第6話 共鳴の眠り ― 休息
水の音で、目を覚ました。
どこか遠くで流れている。
昨日よりも静かで、深い音だ。
まるで、迷宮の心臓が眠っているような響きだった。
天井の苔が淡く光っている。
緑でも青でもなく、灰の中に滲む微かな光。
朝、というよりは、夜がそのまま薄まったような時間。
肩の上でキトが小さく震えた。
ぺち、ぺち。
それだけで“起きろ”という意味になる。
魚は天井をくるりと回り、泡のような光を落とす。
いつもより、光が柔らかい。
――きょうの行いを選べ。
① 通常戦闘。
② 封印の間。
③ 休息。
迷わず言葉を選んだ。
「③、休息。」
囁きが消えた瞬間、迷宮の空気がゆっくりと動いた。
通路の奥で風のようなものが流れ、温度が少し上がる。
壁の苔が呼吸するように膨らんで、淡い香りを漂わせた。
今日は、迷宮そのものが“眠る日”らしい。
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寝床のある部屋に戻り、腰を下ろす。
骨鳴りの剣は壁際に立てかけてある。
刃の音は止まっていた。
昨日までは、心臓のように震えていたのに。
静かだ。
静かすぎて、自分の拍がうるさいくらい。
キトが僕の胸の上に移動してきた。
ぺち、ぺち。
リズムを合わせろ、ということだ。
魚が部屋の中央を泳ぎながら、青白い光を描く。
その光が波のように広がり、空気に溶けた。
呼吸を合わせる。
吸って、吐いて。
キトの拍と僕の拍、魚の光、苔の揺れ。
全部が同じ速さで動いていた。
世界が、僕に呼吸を合わせている。
それを感じた瞬間、全身の力が抜けていった。
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まぶたの裏で、音が変わる。
水の音が、少し遠くなった。
代わりに、低い鐘のような響きが近づく。
トン、トン、トン。
共鳴の欠片。
ポケットの中で、かすかに熱を持っていた。
目を閉じたまま、それに指先を触れる。
音が脈打つ。
指の先から心臓へ、心臓から迷宮へ、波紋のように広がっていく。
世界が反転した。
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光が上からではなく、下から差している。
水面の底に沈んでいるようだった。
周囲は透明な闇。
そこに、誰かがいた。
輪郭のない人影。
僕よりも少し背が高く、髪のようなものが水に漂っている。
声はない。
でも、胸の奥で“音”が響いた。
カン、カン、カン。
三拍。
その拍は、僕のものよりも正確で、澄んでいた。
その音に合わせて、水面に波紋が広がる。
波紋が形を持ち、模様を作る。
螺旋、文様、そして、扉のような図形。
――【封印】。
声ではなく、意味だけが頭の中に浮かんだ。
それは、言葉のない記憶。
影が手を伸ばす。
指先が僕の胸に触れる。
冷たくも熱くもない、感情そのものの温度。
トン、トン、トン。
音が重なり、視界が揺れた。
光の粒が舞い、世界が崩れる。
⸻
目を開けると、部屋の天井が見えた。
苔が淡く光り、魚がゆっくりと輪を描いている。
キトが胸の上で丸くなっていた。
眠っていた。
けれど、夢ではなかった。
ポケットの中で、共鳴の欠片がまだ脈打っている。
光が漏れ、部屋の空気に淡い波紋が走る。
その波紋が壁を通り抜け、奥の通路まで広がっていく。
迷宮が、応えている。
休息の日なのに、迷宮が動いている。
欠片の音が、言葉のように聞こえた。
――「また会おう。」
誰の声かは分からない。
でも、その瞬間、昨日までより少しだけ、迷宮が近くなった気がした。
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水脈の音が戻ってきた。
壁の苔が膨らみ、空気が湿る。
魚が天井を叩き、光を散らす。
キトがぺちと僕の頬を叩いた。
「……起きたよ。」
声を出すと、迷宮が微かに震えた。
遠くの壁が低く鳴り、音が反響していく。
その響きは、まるで迷宮全体が息を合わせているようだった。
僕は骨鳴りの剣を手に取った。
刃が再び震え、音を返してくる。
昨日よりも、少し深い音。
「……おかえり。」
独り言のように呟く。
キトがぺちと叩く。
魚が光を放つ。
音がひとつになる。
迷宮の鼓動が、胸の奥まで染み込んでいく。
休息の日は、戦いよりも静かで、けれど確実に進む日だ。
⸻
夜が来る頃、共鳴の欠片が静かに光った。
水の音に合わせて、微かに拍を刻んでいる。
キトがそれを覗き込み、ぺちぺちと叩く。
欠片が応え、音を返す。
それを何度も繰り返すうちに、眠気が訪れる。
迷宮が眠り、僕も眠る。
けれど、眠りの中で、音だけは生きている。
カン……カン……カン……
遠くの鐘が鳴る。
昨日と同じ拍。
明日もこの音を聞けるように。
そして、明日も――選んで、生きよう。




