第8話 共鳴の庭 ― イベント
目を開ける前に、世界の色が変わったのが分かった。
水の音がやわらかい。昨日の連戦で乱れた拍はもう残っていない。
壁の苔は息を吸い、吐くたびに淡い香りを立ちのぼらせる。湿った土と新芽の匂い。春先に胸の奥が少しだけ膨らむ、あの感覚に近い。
肩の上でキトがのびをする。
ぺち、ぺち。三拍。
魚は天井近くをゆるく輪を描き、青白い尾光が壁面に植物の影をつくってはほどいていく。影は昨日より濃いのに、怖くない。むしろ、やさしい。
――きょうの行いを選べ。
① 高級戦闘:危険度高。報酬も高。
② イベント:未知の現象・存在・異物との接触。
③ 宝箱探索:希少アイテムを発見できるかもしれない。
迷わない。今日は、この空気の手触りをそのまま受け取りたい。
「②、イベント。」
囁きが水面へ落ちた石のように遠ざかり、代わりに通路の奥で微かなざわめきが生まれた。
苔の緑が一段濃くなり、壁面の小さな裂け目から薄い蔓が顔を出す。蔓は呼吸の拍と同じ速さでふるえ、先端で透明な露を一粒ふくらませては、ぽたり、と落とした。
「……呼んでる。」
僕が呟くと、キトがぺちと一拍返す。魚が尾で小さな弧を描き、案内するみたいに前へ漂う。骨鳴りの剣は壁に立て掛けたまま、刃の苔を淡く震わせている。戦いの日じゃない。今日は、別の拍だ。
僕らは歩き出した。
⸻
通路は、見慣れた岩肌の色から、ゆっくりと緑へと変わっていった。
苔が板状に広がり、ところどころから瑞々しい水草が伸びる。地面はすべりやすそうに見えるのに、足裏は不思議と安定した。踏みしめるたび、柔らかい反発が骨まで返ってきて、歩幅が自然に整っていく。
音が増える。
水の拍、滴の拍、苔の拍。
遠くで、風が草を撫でるような擦過音。
耳の奥で、誰かが指でつま弾くような低い弦の響き。
通路の角を曲がると、光がひらけた。
広間――庭が、そこにあった。
天井は低いのに、閉塞感がない。
壁一面を覆う苔は、深い森の縁みたいな濃密な緑。
床には水脈が細かな網目になって走り、ところどころで丸い水溜りをつくっては、表面に微細な波紋を立てている。波紋は一定ではなく、三拍でふくらみ、二拍でほどけた。
生えているものは、苔と水草だけじゃない。
細い茎の先に薄い膜を広げる膜草、丸い苞を持って規則的に開閉する拍嚢、光を吸い、遅れて吐き出す遅光苔。
どれもはじめて見るのに、名前だけは自然に浮かぶ。迷宮が、教えている。あるいは、僕の中のどこかが思い出している。
庭の中心に、それは咲いていた。
音を吸う花。
花弁は透明で、厚みがない。
十数枚の花弁は、それぞれ違う方向へゆるやかに曲がり、重ならない。
中心の花筒は、生き物の喉のように上下し、吸っては吐く動きを繰り返す。吸うとき、周囲の音が微かに薄くなる。吐くと、薄い膜が震えて、遠い鐘の余韻のような音が広がる。
「……綺麗だ。」
思わず漏らす。
キトが僕の肩から跳び、花の周囲を半周して戻ってくる。ぺち、ぺち、ぺち。いつもの三拍。
花は反応しない。吸う拍は変わらず、黙っている。
囁きが、庭そのものの呼吸に混ざって響いた。
――イベント発動。
【共鳴の庭】
選択せよ。
① 見守る。
② 触れる。
③ 退く。
呼吸がひとつ深くなる。
触れれば、奪われるかもしれない。
見守れば、何も得られないかもしれない。
退けば、今日の拍は「空振り」になる。
僕は掌を胸に当て、三拍を刻んだ。
トン、トン、トン。
花筒は、二拍の間で静かに揺れる。
僕は一歩、前へ。
「……②、触れる。」
キトが短く鳴き、僕の手の甲へ小さく頭突きをする。
気を付けろ、の二拍。
魚は高く旋回し、青白い光を薄い膜みたいに花の上へ広げた。光の膜は音を持たないのに、花はわずかに吸う拍を遅らせる。ためらい。だが、拒みではない。
僕は膝をつき、花の前へ。
指の腹で、透明な花弁の端に触れた。
冷たくはなかった。
触れた瞬間、指先から心臓までが空っぽになった。
音が、消える。
僕の鼓動も、キトの拍も、魚の光も――すべてが一瞬で吸われた。
無音。
色だけが残る。
視界が浅く、しかし異様に鮮明になる。
時間が伸び、世界が静止画になったみたいだ。
次の拍。
花筒がわずかに震え、音が戻った。
戻り切らない。戻った分だけ、花の中心が光る。
ああ、これは――交換だ。
もう一度、指を置く。
二拍、吸われ、一拍、返される。
吸われたぶんだけ、花弁の縁が色づく。透明だったはずの縁に、苔の緑が一筋走り、そこを通って細い露が立ち上がる。露は音もなく三度震え、弾け、種の形になった。
囁きが、僕の皮膚の内側で鳴る。
――報酬生成。
【共鳴種子】
説明:拍を植える種。植えられた場所に、小さな部屋を作る。
種は、豆粒ほど。
色は、まだ透明に近い灰。
掌に載せると、トンと微かな一拍を鳴らした。
僕の胸の拍に、遅れてトン。
キトがぺちと返す。魚が尾で一度たゆたう。
種は三つの音を受け取り、ほんの少しだけ重くなった。
花は、もう吸わない。
花筒はゆっくりと沈み、花弁がひとひらだけすこし欠けた。
欠け目から、光が漏れる。
庭全体が、ふっと息を吐いた。
⸻
触れた指先に、後から痛みが来た。
爪の付け根が冷え、血が遅れて巡る。
吸われた拍は、完全には戻らない。
けれど、その欠けを埋めるように、胸の奥で別の拍が鳴り始めた。
迷宮の拍だ。
庭の拍だ。
僕の拍が、そこへ繋がれた。
キトが肩へ戻る。新しい羽根の透明な縁が、薄い虹を作る。
魚が花の上を一周してから、僕の頭上へ降り、光を絞る。
庭の周囲で、膜草が一斉に開いた。
薄膜の内側にたまっていた露が、三拍で震え、一拍で落ちる。
水面に輪が広がり、重なり合って、やがてゆっくりと消えた。
――イベント完了。
環境変化:共鳴域が発生。
効果:この部屋で刻む拍は、明日の選択肢に影響を与える。
「……選択肢に、影響。」
言葉にしてみると、胸の音が少しだけ速くなる。
僕の「三拍」が、明日の“メニュー”を変える。
迷宮は、ただ提示するだけじゃない。
僕の息に、合わせて提示し直すことができる。
「キト、試してみよう。」
ぺち、ぺち、ぺち。
僕も胸でトン、トン、トン。
魚は尾で一、二、三の回転をつくる。
庭が、それに合わせて三回呼吸した。
膜草が三度開き、拍嚢が三度膨らみ、遅光苔が三度遅れて光を返す。
そして――部屋の奥の、誰もいじっていない岩肌に、細い割れ目が一筋入った。
割れ目はただのひびではなく、扉の筋だ。
今は開かない。
けれど、拍が重なれば、きっと。
喉の奥へ、浅い渇きが戻る。
吸われた拍の余韻。
庭はこれ以上は応えてこない。
満ちた。今日はここまで。
「ありがとう。」
僕が言うと、花弁の欠け目が細く震えた。
返事か、風か、分からない。
でもそれで十分だ。
この世界では、“感じた”ことがすべてだから。
⸻
帰り道は、来たときよりも静かだった。
通路の緑は残り、蔓は壁へ身を沈めている。
足裏の反発は弱まり、石の硬さが戻ってきた。
キトは肩で小さく丸まり、魚は天井の陰でゆっくり揺れる。
寝床の部屋に戻ると、骨鳴りの剣が待っていた。
刃の苔は、庭の匂いをほんの少しだけ吸って、鈍い緑を帯びている。
剣の根元に共鳴種子を近づけると、トンと鳴った。
刃がトンと返す。
拍は合っている。
この種は、僕らの武器や部屋を育てる。
どこに植えるべきだろう。
寝床の隣に、小さな光の間?
水脈の分岐点に、呼吸を整える空洞?
それとも、いつか戦いの前に必ず通る「音の門」?
考える。
選択は急がない。
種は胸の上で、三拍で静かに鳴っている。
⸻
夜。
遅光苔の明滅がゆっくりになり、水の音は丸くなる。
キトは僕の鎖骨の窪みで寝息を立て、魚は天井近くで静止する。
掌の上の種は、トンと一度だけ鳴いて、黙った。
眠りに落ちる直前、皮膚の裏に、あの囁きが触れる。
――次の行いを選べ。
① 通常戦闘。
② イベント。
③ 休息。
庭で刻んだ三拍が、囁きの調子をわずかに変えている。
同じ言葉なのに、今日の②は昨日までと違う重みを持って響いた。
僕は笑いを飲み込み、目を閉じる。
「……明日、植えよう。」
迷宮は微かに震え、了解のように水を一滴落とした。
ぽたり。
ぽたり。
ぽたり。
音は三度だけ続き、止んだ。
拍が合う。
それでいい。
それが、ここでの「おやすみ」だ。




