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ダンジョン日記  作者: アイデア
第0章 新生ダンジョンの主「原初の3人」
23/24

第23話 狭間を踏む

 門は、石ではなかった。

 風も、水も、火も、そこにはない。あるのは、空気が薄く折れ曲がる一本の縫い目だけ――地表から斜めにのびる歪みが、周囲の色をゆっくり吸い込みながら震えている。耳の奥で海鳴りのような低い脈が続き、舌の裏に鉄と柑橘のあいだの味。


 「抵抗は……布より軽い」

 先頭のラザが斧柄で縫い目をそっと突く。

 弓手テオが一歩退き、矢羽を指先でしならせた。「音が死んでる。入れば、声が遠くなる」

 術士セラは杖の銀輪を軽く弾く。「視界の端が“遅れて”見える。狭間膜が二枚」

 盾のゴロが顎を上げた。「斜め門は帰りが面倒だ」

 白ローブのミレイユは、結び目のほどけた髪を耳にかけ、縫い目に掌を寄せる。「冷たい……でも刺さらない。向こうから、祈りを邪魔しない匂いがする」


 彼ら五人は、この近隣の都市圏ではそれなりに名が通っている。

 〈橋街ギルド〉の掲示で“銅桂上位”、浅中層の討伐と救助で実績多数。毒霧の回廊では咄嗟に布の層を重ねて肺を守り、呪壁の層を見抜いて逆順から抜けた――そんな小さな逸話が、酒場で語り草になっていた。

 強すぎるわけではない。だがいろんな目に遭って、なお整列できる。そういう強さを持った隊だ。


 「入る。順はいつも通り。俺、ゴロ、ミレイユ、セラ、テオ」

 靴底が縫い目をまたぎ、薄い膜をくぐる瞬間、世界の音が半拍だけ遅れた。空気が一枚、外へ置いていかれたみたいだ。


 向こう側は、第一回廊のはずだった。

 だがそこにあったのは、歩ける第一回廊だ。湿気は薄く、床は乾いている。光は壁の目地から均一に流れ、影が浅い。鼻を刺す腐臭も、苔のぬめりもない。足裏はすり硝子を踏むみたいに“きゅ”と鳴り、転びづらい。


 ミレイユが掌で壁を撫で、目を細める。「光が優しい。――私たちに優しい」

 セラが短く息を吐く。「片づけられた第一回廊。自然じゃない」

 テオは羽根を一本抜き、向きを正した。「歩きやすい迷宮ほど、面倒だ」


 ラザは靴底で石目を確かめ、手だけで合図を送る。

 「密度が低い。……前方、気配は三」

 「近距離に固定。増えない」テオの返事は速い。「核と護衛と……鳥?」


 広間に出ると、三つの影が待っていた。

 少年。少女。小さな鳥型。

 軽い。軽すぎる。だが背に乗る重さは、どこにも逃げなかった。


 少年が言う。「ここから先は危険だ。引き返してほしい」

 ミレイユは一歩進み、胸の前で指を重ねる。「あなたは誰」

 「この迷宮に縫いつけられた主だ」

 ラザが短く吐く。「三で“主”を名乗るのか。……生まれたてだな」

テオの口元が歪む。「核が喋る迷宮は悪い兆しだって、教本にあった」

 ミレイユは首を振った。少年の瞳に虚勢が見えない。「待って。話す余地が――」


 床の石目に、ひやりとした線が走る。

 ラザだけがそれを“合図”だと直感した。背中へ向かう空気の道が、糸のように細くなる。

 「開始だ」


 弦が低く鳴り、テオの矢が“開戦の一射”として飛ぶ。

 鳥の翼に嵌められた小さな輪が光り、目に見えない膜が矢を霧に戻した。

 すぐさま二射目――輪そのものを狙う矢筋。

 少女が刃を横に置いただけで、矢羽の片側が撫でられ、軌道がわずかに逸れる。壁で軽い音がした。

 「……嘘だろ」テオの喉に乾いた笑いが引っかかる。


 ゴロが盾を前に出す。牛革の綴じ目が、紙の耳みたいに捲れた感覚が腕に伝わる。

 「縫い目に触られた……?」

 ラザは死角から刃を差し入れる。柄を握る指先が冷たくなった。握り皮が硬くなり、返しの手が“半”で鈍る。

 少女の細い刃が握り紐だけを払う。斧は落ちない。だが、振り抜きの一秒を確実に奪われる。


 セラは足止めの術を床へ撒いた。舌が刻む詠唱、銀輪の音。石の表面に薄い水膜が張り――その上をうすい霜が走る。

「封じられた……?」

 ミレイユはようやく言語化する。歩ける第一回廊は善意ではない。こちらの動きを“読みやすくするための”平坦だ。

 「交渉は――」と言いかけた時、ラザの視線はもう前方に固定されていた。彼の仕事は踏み抜くこと。話は、勝てる時にする。


 テオの三射目は輪を避け、少女の刃そのものを狙った。矢羽は正確に刃の内側へ落ちる――落ちるはずだった。

 空気がわずかに重く、冷たくなる。

 少女の“横撫で”は、矢の羽根の“バランスだけ”を崩す。

 当たる未来が、一枚薄く剝がれ落ちた。


 テオはそこで初めて、背骨を伝う寒さを自覚する。

 “当てられない”のではない。“最後の一分が常に奪われる”。

 弓手という生き物にとって、それは剣より遅く、深く折れる刃だ。


 ゴロの足裏は噛む。だから踏める。――踏めるはずだった。

 前足だけが噛み、後ろ足がわずかに滑る。

 体幹が重いほど、わずかな空転は軸を壊す。

 露わになった腹へ、鳥の翼が杭として打ち込まれた。霜が胸板に広がり、肺の音が止む。

 ゴロは一歩も退いていないのに、一歩も進めていなかった。


 ラザは知っている。全力は形で出す。踏み切り、振り抜き、返し。いずれも“半拍”崩されていくなら、力はどこにも定着しない。

 「――セラ、許可を」

 術士は躊躇い、ミレイユを見る。

 「だめ」

 ラザが切る。「ここは会話を待つ迷宮じゃない。落とす時に落とす」


 セラは掌を爪で切った。血の印が石に落ち、霧がざわめく。

 その瞬間、空気の硬さが一段深くなる。背へ伸びていた退路の糸が、完全に千切れた感覚。

 ミレイユの胃が掴まれた。――やってはいけない線を越えた。


 テオが弦を張り直す。硬くなった弦に、霜が白い細線を描く。

 暴発。肩が逆に抜け、身体が崩れ――喉に薄い刃が入った。

 音は小さい。驚くほど小さい。

 (軽い――)テオが最後に思ったのは、自分の体重の“軽さ”。


 ゴロは吠え、盾を押し出す。

 前足が噛み、後ろ足が滑る。信じた床に、わずかに裏切られる。

 腹へ氷翼。

 巨体が膝から落ち、耳の内側の音が静かに消えた。

 (倒れていない。――進めないだけだ)彼は最後まで、下がった覚えがない。


 セラの致死術が形になりかける。最後の一画――

 少女の刃が真正面から入った。

 細い。だが通る。骨の間は、通る。

 詠の最終音は霧に吸われ、杖が石を転がる。

 (ごめん)セラは心の中でだけ呟いた。誰に、とは言えないまま。


 懐に、ラザ。

 視界の周縁に暗い輪が生まれ、手首に冷えが散る。

 それでも踏み切ることはできる。

 「前」

 筋肉が答え、刃は空を裂く。返す前――その半拍に、少女の刃が心臓の高さで止まった。

 わずかに遅れた全力が、胸の内側で空転する。

 (最後の一欠片。――あいつらは、そこだけを取り続けた)

 理解の目が、静かに閉じた。


 ミレイユは、足が動かないことに気づく。

 退ける未来は、あった。最初の声を受けた瞬間まで。

 でも今はない。セラの血印が、それを潰した。

 少年はまっすぐ見ている。悲しみでも嘲りでもなく、ただ選べない者の目で。

 「……あなたは、なぜここに」

 「ここに結び付けられた主。それが僕だ」

 「あなたには退く選択がないのね」

 「うん」


 ミレイユは、そのときやっと正体に触れた。

 (生まれたてじゃ、ない)

 (雑多を捨て、少数精鋭に編み直した迷宮。

 ――まるで、冒険者パーティのように役割で組まれた三)

 祈りの印を胸で結ぶ。指が微かに震えたが、形は崩れない。

 「せめて、痛くないように」

 少女がうなずいた。横から一度。

 痛みは、ほんとうに薄かった。


 広間は清潔なままだ。霧が血の匂いを食み、赤は縁へ押しやられていく。

 少年が小さく頭を垂れ、鳥が輪を光らせる。

 石の縁が開き、遺骸は霧に包まれて運ばれていった。


 最後に残ったのは、足裏に沈む戦いやすさの感触。

 罠ではなく、方法。

 “群れではない迷宮”――三つだけなのに、穴がない。

 少数精鋭。三で、場を握る迷宮。


 彼らはそこまで辿り着き、そして死んだ。

 名の知れた五人でさえ、ここでは“最後の一欠片”を奪われ続け、終わる。

 狭間の縫い目は、もうどこにも見えない。

 この迷宮は、門の外より静かで、門の内より正確だった。

 ――生まれたてではない。

 少数精鋭、冒険者パーティのように組まれた迷宮。

 その答えだけが、静かに残った。

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