第4話 骨苔獣 ― 高級戦闘
静寂のなかに、水の音が混じる。
ぽたり。ぽたり。ぽたり。
昨日より音が多い。水脈が、夜のあいだに少しずつ広がったのだ。
迷宮の朝は、音で知る。
光ではなく、音。
湿気の重さで夜と昼が切り替わり、壁の苔が呼吸を変える。
苔の緑が深まり、空気がぬるくなったときが、ここの「朝」だった。
肩の上で、キトが小さく身を動かす。
ぺち、ぺち、ぺち。
あいさつの拍。彼はもう完全にそのリズムを覚え、僕の胸の拍と合わせてきた。
昨日の魚は、まだ静かに天井近くを漂っている。光の尾を引きながら、ゆっくりと回っている。その姿はまるで、夜明けを泳ぐ星だった。
けれど、空気の底に違和感がある。
湿りが濃い。鉄のような匂いが混じっていた。
水脈の流れが増したせいかもしれない。あるいは、何か別のものが――
皮膚の裏を撫でるような声が響く。
――きょうの行いを選べ。
① 通常戦闘:迷宮が呼ぶ最も近い敵と遭遇する。
② 高級戦闘:危険度高。報酬も高。
③ 休息:迷宮の静寂を受け入れ、心身を調える。
いつもと同じ三つの選択肢。
けれど、空気が違う。
同じ言葉なのに、今日の「②」が妙に重く響く。
まるで迷宮が、試すように“言葉の重さ”を変えたみたいだ。
キトが僕の頬を軽く叩いた。ぺち、ぺち。
「やめとけ」という合図にも、「行こう」という合図にも聞こえる。
けれど、僕の中で答えは決まっていた。
昨日、穏やかな光をもらった。なら今日は――
「……②、高級戦闘。」
囁きが消える。空気の流れが止まる。
迷宮の呼吸が一瞬、止まった。
次の瞬間、冷気が足元から這い上がる。
音が吸い込まれ、光が少しずつ色を失う。
キトが身を震わせ、ひれを広げる。
魚が天井で反応し、青白い光を発した。
僕の全身の毛穴が、同時に開く。
何かが――来る。
⸻
通路の奥で、音がした。
ギリ。ギリリ。ギチ。ギチチ。
金属ではない。骨の擦れる音。
風が動くたび、ぬるい胞子の匂いが漂ってくる。湿った土に血を混ぜたような臭気。
光がわずかに揺れ、通路の奥から“それ”が姿を現した。
白骨と苔が癒着したような獣。
四肢の骨がねじれ、背中から光苔が芽吹いている。
その骨を包む苔が呼吸するたび、緑の胞子が宙に散る。
空気が霧のように濁り、視界が緑に染まった。
骨苔獣――スカルモス。
迷宮の外から流れ込んだ異物が、迷宮に同化した姿。
死と生命が融合し、腐ることも終わることもできない存在。
「……高級、戦闘……って、こういうことか。」
言葉が震えた。
スカルモスが口のような穴を開き、湿った呼気を吐く。
その息に触れた瞬間、皮膚がざらりと焼けた。胞子が肌を這い、呼吸を奪う。
キトが先に動いた。
ぺち、ぺち、ぺち――三拍。
魚が光を放ち、胞子の霧を弾き飛ばす。
僕は短剣を握り、息を止めて間を詰めた。
刃を横に薙ぐ。骨が鳴る。
ギギギ――と高い悲鳴のような軋みが響き、苔が散る。
しかし傷は浅い。骨が勝手にずれて傷口を塞いだ。
苔が瞬く間に繋がり、再生していく。
強い。
普通の敵とは違う。息を吐くたびに体が重くなる。
胞子が肺を満たしていく感覚。
(まずは、呼吸を奪われる前に……!)
壁を叩いた。カン、カン。
拍を刻む。
僕のリズムに反応して、キトがぺちと音を重ねる。
魚が光の波を放つ。
光が胞子を押し返し、空気がわずかに澄んだ。
スカルモスの頭部――いや、顔のあたりの骨がひび割れる。
音に反応して、苔の動きが乱れている。
弱点は“音”。
「行くぞ……キト!」
ぺち、ぺち、ぺち。
キトの膜が膨らみ、光を帯びる。
魚が軌跡を描き、青白い線が通路を照らした。
僕はその線に合わせ、短剣を振るった。
刃が心核を狙う。
骨が防ごうとねじれる。
けれど、音が通る。刃が骨を裂くたび、音が鳴り響き、苔の根が焼ける。
ギリギリギリギィ――ッ!!
叫びにも似た骨の悲鳴。
緑の霧が弾け、視界が一瞬白くなる。
足元が滑る。
刃が抜けない。
苔が刃を絡め取っている。
「キト、今だ!」
ぺち――ッ。
高く乾いた一拍。
魚が光の球体を放つ。
光が骨の間を通り抜け、心核を照らす。
そこに――青緑の結晶。
心臓のように脈打つ苔の核。
僕は短剣を押し込み、ひねった。
バン、と乾いた爆裂音。
胞子が一斉に噴き出し、通路が霞む。
息を止め、目を閉じ、音だけを頼りに姿勢を保つ。
キトが僕の頬を叩く。ぺち、ぺち。
生きてる。
空気が澄んでいく。
静寂が戻る。
スカルモスは、崩れていた。
骨が砂のように砕け、苔が枯れていく。
中心には、淡く光る結晶――黒い欠片のようなものが残っていた。
⸻
拾い上げると、指先が震えた。
冷たいのに、脈打っている。
それは迷宮の“心音”のようにも感じられた。
囁きが響く。
――高級戦闘:完了。
生存を確認。
報酬候補を提示する。
① 武器(中級)
② 眷属強化
③ 部屋拡張(小)
キトが僕を見上げる。
ひれが少し焦げている。光の魚も、淡く色を失っていた。
みんな限界だ。
でも、戦えた。
「……①、武器。」
欠片が手の中で割れた。
骨が音を立てて形を変える。
白い刃が生成される。
刃の根元には薄い苔が付着しており、呼吸のたびに震えている。
まるで、心臓を持つ剣のようだった。
――【骨鳴りの剣】を獲得。
刃を振ると、微かに「カン」と音が鳴る。
金属ではない。骨が鳴っている。
その音は、僕の胸の拍と同じ速さだった。
キトが近寄って刃に触れる。
ぺち。ぺち。
音が共鳴する。刃の苔が光を放つ。
魚が静かに尾を揺らす。
「……ありがとう。今日も、生き残れたな。」
通路の奥で水の音が響く。
水脈がさらに伸びている。
迷宮が、少しずつ形を変えていく。
僕は剣を握りしめた。
刃の鼓動が、手のひらの中で生きている。
それが何を意味するかは分からない。
けれど、確かに――この場所は呼吸していた。
そして、僕もその一部になっていく。
⸻
夜。
水の音が子守唄のように響く。
キトは僕の肩の上で眠り、魚は天井近くで輪を描いている。
眠る直前、囁きが再び流れ込む。
――次の行いを選べ。
① 通常戦闘。
② イベント。
③ 休息。
もう、驚かない。
選ぶことが、生きること。
選ばないことが、死ぬこと。
骨鳴りの剣が、微かに音を立てた。
キトが寝言でぺちと叩く。
僕は胸の中でトン、トンと返す。
「……明日も、選ぶ。」
迷宮は眠り、僕は呼吸を合わせる。
水の音が、拍と重なる。
闇が深くなっていく。
そして今日も――生き延びた。




