第2話:霧虫と初日の覚醒 ― 通常戦闘
目を開けた瞬間、静寂が広がった。
音がない。
それでも世界は生きている。
壁の苔が呼吸するように光り、
滴る水の音が時間を刻むように響く。
湿った空気。冷たい石。
空間そのものが、僕の存在を測るように脈動していた。
ここは“誰かの作った場所”じゃない。
僕が“入り込んだ場所”でもない。
ただ――元からあった。
そして僕は、その中に「置かれた」。
理由も記憶もなく、けれど息をする限り、この場所は僕を見ている。
その時だった。
皮膚の裏を這うような、静かな囁きが響く。
――きょうの行いを選べ。
① 通常戦闘:迷宮が呼ぶ最も近い敵と遭遇する。
② イベント:未知の現象・存在・異物との接触。
③ 休息:迷宮の静寂を受け入れ、心身を調える。
頭の中に、選択肢が流れ込む。
声ではなく、空気そのものが言葉を作っているような感覚。
この迷宮では“選ぶこと”が生きることなのだ。
選ばなければ、何も起きない。
何も起きなければ、存在できない。
僕は息を整え、答える。
「……①、通常戦闘。」
その瞬間、世界が微かに震えた。
空気の層が崩れ、霧が流れ込む。
ひと呼吸ごとに温度が下がり、
水音が止む。
音が、消える。
――戦闘が始まった。
⸻
闇の中、青白い光が揺れた。
霧が溶けるように広がり、その中に黒い“核”が見える。
掌ほどの大きさ。
ゆっくりと脈打ちながら、空気を吸い込んでいた。
霧虫。
羽も足も持たず、ただ空気を喰らう生物。
その存在は小さく、だが“生命の敵意”に満ちていた。
一歩、踏み出す。
肺が焼ける。
空気が、薄い。
息を吸うたび、命が削られる。
霧虫は、呼吸の音に反応している。
(息を……止めるしかない。)
肺の中の空気をゆっくりと押し出し、呼吸を殺す。
その静寂の中で、僕は壁に手を置き、音を立てずに移動する。
霧虫が動かない。
音を出すか、息をすれば、それだけで襲われる。
指先で、壁の目地を軽く叩いた。
カン、カン。
核がそちらへ振れた。
小さく、だが確実に。
その隙を突いて、短剣を逆手に構え、
霧の中心――核めがけて刺す。
手応え。硬い。
氷の粒を砕くような感触が伝わる。
霧が弾け、空気が戻る。
一匹、倒した。
だが、周囲にはまだ影が揺れている。
二匹、三匹、そして四匹目。
光が乱反射し、通路全体が揺れる。
息を止め、音を操り、冷たい空気の中で動く。
指先が凍え、呼吸を欲する体を無理やり押さえつけて――
(怖い。でも、逃げない。ここで選んだんだ。僕は“戦う”って。)
音を刻む。カン、カン、カン。
霧虫たちが反応して一斉に動く。
刃を振るい、核を狙う。
冷気が腕に走り、感覚が奪われる。
けれど、その痛みが、生きている証だった。
最後の一匹を仕留めると、
世界が静かになった。
水の音が戻り、息ができる。
肺が焼けるように熱い。
けれど、それが心地よかった。
⸻
床に四つの光る結晶が残っていた。
それを手に取ると、温かい光が掌を満たす。
その瞬間、迷宮が再び囁いた。
――通常戦闘:完了。
生存を確認。
報酬候補を提示する。
① 眷属(小)
② 武器(下級)
③ 部屋(素片)
報酬。
生き残った証。
僕は、少しだけ笑った。
「……①、眷属。」
通路の隅の苔が光を帯び、膨らみ始める。
胞子が舞い、繭が形を取る。
中で青白い光が脈打ち、ゆっくりと割れた。
そこから現れたのは、
手のひらほどの小さな生き物。
濡れた苔色の毛並み。背に薄い膜。
瞳は柔らかい緑に光り、
その中心に小さな脈が走っている。
灯苔スプライト。
迷宮の光を宿す、小さな生命。
スプライトは僕を見上げ、
石をぺち、ぺち、ぺちと叩いた。
三拍。一定のリズム。
その音を聞いた瞬間、
胸の奥で何かが震えた。
あの戦いの最中――
僕は恐怖を抑えるために、壁を叩いてリズムを刻んでいた。
それが唯一、心を繋ぎとめる音だった。
“生きている”ことを、確かめるための拍。
「……その音、知ってる。」
僕は膝をつき、スプライトを覗き込む。
スプライトはもう一度、ぺち、ぺち、ぺち。
僕のリズムに応えるように叩く。
不思議と、涙がこみ上げた。
恐怖の中で必死に刻んだ“生の証”を、
この小さな存在が、同じ拍で返してくれる。
「キト。」
自然に、その音が口からこぼれた。
名前というより、音の延長。
けれどそれが、彼の存在を確かに形にした。
スプライトが喉を鳴らし、膜を震わせる。
その風が僕の頬を撫でた。
まるで、笑っているみたいに。
「……キト、か。いい名前だ。」
僕は微笑み、手を伸ばす。
キトは小さく跳ねて、その手に乗った。
その体は温かく、心臓の鼓動が伝わる。
生きている。
僕が選び、戦って、そして生き残った証。
それが、今この掌にいる。
⸻
――次の行いを選べ。
① 通常戦闘:迷宮が呼ぶ最も近い敵と遭遇する。
② イベント:未知の現象・存在・異物との接触。
③ 休息:迷宮の静寂を受け入れ、心身を調える。
キトが足元で小さく石を叩く。
ぺち、ぺち、ぺち。
僕も同じリズムで叩き返す。
音が重なり、迷宮が呼吸を始める。
「……生き残った。次も、選ぶ。」
壁の苔が光を増し、水滴が再び落ちた。
迷宮は今日も息づいている。
僕もまた、その呼吸の中で、生きている。




