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ダンジョン日記  作者: アイデア
第0章 新生ダンジョンの主「原初の3人」
9/24

第8話 共鳴の庭 ― イベント

目を開ける前に、世界の色が変わったのが分かった。

 水の音がやわらかい。昨日の連戦で乱れた拍はもう残っていない。

 壁の苔は息を吸い、吐くたびに淡い香りを立ちのぼらせる。湿った土と新芽の匂い。春先に胸の奥が少しだけ膨らむ、あの感覚に近い。


 肩の上でキトがのびをする。

 ぺち、ぺち。三拍。

 魚は天井近くをゆるく輪を描き、青白い尾光が壁面に植物の影をつくってはほどいていく。影は昨日より濃いのに、怖くない。むしろ、やさしい。


 ――きょうの行いを選べ。

 ① 高級戦闘:危険度高。報酬も高。

 ② イベント:未知の現象・存在・異物との接触。

 ③ 宝箱探索:希少アイテムを発見できるかもしれない。


 迷わない。今日は、この空気の手触りをそのまま受け取りたい。


「②、イベント。」


 囁きが水面へ落ちた石のように遠ざかり、代わりに通路の奥で微かなざわめきが生まれた。

 苔の緑が一段濃くなり、壁面の小さな裂け目から薄い蔓が顔を出す。蔓は呼吸の拍と同じ速さでふるえ、先端で透明な露を一粒ふくらませては、ぽたり、と落とした。


「……呼んでる。」


 僕が呟くと、キトがぺちと一拍返す。魚が尾で小さな弧を描き、案内するみたいに前へ漂う。骨鳴りの剣は壁に立て掛けたまま、刃の苔を淡く震わせている。戦いの日じゃない。今日は、別の拍だ。


 僕らは歩き出した。



 通路は、見慣れた岩肌の色から、ゆっくりと緑へと変わっていった。

 苔が板状に広がり、ところどころから瑞々しい水草が伸びる。地面はすべりやすそうに見えるのに、足裏は不思議と安定した。踏みしめるたび、柔らかい反発が骨まで返ってきて、歩幅が自然に整っていく。


 音が増える。

 水の拍、滴の拍、苔の拍。

 遠くで、風が草を撫でるような擦過音。

 耳の奥で、誰かが指でつま弾くような低い弦の響き。


 通路の角を曲がると、光がひらけた。

 広間――庭が、そこにあった。


 天井は低いのに、閉塞感がない。

 壁一面を覆う苔は、深い森の縁みたいな濃密な緑。

 床には水脈が細かな網目になって走り、ところどころで丸い水溜りをつくっては、表面に微細な波紋を立てている。波紋は一定ではなく、三拍でふくらみ、二拍でほどけた。


 生えているものは、苔と水草だけじゃない。

 細い茎の先に薄い膜を広げる膜草、丸い苞を持って規則的に開閉する拍嚢、光を吸い、遅れて吐き出す遅光苔。

 どれもはじめて見るのに、名前だけは自然に浮かぶ。迷宮が、教えている。あるいは、僕の中のどこかが思い出している。


 庭の中心に、それは咲いていた。


 音を吸う花。


 花弁は透明で、厚みがない。

 十数枚の花弁は、それぞれ違う方向へゆるやかに曲がり、重ならない。

 中心の花筒は、生き物の喉のように上下し、吸っては吐く動きを繰り返す。吸うとき、周囲の音が微かに薄くなる。吐くと、薄い膜が震えて、遠い鐘の余韻のような音が広がる。


「……綺麗だ。」


 思わず漏らす。

 キトが僕の肩から跳び、花の周囲を半周して戻ってくる。ぺち、ぺち、ぺち。いつもの三拍。

 花は反応しない。吸う拍は変わらず、黙っている。


 囁きが、庭そのものの呼吸に混ざって響いた。


 ――イベント発動。

 【共鳴の庭】

 選択せよ。

 ① 見守る。

 ② 触れる。

③ 退く。


 呼吸がひとつ深くなる。

 触れれば、奪われるかもしれない。

 見守れば、何も得られないかもしれない。

 退けば、今日の拍は「空振り」になる。


 僕は掌を胸に当て、三拍を刻んだ。

 トン、トン、トン。

 花筒は、二拍の間で静かに揺れる。

 僕は一歩、前へ。


「……②、触れる。」


 キトが短く鳴き、僕の手の甲へ小さく頭突きをする。

 気を付けろ、の二拍。

 魚は高く旋回し、青白い光を薄い膜みたいに花の上へ広げた。光の膜は音を持たないのに、花はわずかに吸う拍を遅らせる。ためらい。だが、拒みではない。


 僕は膝をつき、花の前へ。

 指の腹で、透明な花弁の端に触れた。


 冷たくはなかった。


 触れた瞬間、指先から心臓までが空っぽになった。

 音が、消える。

 僕の鼓動も、キトの拍も、魚の光も――すべてが一瞬で吸われた。


 無音。

 色だけが残る。

 視界が浅く、しかし異様に鮮明になる。

 時間が伸び、世界が静止画になったみたいだ。


 次の拍。

 花筒がわずかに震え、音が戻った。

 戻り切らない。戻った分だけ、花の中心が光る。


 ああ、これは――交換だ。


 もう一度、指を置く。

 二拍、吸われ、一拍、返される。

 吸われたぶんだけ、花弁の縁が色づく。透明だったはずの縁に、苔の緑が一筋走り、そこを通って細い露が立ち上がる。露は音もなく三度震え、弾け、種の形になった。


 囁きが、僕の皮膚の内側で鳴る。


 ――報酬生成。

 【共鳴種子】

 説明:拍を植える種。植えられた場所に、小さな部屋を作る。


 種は、豆粒ほど。

 色は、まだ透明に近い灰。

 掌に載せると、トンと微かな一拍を鳴らした。

 僕の胸の拍に、遅れてトン。

 キトがぺちと返す。魚が尾で一度たゆたう。

 種は三つの音を受け取り、ほんの少しだけ重くなった。


 花は、もう吸わない。

 花筒はゆっくりと沈み、花弁がひとひらだけすこし欠けた。

 欠け目から、光が漏れる。

 庭全体が、ふっと息を吐いた。



 触れた指先に、後から痛みが来た。

 爪の付け根が冷え、血が遅れて巡る。

 吸われた拍は、完全には戻らない。

 けれど、その欠けを埋めるように、胸の奥で別の拍が鳴り始めた。

 迷宮の拍だ。

 庭の拍だ。

 僕の拍が、そこへ繋がれた。


 キトが肩へ戻る。新しい羽根の透明な縁が、薄い虹を作る。

 魚が花の上を一周してから、僕の頭上へ降り、光を絞る。

 庭の周囲で、膜草が一斉に開いた。

 薄膜の内側にたまっていた露が、三拍で震え、一拍で落ちる。

 水面に輪が広がり、重なり合って、やがてゆっくりと消えた。


 ――イベント完了。

 環境変化:共鳴域が発生。

 効果:この部屋で刻む拍は、明日の選択肢に影響を与える。


「……選択肢に、影響。」


 言葉にしてみると、胸の音が少しだけ速くなる。

 僕の「三拍」が、明日の“メニュー”を変える。

 迷宮は、ただ提示するだけじゃない。

 僕の息に、合わせて提示し直すことができる。


「キト、試してみよう。」


 ぺち、ぺち、ぺち。

 僕も胸でトン、トン、トン。

 魚は尾で一、二、三の回転をつくる。

 庭が、それに合わせて三回呼吸した。

 膜草が三度開き、拍嚢が三度膨らみ、遅光苔が三度遅れて光を返す。

 そして――部屋の奥の、誰もいじっていない岩肌に、細い割れ目が一筋入った。


 割れ目はただのひびではなく、扉の筋だ。

 今は開かない。

 けれど、拍が重なれば、きっと。


 喉の奥へ、浅い渇きが戻る。

 吸われた拍の余韻。

 庭はこれ以上は応えてこない。

 満ちた。今日はここまで。


「ありがとう。」


 僕が言うと、花弁の欠け目が細く震えた。

 返事か、風か、分からない。

 でもそれで十分だ。

 この世界では、“感じた”ことがすべてだから。



 帰り道は、来たときよりも静かだった。

 通路の緑は残り、蔓は壁へ身を沈めている。

 足裏の反発は弱まり、石の硬さが戻ってきた。

 キトは肩で小さく丸まり、魚は天井の陰でゆっくり揺れる。


 寝床の部屋に戻ると、骨鳴りの剣が待っていた。

 刃の苔は、庭の匂いをほんの少しだけ吸って、鈍い緑を帯びている。

 剣の根元に共鳴種子を近づけると、トンと鳴った。

 刃がトンと返す。

 拍は合っている。

 この種は、僕らの武器や部屋を育てる。


 どこに植えるべきだろう。

 寝床の隣に、小さな光の間?

 水脈の分岐点に、呼吸を整える空洞?

 それとも、いつか戦いの前に必ず通る「音の門」?


 考える。

 選択は急がない。

 種は胸の上で、三拍で静かに鳴っている。



 夜。

 遅光苔の明滅がゆっくりになり、水の音は丸くなる。

 キトは僕の鎖骨の窪みで寝息を立て、魚は天井近くで静止する。

 掌の上の種は、トンと一度だけ鳴いて、黙った。


 眠りに落ちる直前、皮膚の裏に、あの囁きが触れる。


 ――次の行いを選べ。

 ① 通常戦闘。

 ② イベント。

 ③ 休息。


 庭で刻んだ三拍が、囁きの調子をわずかに変えている。

 同じ言葉なのに、今日の②は昨日までと違う重みを持って響いた。

 僕は笑いを飲み込み、目を閉じる。


「……明日、植えよう。」


 迷宮は微かに震え、了解のように水を一滴落とした。

 ぽたり。

 ぽたり。

 ぽたり。


 音は三度だけ続き、止んだ。

 拍が合う。

 それでいい。

 それが、ここでの「おやすみ」だ。

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