「私をお飾りの妻にしませんか?!今なら500Gでお買い得ですっ!」〜好色男爵に売られそうになったので氷の騎士様に縋り付いたら、"お飾り”として溺愛されることになりました〜
(追記)1G=大体1万円だと思っていただけると……!
「私をお飾りの妻にしませんか?!……っ、今なら500Gポッキリ!!大変お買い得ですっ!!」
王立学園の中庭。春の夕陽に染まる石畳の上で、私――シェーラ・ロンハートは、目の前の青年を見上げていた。
銀灰色の髪に、氷のように冷たい印象の美貌。アグナー侯爵家嫡男にして、次期騎士団長候補。王立学園きっての人気者でありながら、愛想のひとかけらもないことで有名な男。
ジオン・アグナー侯爵令息は、私を見下ろしたままぴくりとも動かなかった。
その隣では、対照的に明るい金髪を揺らした王太子アレク殿下が、腹を押さえて震えている。
普段の私なら、絶対にこんな真似はしない。分厚い伊達メガネをかけ、ひたすら俯いて過ごしてきた。私には「ロンハート子爵家」の影として目立たず生きる義務があったからだ。
私の母は現子爵の妹だったが、平民と駆け落ちした末に私を産んだ。数年前、流行病で両親を亡くした私を引き取った子爵家が求めたのは、実子である従姉妹・ティナの「影武者」という見返りだった。
華やかだが勉強嫌いな彼女の代わりに試験を受け、高位貴族へ嫁ぐための箔付けとして、学年三位の成績をキープし続けること。それが実質的な養子である私の役目だった。一位はアレク殿下、二位はジオン様。三位は“ティナ・ロンハート”。
王太子殿下とジオン様は、この学園のトップツーの人気者だ。
王太子殿下は明るく人当たりがよい、絵に描いたような王子様。対してジオン様は、無愛想で、寡黙で、近寄りがたい。けれど鍛え上げられた長身と、騎士らしい精悍な顔立ちと、決して誰にも媚びないその姿勢が、かえって令嬢たちの心を掴んで離さなかった。
仲の良いお二人と、女を寄せ付けないジオン様の様子をみて、お二人は恋仲であるという噂も一部では立っている。そんな要素も、二人の人気を押し上げる一因でしかない。
朝の鍛錬所には、剣を振るうジオン様を一目見ようと女子生徒が通い詰めている。授業前だというのに、ハンカチを握りしめて見守る者、差し入れを持って待ち構える者、偶然を装って通りかかる者。だが、そんな熱視線などどこ吹く風で、ジオン様は一顧だにしない。
当然、ティナもその一人だった。
――いや、ただの一人ではない。彼女は本気で、自分が将来のアグナー侯爵夫人になるつもりでいる。
彼女は私が作った“才女”の評判を使って、何度もジオン様に近づこうとしていた。けれど、ティナがどれだけ取り巻きを引き連れて鍛錬所へ通おうが、廊下で待ち伏せしようが、図書室で偶然を装おうが、ジオン様はことごとく無碍にしてきた。それでもティナは懲りなかった。
『今日もジオン様は私に微笑みかけてくださったわ』
そんなふうに鼻を鳴らしていた姿を、私は何度も見てきた。
……もちろん、そのたびに胸が痛んだ。
だって私は、ずっと前からジオン様が好きだったから。昔、私が困っていたところを不器用に助けてくれた彼こそが、私の初恋の人だった。
でも、ただの影武者である私には、そんな未来を夢見ることすら許されない。
そして、そのささやかな初恋も学園生活も、今日で終わりを迎える。
最後の学年末試験を終え、影武者としての用済みとなった私は、今朝、子爵から信じられない通達を受けたのだ。
『今日からウーリィ男爵へ嫁げ。先方は500Gも支度金を出すと仰っている』
ウーリィ男爵といえば、何人も妻を使い潰していると噂の好色家で、私より四十も年上だ。せめてどこかへ嫁がされた時に生き残れるよう、密かに領地経営や農政の勉強をしてきた努力も、すべて無意味だった。金のためだけに、あんな男に売られるなんて絶対に嫌だ。
今日中に、ウーリィ男爵より体裁の良い相手ーーつまり、金に目がない子爵が納得する相手を見つけなければ、私の人生は終わってしまう。
……しかし、ずっと影として生きてきた私に、頼れる相手など一人もいなかった。
絶望の中、人目を避けて校舎裏へ回った時だった。
『だから、お前もそろそろ覚悟を決めろって……もういっそ、令嬢避けにお飾りの妻でも取れば?』
『冗談でも言うな』
木陰から聞こえてきた、アレク殿下とジオン様の会話。
お飾りの妻。愛されなくていい。ただ形だけでも妻になれれば、男爵との婚姻は回避できる。しかもジオン様は女嫌いで有名だ。
こんな突拍子もない申し出を受けてくれる可能性があるとしたら、もうこの人しかいない。
気づけば私は、物陰から飛び出していた。
「私をお飾りの妻にしませんか?!……っ、今なら500Gポッキリ!!大変お買い得ですっ!!」
「「……は?」」
「私は子爵令嬢ですので書類上の釣り合いは取れます!領地運営も私がすべて請け負います!特産を活かした流通網の整備案も――」
「ぶっ……ひぃっ、あはははははっ!!」
私の決死のプレゼンにアレク殿下が盛大に吹き出し、ジオン様が完全に固まった。いけない、これではメリットがまだ弱いのかもしれない。私はさらに言葉を重ねた。
「そ、それに私、衆道にも理解があります!お二人の恋路は決して邪魔いたしません!」
一拍の沈黙。次の瞬間、アレク殿下が腹を押さえて笑い転げた。
「ヒィ……あははは!!!俺たち、カップルだってよ!ジオン、聞いた?ダーリン♡」
「やめろ」
「えー、つれないなあ、ダーリン♡」
「本当にやめろ。誤解が広がるだろう!」
「もう十分広がってる気がするけどね!」
涙を流して地面を叩く殿下をよそに、ジオン様は珍しく焦った顔で私に向かって大声を上げた。
「俺と殿下は、そういう関係ではない!」
「そ、そうなのですか?」
「違う。俺が好きなのは女性だ」
「…………!」
その言葉に、私は不謹慎にも少しホッとしてしまった。ジオン様が誰のものでもないという安心感。……でも、今はそれに浸っている場合ではない。
「な、ならなおのこと好都合です!」
「なにが好都合なんだ!?」
「ジオン様は女嫌いと言われていますよね?であれば、私ほど都合のいい女避けはありません!私には指一本触れなくて構いません。お飾りの妻として、屋敷の隅で慎ましく暮らします!ドレスも個人予算も一切不要、最初の500Gさえお支払いいただければ、使い放題の労働力です!」
これまでの人生で一番の大きな声だった。しかし、ジオン様は訝しげに眉をひそめた。
「……なぜ、急にそんな提案をする?」
鋭い指摘に、私はギュッと拳を握りしめた。確かに怪しい。ここは、包み隠さず全てを話そう。
「……実は私、今日家に帰ったら、あの好色家のウーリィ男爵に、たった500Gで後妻として売られることになっているんです」
「なっ……!?」
ジオン様が息を呑む。少しでも同情してくれればと見上げた彼の瞳には、なぜか、静かな怒りの炎が揺らめいていた。
「嘘ではありません。全部、本当です。お願いです、私を助けてくれませんか……!」
沈黙。
風が吹き抜け、木々が揺れる。
やがて、ジオン様が低く、しかし絶対的な響きで言った。
「俺の『お飾りの妻』になりたいと言ったな?」
「は、はい!」
「よかろう。ではお前は、今日から俺のお飾りの妻だ」
「……え?ありがとうございます!!!」
まさかの承諾。地獄に仏とはこのことだ。喜びのあまり頭を下げた私だったが、次の瞬間、視界がぐるりと反転した。
「わっ!?」
私は、ジオン様の逞しい腕の中にいた。いわゆる、お姫様抱っこである。
「あ、あの!?私、お飾りでただの労働力ですので、自分で歩け――」
「バカ言え。お飾りが自分の足で歩く必要などない」
「えっ?」
隣ではアレク殿下が抱腹絶倒してピクピクと痙攣している。
「あ、アレク殿下はあのままでよろしいのですか……!?」
「あのバカは放っておけ」
ジオン様は私を軽々と抱き上げたまま、有無を言わさず歩き出した。 私はそのまま、まるでさらわれるように馬車に乗せられ、アグナー侯爵家へと運ばれていったのだった。
*****
アグナー侯爵邸の門をくぐり、豪華絢爛なエントランスに降ろされた私は、子爵家との格の違いにただただ圧倒されて口をパクパクさせることしかできなかった。
ふかふかの客間のソファーに降ろされると、ジオン様は「手配してくるものがある」と私を見下ろした。
「心配するな、すぐ戻ってくる」
か、髪に……キス……!?
氷の騎士様の思いがけない甘い仕草に、私の顔は一瞬で沸騰した。
真っ赤になる顔を落ち着けようと、私は目の前に出された紅茶をしばらく飲みながらソワソワとジオンの帰りをまった。
「まあまあまあ!」
しばらくして、客間に華やかな声が響いた。現れたのは、銀灰色の髪を美しく結い上げた淑女。ジオン様によく似た色彩の端正な顔立ちだが、ふわりとした柔らかな笑みは彼と正反対だ。
「ジオンに、こんな可愛らしいお嬢さんが!」
「母上」
後から部屋に入ったジオンが困ったように言う。
「だって本当に女っ気がなかったのよ、この子。わたくし、将来どうなることかと心配していたの」
アグナー侯爵夫人は私の前まで来ると、そっと両手を取ってくださった。
「お名前を伺っても?」
「し、シェーラ・ロンハートです」
侯爵夫人は、私の手を包み込むように握って、優しく微笑んだ。
「アグナー家に来た以上、あなたはもう安全よ。ちゃんと守ってあげるから」
その一言で、危うく泣きそうになった。
守られる。
そんな言葉を、私は生まれて初めて向けられた気がした。
「婚姻手続きは明日にでも進めましょう」
侯爵夫人はきっぱりと言った。
「書類仕事は早いほうがいいもの。特に、どこかの愚かな家が口を出してくる前にね」
「母上、話が早すぎる」
「何を言うの。こういう時は速度が命よ」
「……否定はしない」
ぼそりと返したジオン様に、侯爵夫人は満足そうに頷いた。
*******
翌朝。ジオン様は「やることがある」と学園へ向かった。最終テストも終わり、今は卒業パーティーまでの自由通学期間だ。部活や残務に励む生徒が多い中、私にはもう学園へ行く用事はない。
「よし!私も何かしなければ!」
500G分の働きを見せるため、私は気合を入れて仕事を探しに出た。お掃除、お料理、雑務、なんでもござれだ。子爵家では影武者だけでなく、使用人の真似事も散々やらされてきたのだから。しかし――。
「奥様、お掃除は私共にお任せください」
「お料理などとんでもない!料理長の首が飛びます!」
「雑務でしたら、今朝方すべて完了しておりますよ」
屋敷はチリひとつなく磨き上げられ、ベテランの執事やメイドたちが完璧に仕事を回していた。入り込む隙など1ミリもない。やばい。私の存在意義(=労働力)が……!と冷や汗を流していると、数人のメイドたちが血相を変えて走ってきた。
「もう!探しましたよ、奥様!」
「えっ、何かお仕事が!?」
「はい!さあ、急いで湯殿へ!」
そのまま私は、有無を言わさず浴室へ連行された。
湯気の立つ広い湯殿。花の香りを移した湯。髪をほどかれ、丁寧に梳かれ、指先まで磨かれる。肌に油を塗られ、香油でほぐされ、爪には艶を出され、頬には薄く紅までさされた。
「ま、待ってください、こんなことまでしなくても……!」
「何をおっしゃるんです」
「奥様はまだ少しお痩せですし、お肌も乾いていらっしゃいます」
「こんなに綺麗な髪なのに、ずっと三つ編みで隠していたなんてもったいない」
「眼鏡も、あれは伊達だったのですね!もったいないです!」
その後も、髪、肌、爪、香り、姿勢、歩き方に至るまで徹底的に整えられた。
昼食もすごかった。澄んだスープ、ふわふわのパン、香草を利かせた白身魚、柔らかく煮込んだ肉、果実のタルト。
「こ、こんなに食べきれません……」
「奥様が細すぎると、旦那様がお怒りになります」
「ええ……?」
意味がわからない。私はただのお飾りの妻のはずだ。
豪華な衣装も、手の込んだ食事も、こんな過剰な手入れも、どう考えても必要ない。
そう訴えても、メイドたちは「旦那様のご命令ですので」とにこやかに首を振るばかりだった。
夕方。薄紫のドレスに着替えさせられた私は、緊張しながら玄関ホールでジオン様の帰りを待っていた。
「おかえりなさいませ、ジオン様。……あの、こんな格好ですみません」
気恥ずかしくて俯く私を見て、ジオン様はピタリと足を止めた。驚いたように私を凝視し、なぜか、ほんのりと頬を赤く染めている。
「……随分と、変わったな」
メイドたちに背中を小突かれ、私はおずおずと彼を見上げた。
「お気に召しませんか……?やっぱり、私なんかがこんな贅沢なドレス――」
「いや。……『お飾りの妻』にふさわしい、見事な美しさだ」
ジオン様はそう言って、優雅な動作で私の手を引き、エスコートしてくれた。背後で、メイドたちが「お坊ちゃま、またあんな素直じゃない言い方して……」と呆れたように囁き合っているのが聞こえた気がした。
豪華な夕食を共にしながら、ジオン様は一枚の紙をテーブルに置いた。
「婚姻届だ」
「あ……」
「ロンハート子爵家とは、すでに話をつけてきた。今後、奴らが君に干渉することはないから、安心してほしい」
なんと手回しが早いのだろう。私は胸を撫で下ろした。これで男爵に売られることはない。ジオン様のお飾りの妻として、精一杯、彼の役に立とう。そう決意して、羽ペンを取り、サインを書き込もうとした――その時。
「っ……」
緊張で手元が狂い、婚姻届の分厚い羊皮紙の縁で、指先をすっと切ってしまった。ぷっくりと、赤い血の雫が滲む。
ガタッ!!ジオン様が、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。
「シェーラ!!」
「ひゃっ!?ど、どうされたんですか?」
「指を切ったじゃないか!医者だ!早く薬箱を持て!」
大慌てで私の手を取るジオン様に、私は目を白黒させた。
「そ、そんな大袈裟な!たかが紙で切っただけです。私、『お飾りの妻』なんですから、これくらいの傷で騒がないでください!」
「何を言っているんだ!」
ジオン様は、ひどく恐ろしいものを見たような顔で私を怒鳴った。
「お前は『お飾りの妻』なんだぞ!?傷ひとつつけていいわけがないだろう!!」
「……え?」
彼は持ってきた薬箱から丁寧に軟膏を取り出し、私の小さな傷口に、まるで壊れ物を扱うかのように優しく薬を塗り、包帯を巻いた。
「メイドたちの手入れで肌艶はだいぶ良くなったようだが……まだ少し痩せているな。もう少し栄養をつけて、顔色を良くしなければ。睡眠はちゃんと取れているのか?」
「え、あ、はい。ふかふかのベッドで……」
「そうか。だが油断はできん」
ジオン様は真剣な顔で私の顔を覗き込んだ。
「俺の隣に立つ以上、健康でいろ。幸福でいろ」
低い声が落ちる。
「俺のお飾りの妻なんだろう」
その意味が、やっぱりわからなかった。瞬きを繰り返す私を、ジオン様は再び、ひょいっと抱き上げた。お姫様抱っこ、本日二回目である。
「じ、ジオン様!?」
「歩いてまた怪我でもされたら困る。寝室まで運ぼう」
「えええええっ!?」
*******
翌日も、その次の日も、生活は同じだった。
朝はメイドたちに磨かれ、昼は栄養のある食事を与えられ、午後には散歩や読書を勧められ、夕方にはジオン様を出迎える。夜は一緒に食事をして、その日の出来事を少しだけ話し、眠る。
気づけば私は、何ひとつ役に立っていないのに、これ以上ないほど大切に扱われていた。
そしてそれが、少しずつ怖くなった。
私はずっと、誰かの影だった。
ティナの影武者。子爵家の都合のいい駒。500Gで売られるだけの娘。だから、こんなふうに丁寧にされる理由がわからない。役に立つからではないのなら、いったいどうして。
夕食の席で、ぼんやりとそんなことを考えていたら、ジオン様が皿の上の葡萄を私の方へ寄せた。
「好きだろう」
「……覚えていらしたんですか」
「見ていればわかる」
さらりと言われて、胸が苦しくなる。
言葉は少ないのに、気づけば彼の視線はいつも私を追っていた。私が冷えた手でカップを持てば、自然に暖炉の近い席へ移してくれる。咳をすれば翌朝には喉に良い茶葉が用意されている。少しでも疲れた顔をしていれば、早く休めと言われる。
それら全部が、私の胸の奥を少しずつ溶かしていった。
ーー私は、やっぱりジオン様が好きだ。
去年、困ってる私を助けてくれた時からずっと。そして今、どうしようもなく、前よりもっと。けれど――だからこそ、苦しかった。
私はあくまで“お飾り”の妻だ。
ジオン様にとって、私は都合のいい名目でしかないのかもしれない。女避けに、世間体に、家のために。役割として愛でられているだけで、本当に欲しいわけではないのかもしれない。
そう思うたびに、胸が少しずつ痛んだ。
*****
そして迎えた、卒業パーティー当日。
「今日は完璧に仕上げますよ」
「……いつも完璧じゃありませんか」
「今日はもっとです!」
メイドたちの総力を結集した凄まじい「お手入れ」の末、鏡の前に立たされた私は、そこに映る自分の姿に言葉を失った。艶やかに結い上げられた紺色の髪。伊達メガネを外した顔には上品な化粧が施され、身に纏っているのは、ジオン様の瞳と髪の色である「銀と紫」を基調とした最高級のドレス。かつて地味な影武者として俯いていた面影は、どこにもなかった。
そこへ、ノックの音と共にジオン様が部屋に入ってきた。
「シェーラ、準備は――」
言葉を切った彼の姿を見て、今度は私が息を呑む番だった。ジオン様が着ているのは、私の髪と瞳の色に合わせた「濃紺とゴールド」の豪奢な礼服。貴族の夜会において、互いの色を身につけることは「深い愛情と独占」を意味する。お飾りの妻なのに、ここまで完璧に偽装してくれるなんて。
「……とても、よく似合っている」
ジオン様は少しだけ目を逸らし、耳まで赤く染めながら私の手を取った。
会場である王宮の広間に私たちが足を踏み入れた瞬間、ざわめきが波のように広がった。
『おい、あの美しい女性は誰だ?』
『ジオン様のエスコート……まさか、婚約者か!?』
突き刺さるような視線に思わず身をすくめると、ジオン様が「俺から離れるな」と力強く腰を抱き寄せてくれた。
「ほお!凄いな、見事に化けたね!」
そこへ、グラスを持ったアレク殿下がニヤニヤと笑いながら近づいてきた。
「本当に綺麗だ。ねえシェーラ嬢、あんな朴念仁やめて、俺のところに来ない?大歓迎するよ」
「なっ、で、殿下!?」
冗談めかしてウインクする殿下に私が慌てていると、ジオン様がスッと私の前に立ち塞がった。
「アレク。俺の妻を口説くな」
「冗談だっての。怖い顔するなよ……本当に過保護なんだから」
殿下は肩をすくめ、ジオン様に耳打ちをした。
「……準備は整ってる。少し打ち合わせるぞ」
ジオン様は頷き、私に向き直った。
「シェーラ、すぐに戻る。ここの壁際から絶対に動かず、待っていてくれ」
ジオン様が殿下と共に広間の奥へ消えた、その直後だった。
「――お前っ!こんなところで何をしている!!」
鼓膜を劈くような怒鳴り声。振り返ると、そこには顔を真っ赤にしたロンハート子爵と、ドレス姿のティナが立っていた。
「さっさと帰ってこい!男爵への嫁入りはどうする気だ!」
「お断りします。私は……ジオン様の妻です!」
震える足に力を込め、私ははっきりと宣言した。しかし、子爵は鼻で笑った。
「それは嘘だ!だってあいつは、支度金の500Gを我が家に一銭も寄越さなかったんだぞ!?お前はただ、都合のいい女除けとして利用されているだけだ!」
「そうよ!お姉様みたいな不細工に、あのジオン様が靡くはずないわ!きっと馬鹿にされてるのよ!」
ティナの嘲笑に、私の胸がドクリと嫌な音を立てた。
(利用されている……?)確かに、私は「お買い得な労働力」として自分を売り込んだ。ジオン様が私を大切にしてくれるのは、私が「お飾り」という彼の所有物だからだ。本当に愛されているわけじゃない。500Gすら払われていないなら、私は本当にただの……。
「さあ、来い!男爵が首を長くして待っているぞ!」
子爵が私の腕を乱暴に掴み、引きずり出そうとした。
「痛っ……やめて!」
「大人しくしろ、この恩知らずが!」
――その時。
「俺の妻に、薄汚い手で触れるな」
絶対零度の声が広間に響き渡った。次の瞬間、子爵の手が弾き飛ばされ、私は温かく逞しい腕の中にすっぽりと抱き込まれていた。ジオン様だ。周囲の貴族たちが、氷の騎士の凄まじい怒気に息を呑んで道を空ける。
「ジ、ジオン様!この女は我が家の――」
「500Gのことなら、彼女の個人口座にすべて振り込んだ」
「なっ!?」
ジオン様は、這いつくばる子爵を冷酷に見下ろした。
「500Gは妻の『支度金』だと言ったはずだ。挙式まで侯爵家預かりとなっている以上、ロンハート家に渡す意味など微塵もないだろう?」
「そ、そんな馬鹿な!この女は私の養子、つまり、子爵である私の所有物だぞ!貴族の娘の婚姻先を決める権限は、子爵位を持つ私にある!!」
「――いいや、違うね」
呆れたような、ひどく冷ややかな声だった。振り返った子爵が、ヒッと短い悲鳴を上げて後ずさる。
気づけば、数人の近衛騎士を従えたアレク殿下がすぐそばに立っていた。過剰な足音も怒声もない。ただ彼がそこに歩み出ただけで、周囲の貴族たちは空気を察してスッと道を空け、広間は水を打ったように静まり返ってしまった。
先ほどまで私にウインクを飛ばしていた、陽気な友人の面影はない。そこにあるのは、次期国王としての静かな威厳。
「で、殿下……!?なぜ、ここに……っ」
子爵が顔を引き攣らせ、その場にへたり込む。アレク殿下はそんな彼をひんやりと見下ろし、淡々と口を開いた。
「ロンハート子爵。いや、正確には『元』子爵夫人の連れ子殿、と言うべきかな?」
「な、なにを……」
「とぼけても無駄だよ。養子だったのは、貴方の方だ」
アレク殿下の鋭い指摘に、子爵がカッと目を見開いた。
「血の繋がらない貴方が、正当な子爵家の後継だった姉――シェーラ嬢の母親を追い出し、書類を偽造して爵位を乗っ取った証拠は、すべて挙がっている。ついでに領地の公金横領もね」
「なっ……!そ、それは……っ!」
「それに、シェーラ嬢をティナ嬢の影武者として使っていた件もだ」
殿下の言葉に、今度はティナがビクッと肩を跳ねさせた。
「学園での記録は全部残ってる。答案の筆跡も、試験の出席確認もね。学年三位の才女の正体が本当は誰だったか、調べればすぐにわかることだ」
「ひっ……!違うわ、私は悪くないっ……!」
顔面蒼白になる二人を見て、殿下は冷たく言い放った。
「連行しろ」
殿下の合図で、騎士たちが子爵とティナの腕を容赦なく掴み上げた。
「離せ!私は子爵だぞ!」
「元、になるかもしれないね」
ジタバタと暴れる子爵を見下ろし、アレク殿下は涼しい顔で言った。
「正式な継承権については王家預かりで再審査だ。シェーラ嬢の権利も改めて確認される」
「そんな……!」
「あと、未成年の娘を好色で知られる男爵に売ろうとした件も、かなり印象が悪いよ。覚悟しておくといい」
「あ、あああ……っ!」
絶望に染まった子爵夫妻と、泣き叫ぶティナが、近衛騎士たちによって広間から引きずり出されていく。嵐が去った後の会場は、嘘のように静まり返っていた。
*****
嵐が去った後。そっと抜け出したバルコニーで、ジオン様は夜風の中で私を優しく抱きしめたまま、ポツリと口を開いた。
「……怖がらせてすまなかった」
「いえ……ジオン様のおかげで、助かりました。本当に、ありがとうございます」
「いや。俺は、ずっと君を助けたかったんだ」
ジオン様は私の頬にそっと手を添え、真剣な瞳で見つめてきた。
「ずっと、君のことが好きだった」
「え……?」
「1年前、君が亡きご両親のペンダントを落として泣いていた日。一緒に泥だらけになって探しただろう。……実はあの頃、俺は次期騎士団長という重圧に押し潰されそうで、必死に感情を殺して『氷の騎士』を演じていたんだ」
ジオン様は懐かしむように目を細めた。
「でも、ペンダントを見つけた時、君は泣き笑いのような顔で俺の手を握って、こう言ってくれたんだ。『こんなに温かくて優しい手をしているのに、氷の騎士だなんて嘘ですね。たまには、ただの人間として息抜きしてくださいね』と」
カァッと顔が熱くなった。確かに言った。あの日、私はティナの影武者をしていた。だから気づかれるわけないと油断して、つい素の自分でお節介なことを言ってしまったのだ。
「あの言葉に、俺はどれだけ救われたか。君が笑ってくれたあの瞬間から、ずっと惹かれていた。君がティナ嬢の影武者だと気づいた後も、君が本当はどれだけ賢く、優しい女性かずっと見てきた」
頭が真っ白になった。ジオン様は、最初から全部知っていた?
「子爵家の乗っ取り疑惑は内偵が進んでいたから、俺が迂闊に手を出せば、君の身に危険が及ぶかもしれなかった。だから、ずっと耐えていたんだ。……そうしたら」
ジオン様は、ふっと肩を揺らして、少しだけ意地悪く笑った。
「先日の中庭で、ずっと片思いしていた最愛の女性が、いきなり『500Gでお飾りの妻にしてくれ』と飛び込んできたんだぞ?俺がどれほど心臓を止める思いで驚いたか、君には分からないだろう」
「あ……っ」
ジオン様の抱きしめる腕に力がこもる。
「アレクがあれほど爆笑していたのも当然だ。あいつは、俺が君に片思いして拗らせていたのを知っていたからな」
だから殿下は、「俺たちカップルだってよ!」なんてジオン様をからかいつつ、腹を抱えて笑い転げていたのだ。点と点が繋がり、私は恥ずかしさで両手で顔を覆いたくなった。
「それに……」
ジオン様の大きな手が、私の顔を覆う手をそっと外し、指先を絡めてきた。
「正直に言うと、俺は少し腹を立てていたんだ」
「怒って、いた……?」
「ああ。俺が世界で一番愛している女性が、たかが500Gで自分を安売りしようとしていたからな」
ジオン様は私の額にコツンと自分の額を合わせ、吐息がかかる距離で囁いた。
「だから、思い知らせてやろうと思ったんだ。俺にとっての『お飾り』は、国中の宝石をかき集めても足りないほど高価で、傷ひとつ、埃ひとつ許されない……文字通りの『国宝級の宝物』なんだと」
お風呂から食事、寝室までの移動に至るまで、あそこまで過剰に大切に磨き上げられていた理由。それは、お飾りの意味を勘違いしていたのではなく、私が自分を大切にしないことへの、ジオン様なりの怒りと愛の表現だったのだ。
「もう二度と、君自身の価値を低く見積もるような悲しい真似はさせない」
そう言って、ジオン様は私の左手の薬指に、500Gどころかお城が建ちそうなほど大粒のダイヤモンドが輝く指輪を嵌めた。そして、私の手を大切そうに両手で包み込み、真剣な瞳で告げた。
「これからは、俺のそばで生きてくれ。絶対に、傷ひとつつけさせない」
「……過保護すぎませんか」
「お飾りだからな」
「まだ言うんですか!?」
涙ぐんでいたのも束の間、私が思わずツッコミを入れると、氷の騎士様はどこ吹く風で真顔のまま言い切った。
「当然だ。俺の宝として飾る以上、常に最高の状態でいてもらう」
甘すぎる宣戦布告に、私は顔を真っ赤にして彼に抱きつくしかなかった。
後に社交界では、アグナー侯爵家の若奥様は“最も大事に飾られた妻”として有名になる。だが、その実態は――。
婚姻届の紙で指を切れば屋敷中が大騒ぎし、少し食が細れば料理長が血相を変えて新作を並べ、寝不足気味なら侯爵家の跡取り自らが抱き上げて寝室まで運び、庭に出るだけで日傘と飲み物とひざ掛けが用意されるという、どう考えても“お飾り”の範囲を大きく超えた溺愛ぶりだった。
「私をお飾りの妻にしてください!」とお願いしたら、思っていたのと全然違ったけれど。今日も私は、重すぎる愛に包まれながら、身も心もピカピカに磨き上げられている。
お読みいただきありがとうございました!
ベタな溺愛ものが書きたくて生まれた作品です^^
コメント・ブックマーク・☆評価、大変励みになります!




