興味がある。もっと昔だと、歌舞伎で毒婦ものが流行ったことだとか、血みどろ猟奇的な公演が結構あったこと。外国ならフランスのグラン・ギニョルやイギリスのスウィーニー・トッドの伝説、切り裂きジャックを扱った作品や、ドイツのカリガリ博士。
こういった趣味を高尚とは呼べないことは分かっている。それでもおもしろい。猟奇的なものを求める人間の心理や深い闇への道筋を見つめる文学。自分の研究方針に関係があるから、近代文学の大国先生にはこういった作品が好きだと話したことがある。案外食いついてきて、「いいねぇその題材。咲屋くん、大学院で研究しない?!」と言われて、この人も大概変な人だと思ったことがある。
胡乃葉は少なからず、そういった趣味が自分に結びついていることを知っている。高校生の頃に執拗にいじめられたとき、何もしなかったし何も言わなかったけれど、心の中で当事者を何度も殺した。良いことか悪いことかと言われたら、それは現実的に「良いこと」ではない。でも「悪いこと」かと聞かれたら、そうとも言えないのではないかと思っている。
胡乃葉は自分の暴力的な想像も、趣味も、いっしょくたにして胸に秘め、人と付き合うようにした。暗い衝動や猟奇的な趣味を語っても他人は引くだけだ。それが嫌いだと思う人と一緒に、サークル活動ができるだけの表裏を胡乃葉の人間性を備えさせた。今なら、高校生の頃のいじめが自分を人間不信にしていたと分かる。誰に対してもまず忌むことから第一印象が始まってしまった。
だけど、演劇サークルに入りたてで、脚本作りの右も左も分からない状態の胡乃葉に、紗良は最後まで責任をもって付き合ってくれた。自分が実現したいことのために、人に協力してもらい、逆に自分も協力する。最初に思っていた印象とは違った。
同期もそうだけれど、先輩たちも、どちらかというと仲間のいいところを見つけて認めようとする風潮があった。もちろん、それは胡乃葉もその対象になる。嫌いなサークルのメンバーのいいところについても、あ、そうだなと納得することが増えた。協力し合って演劇を作り上げる中途で、そんな場面がさまざまあり、互いの実力や人間性を認め合うことを覚えていった。
特に、たまと話すときに、それをよく感じた。たまは人の悪いところも、いいところも認めている。胡乃葉が、「最初は紗良はもっと自分勝手な人だと思ってた」と言ったら、たまも笑って「私もそう思った」と頷いた。
「でも、一番人のことを思いやるのも、紗良なんだよね」
安はいつも一歩引いて、全体を良い空気に調整してくれる。四郎は主張は強くないが、いつも優しい。
段々サークルもメンバーも好きになっていく自分がいた。しかしサークルに入って、他人を厭う自分の暗い性格や趣味を持つ自分と、「現実的」と言われたり「空気を読める」と言われたりする、当たり障りのない自分が、内面と外面で乖離しているように思えて、どちらが本当なのかと胡乃葉は混乱することが多くなった。
嫌いだった人たちと一緒に話をして笑っている自分は何なのだろうと。嘘っぱちの面の皮。一体自分は他人からどう思われるだろうか。みんなは偽物の私と接していて、受け入れてくれているのではないだろうか。
そんな混乱を抱えていた胡乃葉に終止符を打ったのは、健だった。
「好き」と言われて、現金にも悩んでいたことが吹っ飛んでしまったのだ。
健は素直で、正直な性格の人間だと思うようになっていたから、こんな自分を彼が「好き」なのなら、自分の外面も内面もどっちも自分で、信じてもいいのではないかと、思ったのだ。
誰かが「好き」になるような、自分なんだろう、なんて。
演劇サークルのみんなは大事な仲間。認め合える友。
そんなみんなに、また自分は隠し事を増やしてしまった。
胡乃葉は唇をきゅっと結んで、目の前の動向を見守る。いつになく威圧的に健に話しかける安や、胡乱な目線を送るサークルの三年生幹部たち。胡乃葉は溜息を吐きそうになった。
本当のことを言ったら、怒るだろうか、と落ち込む。特に健は怒りそうだ。ゼミの先生が文学部嫌いの極みなのだそうで、肩身が狭い思いをしているだろうし、胡乃葉とこそこそ付き合うことを嘆いている。本当はもっと恋人らしいことをしたいのだ。それが、秘密で付き合っていることが胡乃葉にも都合が良いことなんだと知ったら、何て思うだろう。咲屋先生こと胡乃葉の父は、末娘の胡乃葉を可愛がっている。彼氏ができたとか言ったらどうなるか分かったものじゃないのだ。
机の上に置いてある菓子のビニール袋を漁って、クランキーチョコを取り出した。包装紙から取り出して、口の中に放り込む。たまがいつも買ってくるお菓子。さっきは四郎を落ち着かせていた。
「なんっっか、怪しいんだよな、おまえ。なんか口止めされてるのか?」
「ソンナコト、アリマセンヨ?」
「うわっ、いつもはそんな言い方しないのに。ロボットかっ」
「ヤマトくん?」
すっと、スーパー部長が立ち上がった。サークル室にいる全員に緊張が走る。
つかつかと壁際にいる健の目の前にいって、壁にバンッと手をついて睨みつけた。
「私に隠し事するなんて、いい度胸しているわね?」
「誰がお前に言うものか!!」
サークル室にいた一同がかくっと脱力した。しばし、なんともいえない空気で沈黙が続く。
健、語るに落ちている。というか、さっきまで挙動不審だったのに、紗良が相手になるといつも通り売り言葉に買い言葉になるんだ。
四郎がふふっと笑って、なんとなくみんなの顔に仕方ないな、というような笑い顔が浮かぶ。紗良も肩の力をふっと抜いて、むすっとして元の席に戻る。
さっきまで重かった空気が、吹き払われたみたいだ。みんなは苦笑いで目配せし合う。健の態度は「何か見た」ことはバレバレだけれど、これだけ必死に沈黙を守ろうというなら、それを尊重しようか。そういう譲歩の調整がなされようとしている。
残念だったけど、仕方ないか、というような緩い空気になりかけていた。
さて。
私はどうしよう。
胡乃葉はクランキーチョコの包装紙をきゅっと握り締める。父が咲屋先生であることも、咲屋先生が藤原先生と仲が良いことも、京東大学文理対立の歴史も、胡乃葉が知ってて語らぬ真相だ。健と付き合っていることも、自分の嗜好も、みんなを最初は嫌いだったことも、ついでに自分がみんなから大切なものをもらったことも。
自分はこれで、秘匿して、みんなが仕方ないか、と残念に思いながら、みんなの願望を諦めるのを待つのだろうか。
文学部と工学部の対立を解消して、そんなの馬鹿馬鹿しいと高らかに宣言し、みんなで堂々と仲良くしたいという、望み。それを実現する可能性を潰しておいて、ほっとしているだけだろうか。
ううん。
こんな状態、いつまでも隠しておけるわけがない。
みんなは知らず、私にくれたものがある。
今度は私が、みんなに返す番だ。
「提案があります!」
意を決して立ち上がった胡乃葉に、一斉に視線が集まった。みんな目をぱちくりしている。
しかし、アドリブ好きの演劇サークル。安がニヤッとして頷いた。
「胡乃葉殿、何ぞお考えがございますか!」
「それは聞きたきものですのう」
紗良もニヤリとして応じる。不服そうな顔をしていたのに、すごい切り替えだ。チラと見たら、健が怪訝そうにこちらを見ていた。まったく予想外だったのだろう。
胡乃葉は少し息をつく。この状態に抗いたい。その緊張感に胸が張り詰める。
だけどこれも演劇よ。手に入れたい結末の為に、ストーリーを描いて、演じてみせる。
胡乃葉はうやうやしく胸に手をあててお辞儀し、演劇サークル仕込みの声ではっきり言った。
「それでは述べさせて頂きます。現在わたくし咲屋胡乃葉が執筆しております脚本、『現代版ロミオとジュリエット』の舞台を、変えさせて頂きたいと存じます」
胡乃葉のいきなりな提案に、みんなアドリブも忘れて「えっ!!」と声を上げて慌てた。紗良も本気で驚いて、素で慌てて胡乃葉に詰め寄る。
「今から変更して大丈夫なの?!というか、定例会でみんなで決めた設定だし!そんな簡単に変えられるわけが」
「もちろん、内容については、しかるべき段取りをとって、みんなの了承を得てから変更、ということにします」
「でもそれで間に合うか?」
「間に合わせます」
「何、それ。どうしたいの?」
「『現代版ロミオとジュリエット』は、日本の大富豪の娘と息子のロマンであり、舞台は互いの旧弊な家のはずでした」
ぐいっと、みんなの顔を順々に見ながら、話す。みんな、困惑している様子だ。
ただ一人、紗良は真剣な顔付きで聞いている。
胡乃葉は腹を決めて、しっかり、はっきりと訴えた。
「それを、京東大学の文学部と、工学部の大学生に置き換え、舞台を文理対立の概念が強いキャンパスにしたいのです」
一同は一瞬、虚を突かれたような表情をしたが、次の瞬間には瞳を輝かせていた。四郎はしきりに頷く。
「それはいい」
「私たちの願望は、私たちだけのものではないはずです。学園祭で発表するこの演劇で、訴えてみようじゃありませんか。文学部と工学部の垣根を越えて愛し合う二人。妨害する教授や学生たち。変なしがらみなんか馬鹿馬鹿しいと、みんな気付くはずです。しかも、そのお話、ハッピーエンドにしちゃいましょう。悲劇なんて、絶対させない」
それはまるで胡乃葉と健を描くようなものだ。健は少し顔を強張らせているが、覚悟を決めた表情をしている。
胡乃葉も覚悟を決める。いつかすべてがバレたとき、みんなに怒られるかも、嫌われるかも。
それでも、自分はそれをやり遂げてみせる。みんなの願望の片棒を担いで、叶えてみせたい。
他人を認め、協力し合う。信用できる仲間、大事な友人。人に対する信頼の感情を与えてくれたのは、みんなだから。
不敵に笑ってみせた。
「学校側が変わらないなら、こっちから変えてみせましょう」
安も、たまも、四郎も、わくわくした表情をした。健もすべて承知した、という表情で頷く。あとはスーパー部長だけ。
紗良は笑っていなかった。口元に手を当てて、真剣に検討している。それがサークルにとっていいことか、みんなにとって必要なことか、全体のために考えて采配を振るうのが、紗良の仕事だ。胡乃葉は表情を引き締める。
紗良はじっと胡乃葉を探るように、見つめていた。胡乃葉はそんな目線を受けて、心の底で、はっとした。もしかしたら、紗良は胡乃葉の何かに気付いているのかも知れない。そういえば、初めて会ったときに咲屋先生と関係があるのか、と訊かれた。胡乃葉が知っている事を隠していると、分かっているのかも知れない。そんな紗良の目には、胡乃葉は何色かにみえているのだろうか。
胡乃葉はふいに、グレイ、と思った。きっと白でもない、黒でもない、中途半端なグレイが自分だ。だけどきっと、紗良の目にも、健の目にも、それぞれ違う色が見えているのだ。それぞれが感じ、思うような印象が。それは自分が思うような、グレイとは違う色かも知れない。
それでも。自分がみんなを思うのは、みんなのために頑張りたい気持ちは、真実。
紗良の口角が上がった。
「その提案、乗ったわ」
紗良の一言に、みんなぱっと顔を明るくした。
「おう、やるぞ!俺も手伝う!」
「ちょっと待って、超特急でサークルのメンバーを招集するから。緊急会議しないと!」
「説得するときは三年生全員で頼んだ方がいいっしょ。みんなで前に立とう」
「威圧的かな?」
「でも絶対通したい」
にわかに興奮して、みんな話し始める。たまは携帯電話で緊急招集のメールを打ち始める。みんなやる気だ。
胡乃葉はほっとして息を吐くが、これからが大変だ、と気を引き締めた。ほっとしている暇なんてない。今から脚本を書き直す用意をして、合宿スケジュールも組みなおさねば。
これが良い結果をもたらすかどうか、自分にとっても、サークルにとっても分からない。それでも、やってみよう。気持ちが昂ぶっている。みんな同じだろうか。本当はいろいろ隠している自分がこんなこと言うなんて、馬鹿みたいって、いつか怒るだろうか。
がしっと、誰かの腕が首にかかった。ストレートの黒髪が近くに触れる。はっとして横を見ると、スーパー部長と目が合った。
ニヤッとした紗良は、胡乃葉の首を抱いて、全員の輝きに満ちた視線を受け止めて、声を上げた。
「やるわよ、絶対こんな対立ひっくり返してやるんだから!」
5号館B105から、鬨の声がこだました。