第5話 封じられた箱 ― 宝箱探索
迷宮の朝は、いつも音から始まる。
けれど、今朝の音は違っていた。
水脈の流れが増したのか、どこかで新しい滝のような響きが重なっている。
音が重なり、空気が振動する。
まるで迷宮そのものが、低く喉を鳴らしているようだった。
壁の苔の光は柔らかく、昨日よりも青に近い。
空気には鉄のような匂いと、わずかな甘さ。
この甘さを感じるのは、きっと生きている証拠だ。
死の匂いには、甘さがない。
肩の上でキトが身を伸ばす。
ぺち、ぺち、ぺち。
いつもの朝の挨拶。
昨日の戦いの疲れも、すっかり消えている。
魚はまだ天井近くで漂っていて、光の線を引きながら水脈の上を回っている。
その尾が反射した光が、壁に淡い虹を作っていた。
――きょうの行いを選べ。
① 通常戦闘
② 宝箱探索
③ 休息
囁きが流れ込んだ瞬間、空気が一層澄んだ。
選択肢は三つ。いつものこと。
けれど、今日の②から漂う気配が違う。
冷たくも暖かく、遠くの誰かに呼ばれているような、不思議な重みがあった。
キトが僕の頬を叩く。ぺち、ぺち。
魚が尾を揺らし、青い波を天井に描く。
ふたりとも、何かを察している。
危険ではない。でも、未知だ。
「……②、宝箱探索。」
言葉にした瞬間、空気が震えた。
迷宮が息を吸い、僕を“試すように”通路を変える。
壁が静かに滑り、別の道が生まれる。
淡い光が奥へと続く――そこが、今日の目的地。
⸻
通路は乾いていた。
水脈の音が遠のく。
代わりに、鈍い低音のような振動が足の裏から伝わる。
歩くたびに、迷宮がわずかに応える。
壁の苔は黄緑から灰色に変わり、光は少なくなった。
湿気は減り、かわりに古い書物のような匂いが漂う。
空気の中に“粉”がある――光の粒ではなく、乾いた何か。
キトが膜を広げる。
ひれの先に小さな光が灯る。
魚も、光を絞るようにして僕らの前を照らす。
それはまるで、深い図書館を歩くような静けさだった。
十数歩ほど進むと、道が開けた。
そこは円形の小部屋。
中央に、箱があった。
石でできた、四角い箱。
古代の文様が刻まれ、蓋の隙間から淡い光が漏れている。
苔は生えていない。
代わりに、箱の表面が呼吸しているように、微かに動いていた。
音がする。
遠くの鐘のような――けれどそれは、箱の中から響いていた。
心臓の鼓動より遅いリズム。
カン……カン……カン……
「……鳴ってる。」
声を出した瞬間、光が揺れた。
まるで、僕の声を聞いて返事をしたみたいだった。
囁きが再び頭の中を撫でる。
――探索イベント発動。
【封じられた箱】
選択せよ。
① 見守る。
② 触れる。
③ 開ける。
キトが石を叩く。ぺち、ぺち。
「見ろ」という合図。
魚がゆっくりと降りてくる。
光を浴びた箱の表面に、影が浮かんだ。
それは――人の手の形。
(……誰かが、ここに来た?)
記憶のない僕にとって、“誰か”という言葉はまだ他人事だ。
でも、手の形を見ただけで、胸の奥がざわめいた。
懐かしい感情が、言葉のないまま浮かび上がる。
そのまま箱を見つめていると、リズムが変わった。
カン、カン、カン。
三拍。
僕の拍と、キトの拍。
そして――箱の拍。
同じだ。
心臓の音が重なった瞬間、手が勝手に伸びた。
「……③、開ける。」
囁きが静かに消える。
代わりに、空気が熱を帯びた。
箱の文様が光り、蓋の隙間がわずかに広がる。
そこから光が零れ、僕の指先を照らす。
冷たくない。むしろ、血のように暖かい。
蓋を押す。
光が爆ぜた。
⸻
目を閉じた。
光がまぶたの裏に模様を描く。
幾何学の渦。
音が降る。
カン……カン……カン……
鐘の音が、世界の奥から響く。
視界の奥で、何かが動く。
影。形のない人影。
笑っているようにも、泣いているようにも見える。
声はない。ただ、音がある。
(これは……“記憶”か?)
光が消え、音だけが残った。
鼓動。拍。鐘。
それらが一つに重なった瞬間、箱の中に“何か”が現れた。
それは石のかけらだった。
透明に近い灰色。
手のひらに乗せると、微かに音が鳴る。
トン、トン。
僕の心音と同じ。
囁きが流れる。
――報酬獲得。
【共鳴の欠片】
説明:音を記憶する石。拍を刻む者と共に響く。
キトが興味深そうに欠片を覗き込む。
魚がふわりと降り、欠片の上を泳ぐ。
光が反射して、箱の内側に虹が広がった。
空気がやわらかく震える。
迷宮が、喜んでいる。
まるで「よく選んだ」とでも言うように。
⸻
部屋の隅で、小さな音がした。
箱の下に、小さな芽が生えている。
苔の新芽。
そこから、水が滲み出ていた。
箱を開けたことで、迷宮がまた一歩“生きた”のだ。
水が新しい道を作り、空気が少しだけ暖かくなる。
呼吸が深くなる。
「……贈り物、ってことかな。」
欠片を胸のポケットにしまう。
手のひらの温度がまだ残っている。
音が脈打つたびに、心の奥が静かに響いた。
キトがぺちと叩く。
魚がその上を泳ぎ、淡く光る。
僕は微笑み、小さく拍を刻む。
トン、トン、トン。
ぺち、ぺち、ぺち。
音が重なる。
迷宮の空気が揺れる。
それだけで、今日という日が満たされていく。
⸻
帰り道、通路は最初より明るかった。
苔が新しく芽吹き、壁の奥から細い水流が走っている。
迷宮が、自分の中に“何か”を取り込んだのだ。
昨日よりも、息が深い。
昨日よりも、鼓動が近い。
キトが肩の上で眠り、魚が僕の前を導く。
光がゆらめき、音が溶けていく。
そのとき、ほんの一瞬だけ、
背中の奥で誰かの声を聞いた気がした。
――「……選んで……くれて……ありがとう。」
振り向いたけれど、誰もいない。
音も、光も、ただ静寂だけが戻っていた。
気のせい、だろうか。
それとも、箱の中の“誰か”だったのか。
どちらでもいい。
この世界では、“感じた”ことこそがすべてだ。
⸻
寝床に戻り、壁に背を預ける。
欠片が胸の奥でかすかに鳴る。
キトがぺち、魚がトン。
拍が重なり、眠気が押し寄せてくる。
迷宮が息をする音が、今日も子守唄になる。
――次の行いを選べ。
① 通常戦闘。
② イベント。
③ 休息。
その声が流れた瞬間、僕はもう目を閉じていた。
明日、何を選ぶかなんて、今は考えない。
ただ、この音を覚えていたい。
カン……カン……カン……
鐘の音が遠くで響く。
迷宮の奥で、誰かが笑っている気がした。
そして今日も――選んで、生きた。




