第23話 狭間を踏む
門は、石ではなかった。
風も、水も、火も、そこにはない。あるのは、空気が薄く折れ曲がる一本の縫い目だけ――地表から斜めにのびる歪みが、周囲の色をゆっくり吸い込みながら震えている。耳の奥で海鳴りのような低い脈が続き、舌の裏に鉄と柑橘のあいだの味。
「抵抗は……布より軽い」
先頭のラザが斧柄で縫い目をそっと突く。
弓手テオが一歩退き、矢羽を指先でしならせた。「音が死んでる。入れば、声が遠くなる」
術士セラは杖の銀輪を軽く弾く。「視界の端が“遅れて”見える。狭間膜が二枚」
盾のゴロが顎を上げた。「斜め門は帰りが面倒だ」
白ローブのミレイユは、結び目のほどけた髪を耳にかけ、縫い目に掌を寄せる。「冷たい……でも刺さらない。向こうから、祈りを邪魔しない匂いがする」
彼ら五人は、この近隣の都市圏ではそれなりに名が通っている。
〈橋街ギルド〉の掲示で“銅桂上位”、浅中層の討伐と救助で実績多数。毒霧の回廊では咄嗟に布の層を重ねて肺を守り、呪壁の層を見抜いて逆順から抜けた――そんな小さな逸話が、酒場で語り草になっていた。
強すぎるわけではない。だがいろんな目に遭って、なお整列できる。そういう強さを持った隊だ。
「入る。順はいつも通り。俺、ゴロ、ミレイユ、セラ、テオ」
靴底が縫い目をまたぎ、薄い膜をくぐる瞬間、世界の音が半拍だけ遅れた。空気が一枚、外へ置いていかれたみたいだ。
向こう側は、第一回廊のはずだった。
だがそこにあったのは、歩ける第一回廊だ。湿気は薄く、床は乾いている。光は壁の目地から均一に流れ、影が浅い。鼻を刺す腐臭も、苔のぬめりもない。足裏はすり硝子を踏むみたいに“きゅ”と鳴り、転びづらい。
ミレイユが掌で壁を撫で、目を細める。「光が優しい。――私たちに優しい」
セラが短く息を吐く。「片づけられた第一回廊。自然じゃない」
テオは羽根を一本抜き、向きを正した。「歩きやすい迷宮ほど、面倒だ」
ラザは靴底で石目を確かめ、手だけで合図を送る。
「密度が低い。……前方、気配は三」
「近距離に固定。増えない」テオの返事は速い。「核と護衛と……鳥?」
広間に出ると、三つの影が待っていた。
少年。少女。小さな鳥型。
軽い。軽すぎる。だが背に乗る重さは、どこにも逃げなかった。
少年が言う。「ここから先は危険だ。引き返してほしい」
ミレイユは一歩進み、胸の前で指を重ねる。「あなたは誰」
「この迷宮に縫いつけられた主だ」
ラザが短く吐く。「三で“主”を名乗るのか。……生まれたてだな」
テオの口元が歪む。「核が喋る迷宮は悪い兆しだって、教本にあった」
ミレイユは首を振った。少年の瞳に虚勢が見えない。「待って。話す余地が――」
床の石目に、ひやりとした線が走る。
ラザだけがそれを“合図”だと直感した。背中へ向かう空気の道が、糸のように細くなる。
「開始だ」
弦が低く鳴り、テオの矢が“開戦の一射”として飛ぶ。
鳥の翼に嵌められた小さな輪が光り、目に見えない膜が矢を霧に戻した。
すぐさま二射目――輪そのものを狙う矢筋。
少女が刃を横に置いただけで、矢羽の片側が撫でられ、軌道がわずかに逸れる。壁で軽い音がした。
「……嘘だろ」テオの喉に乾いた笑いが引っかかる。
ゴロが盾を前に出す。牛革の綴じ目が、紙の耳みたいに捲れた感覚が腕に伝わる。
「縫い目に触られた……?」
ラザは死角から刃を差し入れる。柄を握る指先が冷たくなった。握り皮が硬くなり、返しの手が“半”で鈍る。
少女の細い刃が握り紐だけを払う。斧は落ちない。だが、振り抜きの一秒を確実に奪われる。
セラは足止めの術を床へ撒いた。舌が刻む詠唱、銀輪の音。石の表面に薄い水膜が張り――その上をうすい霜が走る。
「封じられた……?」
ミレイユはようやく言語化する。歩ける第一回廊は善意ではない。こちらの動きを“読みやすくするための”平坦だ。
「交渉は――」と言いかけた時、ラザの視線はもう前方に固定されていた。彼の仕事は踏み抜くこと。話は、勝てる時にする。
テオの三射目は輪を避け、少女の刃そのものを狙った。矢羽は正確に刃の内側へ落ちる――落ちるはずだった。
空気がわずかに重く、冷たくなる。
少女の“横撫で”は、矢の羽根の“バランスだけ”を崩す。
当たる未来が、一枚薄く剝がれ落ちた。
テオはそこで初めて、背骨を伝う寒さを自覚する。
“当てられない”のではない。“最後の一分が常に奪われる”。
弓手という生き物にとって、それは剣より遅く、深く折れる刃だ。
ゴロの足裏は噛む。だから踏める。――踏めるはずだった。
前足だけが噛み、後ろ足がわずかに滑る。
体幹が重いほど、わずかな空転は軸を壊す。
露わになった腹へ、鳥の翼が杭として打ち込まれた。霜が胸板に広がり、肺の音が止む。
ゴロは一歩も退いていないのに、一歩も進めていなかった。
ラザは知っている。全力は形で出す。踏み切り、振り抜き、返し。いずれも“半拍”崩されていくなら、力はどこにも定着しない。
「――セラ、許可を」
術士は躊躇い、ミレイユを見る。
「だめ」
ラザが切る。「ここは会話を待つ迷宮じゃない。落とす時に落とす」
セラは掌を爪で切った。血の印が石に落ち、霧がざわめく。
その瞬間、空気の硬さが一段深くなる。背へ伸びていた退路の糸が、完全に千切れた感覚。
ミレイユの胃が掴まれた。――やってはいけない線を越えた。
テオが弦を張り直す。硬くなった弦に、霜が白い細線を描く。
暴発。肩が逆に抜け、身体が崩れ――喉に薄い刃が入った。
音は小さい。驚くほど小さい。
(軽い――)テオが最後に思ったのは、自分の体重の“軽さ”。
ゴロは吠え、盾を押し出す。
前足が噛み、後ろ足が滑る。信じた床に、わずかに裏切られる。
腹へ氷翼。
巨体が膝から落ち、耳の内側の音が静かに消えた。
(倒れていない。――進めないだけだ)彼は最後まで、下がった覚えがない。
セラの致死術が形になりかける。最後の一画――
少女の刃が真正面から入った。
細い。だが通る。骨の間は、通る。
詠の最終音は霧に吸われ、杖が石を転がる。
(ごめん)セラは心の中でだけ呟いた。誰に、とは言えないまま。
懐に、ラザ。
視界の周縁に暗い輪が生まれ、手首に冷えが散る。
それでも踏み切ることはできる。
「前」
筋肉が答え、刃は空を裂く。返す前――その半拍に、少女の刃が心臓の高さで止まった。
わずかに遅れた全力が、胸の内側で空転する。
(最後の一欠片。――あいつらは、そこだけを取り続けた)
理解の目が、静かに閉じた。
ミレイユは、足が動かないことに気づく。
退ける未来は、あった。最初の声を受けた瞬間まで。
でも今はない。セラの血印が、それを潰した。
少年はまっすぐ見ている。悲しみでも嘲りでもなく、ただ選べない者の目で。
「……あなたは、なぜここに」
「ここに結び付けられた主。それが僕だ」
「あなたには退く選択がないのね」
「うん」
ミレイユは、そのときやっと正体に触れた。
(生まれたてじゃ、ない)
(雑多を捨て、少数精鋭に編み直した迷宮。
――まるで、冒険者パーティのように役割で組まれた三)
祈りの印を胸で結ぶ。指が微かに震えたが、形は崩れない。
「せめて、痛くないように」
少女がうなずいた。横から一度。
痛みは、ほんとうに薄かった。
広間は清潔なままだ。霧が血の匂いを食み、赤は縁へ押しやられていく。
少年が小さく頭を垂れ、鳥が輪を光らせる。
石の縁が開き、遺骸は霧に包まれて運ばれていった。
最後に残ったのは、足裏に沈む戦いやすさの感触。
罠ではなく、方法。
“群れではない迷宮”――三つだけなのに、穴がない。
少数精鋭。三で、場を握る迷宮。
彼らはそこまで辿り着き、そして死んだ。
名の知れた五人でさえ、ここでは“最後の一欠片”を奪われ続け、終わる。
狭間の縫い目は、もうどこにも見えない。
この迷宮は、門の外より静かで、門の内より正確だった。
――生まれたてではない。
少数精鋭、冒険者パーティのように組まれた迷宮。
その答えだけが、静かに残った。




