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ダンジョン日記  作者: アイデア
第0章 新生ダンジョンの主「原初の3人」
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第3話 光る卵と囁き

目を覚ます。

最初に耳へ落ちてきたのは、光ではなく音だった。


ぽたり。

ぽたり……ぽた……り。


昨夜より一拍、遅い。天井の割れ目から垂れる水の間隔が半拍ぶんだけ長い。迷宮の朝は、静かな変化で始まる。

石の冷たさが背中を伝う。肩の奥がじんわりと重い。昨日の戦闘の痕跡が、まだ骨の内側に残っていた。


耳のすぐ横で、小さな音が返る。

ぺち、ぺち、ぺち。

キトだ。灯苔スプライト。昨日の報酬として生まれた小さな眷属。

彼は石を三度叩き、薄い膜をふるふると震わせた。膜が揺れるたび、空気の流れが少し変わる。


「おはよう、キト。」

囁くと、ぺち、ぺち、ぺち。

同じリズムで返ってくる。昨夜もこの三拍で眠りについた。生きていることを確かめる音。ここでは、それが「大丈夫」の合図だ。


湿った苔の匂いに、ほんの少しだけ金属のような甘さが混じっている。昨日倒した霧虫の痕跡はもうない。迷宮が夜のあいだに傷を吸い込み、呑み込んだのだ。まるで自分の皮膚を舐めて癒やす生き物のように。


皮膚の裏を撫でるように、囁きが響く。


――きょうの行いを選べ。

① 通常戦闘:迷宮が呼ぶ最も近い敵と遭遇する。

② イベント:未知の現象・存在・異物との接触。

③ 休息:迷宮の静寂を受け入れ、心身を調える。


今日も来た。選択の呼び声。

選ばなければ、何も始まらない。選ばないことは息を止めることに似ている。

僕は短く息を吐いて、キトの頭を指で撫でた。指腹の下の毛並みは、苔より少し温かい。


「今日は……②、イベントにしよう。」


囁きが消える。遠くの通路の奥で、風が鳴った。

この迷宮に風なんてない。なのに、知らない流れが生まれている。


「行こう、キト。」


立ち上がり、短剣を腰に差し、足裏で石の目地を確かめる。

キトが先にぺちと床を叩き、三歩目で僕を導いた。


通路は狭く、そして生温い。壁の苔は朝の色から昼の色へ、粉砂糖が溶けるみたいに変化していく。匂いも少しずつ変わる。湿りの中に粉のような甘さが混ざり、次に鉄の匂いが戻る。

音は吸い込まれていく。壁がふくらみ、へこみ、呼吸をしている。僕らが通ると、通路は喉の奥みたいに狭まり、またゆるむ。飲み込まれていく感覚。だが、拒まれてはいない。


「……ここ、昨日はなかった曲がり方だ。」


石の継ぎ目が新しい。迷宮は眠る間に体勢を変えるらしい。

キトが膜を震わせ、右へ飛んだ。ぺち、ぺち。二拍で止め、間を置いて、ぺち。

右、安全。彼は風の読みで道を示している。


右の通路へ滑り込み、呼吸を細く保つ。三段の拍が同じ速さで重なると、通路は機嫌がいい気がした。

風が変わった。生温い流れが、急に冷えを含む。氷の粒が皮膚の上を転がるような感覚。天井の割れ目から外風が……いや、これは内部からの冷えだ。

「イベントの、前兆か。」


キトが前に出る。ぺちと石を叩き、振り返る。来い、という合図。

通路を曲がるたび光が弱くなる。苔の光は明滅の周期を半拍伸ばし、呼吸が深くなる前触れ。迷宮が息を吸っている。

そして、見えた。

通路が広がり、円形の部屋が口を開けていた。天井の裂け目から淡い光が落ち、床は乾いた部分と濡れた部分がまだらに混ざっている。中央には、何かが浮かんでいた。


卵だった。

人の頭ほどの大きさ。透明な殻の内側で淡い光が呼吸するように脈打っている。光の筋が表面を走り、模様を増やしていく。

匂いは、遠くで温めた蜂蜜のように薄い。掌をかざすと、ぬるい熱が皮膚の裏側で広がった。

キトが膜を広げて周囲を回り、ぺちと殻を叩く。光が跳ね、卵の中の影が動く。

囁きが来た。


――イベント発動。

【孵化の間】

選択せよ。

① 見守る。

② 触れる。

③ 壊す。


「……また、選択か。」


腕を伸ばしかけて止める。触れれば起きる。壊せば終わる。見守ればどうなるか分からない。

けれど、何もしないことを選ぶのは、勇気がいる。

キトが僕を見上げ、ぺち、ぺち。二拍で止め、三拍目を待っている。

「……①、見守る。」


囁きが消え、部屋がやわらかく沈む。空気の密度が上がり、耳の奥に水が触れる感覚。天井の光が波になり、卵の周囲に集まる。

殻の表面に模様が走る。割れ目ではない。光の稲妻が表を旅する。

中で何かが打つ。トン。トン、トン。

キトがぺちと床を叩き、三拍目を刻む。

背中に冷汗が伝う。怖い。けれど、見たい。

光が膨らむ。殻の模様が強く光った瞬間、空気が反転し、割れた。

音はない。ただ圧が外れた。殻が花びらのように開き、その中心から光る影が浮かび上がる。


それは魚に似ていた。

水がない空気の中を泳ぐ。鱗はなく、透明な皮膚の内側の光が心臓の拍に合わせて明滅する。

尾を動かすたび、霧のような粒が舞う。声は出さず、光で音を作る。僕の胸の拍に遅れ、キトの拍に少し早く応じる。やがて三者の拍が揃った。


「……すごいな。」


キトがぺち、ぺち、ぺち。魚は三回光を弾ませた。

足元が湿る。乾いた床の皺に水が溜まり始めている。天井からは何も落ちてこない。石の継ぎ目から透明な筋が現れ、結ばれ、糸になり、水脈へと変わっていく。


――イベント完了。

報酬:環境変化【水脈発生】。


水が息をする。

ひび割れに沿って流れが広がり、指幅の小川になる。冷たくて、骨の芯に温かい。

キトが肩から飛び降り、水脈の上を渡り、ちょいと舌で水を舐めた。膜がぱたと鳴り、満足げに喉を鳴らす。

空気の魚は流れの上を影のように泳いだ。

壁がほっと息を吐き、苔の光が明るくなる。迷宮が満足している。

キトが靴先まで戻り、ぺちと叩く。安全の合図。

両手で水を掬い、口に含む。甘い。苔の粉のような甘さ。喉を通ると胸のざらつきが消える。呼吸が深くなる。


魚は僕とキトの周りを穏やかに回る。皮膚を羽二重で撫でられるみたいな感触。

「君は――」

言いかけてやめる。名をつけるには早い。手を差し出すと、魚は滑り込んできて光を三回弾ませた。

「……今は、まだ、いいか。」

光の線がやわらぐ。キトがぺし、と頭突きをしてくる。ぺち、ぺち(二拍)。ちがう、の合図。

僕は笑った。水の音と拍が胸の内側を広げていく。


円室を一周して罠を確かめる。苔は薄皮のようにめくれ、その下から新しい芽が出ていた。

床の皺は水脈に沿って濃くなり、砂のような沈殿が溜まり始めている。指で潰すと乾いた甘さが舌に残る。

天井の裂け目には薄い膜。光を濾す皮膚。迷宮が皮膚で光を見る。

「……イベントの部屋って、こういう仕組みなのか。」


ゲームのように選び、応じ、報酬を得る。

それが、この命がけの世界のやさしさなのかもしれない。


水脈の枝流で短剣の刃を冷やす。キトはその上で丸くなり、うとうと眠る。膜の表に水の反射が踊る。

僕は呼吸の練習をする。吸わず、吐き切って二拍待つ。三拍目で意識だけ動かす。

壁を軽く叩く。カン、カン。

キトが目を開け、ぺち、ぺち、ぺち。三拍を返して眠りに戻る。

空気の魚は天井近くで回り、トンと光を刻む。三者の拍が揃う昼は、初めてだった。


苔の光が少し深くなり、水脈の音は丸くなる。泡が一つ弾け、ぽという音。

魚の光がゆるみ、線が薄くなる。眠気。

キトが戻ってきて僕の肩に収まる。毛並みの温度が半度高い。

背を壁に預け、目を閉じる。石の震えが背骨を伝い、まぶたの裏へ。

囁きが滑り込む。


――次の行いを選べ。

① 通常戦闘。

② イベント。

③ 休息。


「……今日は、もう選ばない。」


小さく言って、目を閉じた。今選べば、夜に戦うことになる。

けれど今日は水が生まれた。キトは眠れる。魚も拍を合わせている。

この円室は夜の部屋として十分に安全だ。

囁きは無理をしない。行いは朝にまた来る。

迷宮は僕の選択に合わせて呼吸を変え、僕はその呼吸に合わせて眠る。

それでいい。

それが、この世界のやさしさだ。


眠りは浅い。けれど、怖くはない。

目を閉じたまま、音だけを聞く。

ぽたり

ぺち、ぺち、ぺち(キト)

トン

四つの音がやがて一つになる。

僕の胸の拍が重なり、眠りは深さを得る。


薄く目を開けると、苔の光は夜色に沈み、天井の裂け目から落ちる微光が霧の粒になって漂っている。魚は天井近くで静止し、キトは首の窪みで寝息を立てていた。

水脈は止まらず、細く確実に流れ続けている。

指先で水の温度を測る。昼より冷たい。迷宮の体温が夜に合わせて下がったのだろう。

明日の朝、僕はまた選ぶ。①か、②か、③か。


胸の奥で確信が灯る。

見守るも、戦うも、休むも、全部「選ぶ」練習だ。

選んで、確かめて、また選ぶ。

それだけで、今日の一日は足りている。


耳の奥に微かな音が重なる。

ぺち、ぺち、ぺち。キトの寝言。

僕は胸の内側だけでトン、トン、トンと返す。

拍が合う。それでいい。

それが、ここでの「おやすみ」だ。


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