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ダンジョン日記  作者: アイデア
第0章 新生ダンジョンの主「原初の3人」
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第19話 迷宮の朝と選択-通常戦闘

目を開けると、世界はまた霧の中だった。

 湿り気が肌に張りつく。壁面を伝う雫の冷たさは、まるでこの場所が生きている証拠みたいに、一定の間隔で落ちては床に薄い輪を広げていく。光源は見えないのに、霧そのものが淡い明るさを孕んでいて、朝と呼ぶしかない静けさを作っていた。


 「……音が、しない。」

 リスフェルが囁いた。細い指で壁をそっとなぞる。

 銀灰の髪が肩先でふわりと広がり、霧の粒をからめとる。白いブラウスの襟は少し曲がって、黒いリボンが緩くほどけかけている。膝丈のスカートの裾が、息遣いに合わせてかすかに揺れた。

 長いまつ毛が伏せられ、頬に影が落ちる。灰青の瞳は澄んでいるのに、まだ世界の温度に慣れていない子どものようにおどおどしていて――それが、やけに人間らしく見えた。


 「静かすぎて、ちょっと怖いな。」僕は正直に言った。

 「ウタヤさんも、怖いんですか?」

 「うん。僕も人間だから。」

 彼女は目を瞬かせ、胸の前で指を組んだ。その指が、小さく震えているのを僕は見ないふりをした。


 キオルが肩の後ろから飛び立ち、冷気をひと筋、通路へ吐いた。空気が薄くなる。

 「ひゃっ……!」リスフェルは肩をすくめ、頬を赤くして僕を睨む。「びっくりしました……!」

 「ごめん。キオルがちょっと張り切ったみたいだ。」

 「ほんとにもう……心臓に悪いです。」

 むっと頬を膨らますしぐさが可笑しくて、つい笑ってしまう。彼女はすぐ視線を逸らし、「笑わないでください」と小声で付け足した。


 壁の奥がわずかに脈を打つみたいに明滅し、空気に淡い文字が浮かび上がる。


 ――きょうの行いを選べ。

 ① 通常戦闘:周辺の敵性存在と交戦する。

 ② イベント:未知の存在・現象との接触。

 ③ 休息:眷属の状態を整え、探索の準備をする。


 リスフェルはおそるおそる指先で光をつついた。波紋のような揺らぎが生まれ、霧が呼吸する。

 「……毎日これ、なんだかテストされてる気分です。」

 「僕たちはきっと、“生かされてる”んだろうな。」口に出してから、自分で少しだけ息を呑む。

 リスフェルは眉を寄せ、ふるふると首を振った。「……やめてください。今は、そういうの聞くと怖くなります。」

 「ごめん。でも、だからこそ、選ぼう。僕たちの意思で。」

 彼女はためらいがちに頷き、僕の袖をそっとつまんだ。「……はい。じゃあ、ちゃんと見ててくださいね。」


 「今日は――通常戦闘にしよう。」

 「えっ、いきなり!? 他の……優しそうなの、まだ……」

 「進まなきゃ、何も手に入らないだろ。」

 口にした瞬間、リスフェルがむくれて「そういう言い方、ずるいです」と小声で抗議したが、それでも拳を握り直し、揺れる視線をこちらへ戻す。「……行きます。ウタヤさんが前にいるなら。」


 ――選択確認。

 ――① 通常戦闘、開始。


 空気がきしむ。霧が奥へ引かれ、通路の影が濃く沈む。黒い殻が壁から剥がれるように、節だらけの脚が這い出た。

 六脚の甲殻獣クラックル。金属とも石ともつかぬ殻が重なり、関節から黒い液が糸を引く。湿った鉄と腐臭が混じった匂いが鼻の奥に刺さった。


 「……多い。七体。」

 「七っ!? そんな……聞いてません!」

 「大丈夫。ゆっくり、一体ずつ。」僕は手短に言い、キオルに視線を送る。小さな影が頷くように翼を揺らした。


 前列の二体が床を蹴る。低く沈み込んだ体勢から一気に跳躍して、黒い刃のような脚が迫る。

 「右の脚を狙って。崩せば、倒れる。」

 「は、はいっ!」

 リスフェルの掌に白い光が集まり、半透明の刃がするりと伸びた。恐怖で肩が上がっている。けれど、足は退かなかった。

 彼女は息を詰め、一歩だけ踏み込む。膝が震えているのに、刃の軌跡は驚くほど綺麗だった。右脚の関節に刃が触れ、殻の重なりがほどけるようにぱき、と割れる。

 体勢を崩したクラックルが床に膝をついた瞬間、黒い液が弾けて彼女の頬に散った。

 「ひゃっ……! く、くさい……!」

 「目は閉じない。肩でなく、肘から振って。」

 「む、無理……いえ、やりますっ!」


 背後の壁から、もう一体。壁面の目地を滑るように移動して、真横から食らいつこうとする。

 「左!」

 言い終わるより速く、キオルが通路を横切った。氷の羽がちらりと閃いて、敵の顎が白く凍る。

 「今!」

 リスフェルは凍結の境目に刃を入れ、薄い氷を割るみたいに喉元を断ち切った。殻の下の肉らしきものが粘って、刃に重さがまとわりつく。歯を食いしばって押し切ると、冷たい感触がするりと刃から離れた。


 四体目が天井に回り、真上から落ちてくる。

 「前へ一歩!」

 その場で跳ねても間に合わないと判断して、僕は声だけで誘導する。リスフェルは半拍遅れて踏み出す。落下地点から外れたクラックルが床に叩きつけられ、殻にひびが走った。

 「深く吸って、吐くと同時に。」

 「っ……はぁ!」

 彼女の身体が呼吸に合わせて自然に沈む。刃が低く滑って、ひびの谷間を撫でるように通り抜ける。殻の下、柔らかい核をかすめた手応え。短い痙攣のあと、動きが止まった。


 残り三。背後の二体が分かれて包囲し、最後の一体が牽制の突きを繰り返す。

 視界が黒と灰で埋まる。血と鉄と湿り気が喉に張りつき、吐き気を誘う。

 「下がると壁に挟まれる。前に出よう。キオル、足さばきを冷やして。」

 冷気が床を薄く凍らせる。クラックルの脚が滑り、ほんの一瞬、重心が上へ浮く。

 リスフェルはその“軽さ”を逃さなかった。足裏で床の凹凸を確かめるように蹴り、ミストブレード――まだ名も持たない光の刃を、斜めに、そして優しく滑らせる。

 押し切るより、置いていく。薄い刃が殻の合わせ目をすくって、ぱらぱらと鱗のように剥がれ落ちた。

 「……できてる。大丈夫。」

 「ほんとに……? わ、わたし、怖いのまだおさまらないです!」

 「怖いままでいいよ。手は止めないで。」

 「はいっ!」


 二体、三体――。

 連撃の合間、彼女の動きが少しずつ滑らかになっていくのが分かった。腰の高さ、肩の角度、足の置き方。恐怖で固まっていた筋肉がほどけ、誰かに教わったことのある人間の動きへ戻っていく。

 最後の一体が、溜めていた力を全て脚に込めて飛んだ。

 「しゃがんで、半歩後ろ!」

 リスフェルは膝を抜く。刃が床すれすれに走り、飛び越えようとした腹を斜めに切り上げた。黒い体液が広がり、霧が撥ねる。

 足音が消えた。


 静けさが戻る。

 僕は一拍、呼吸を整えてから言った。「……終わった。」

 「……ほ、ほんとに?」

 「うん。よくやった。」

 彼女はその場にへたり込み、両手で胸を押さえた。「こ、怖かった……でも、今、少し……軽いです。体が。」

 「生き残ったからだと思う。」僕はそっと笑う。「それは――悪くない感覚だ。」


 床に、淡い円が描かれる。霧が寄り集まり、薄い膜の内側で光が渦を巻く。


 ――戦闘完了。報酬を授与します。


 光がほどけ、文字が浮かぶ。

 > 【報酬入手】

 > ・眷属同調度 +3

 > ・装備アイテム:〈ミストブレード〉


 リスフェルが恐る恐る手を差し出す。光が掌に降り、ひとつの短剣に形を結んだ。

 半透明の刃。頼りないほど薄いのに、霧の明かりを吸い込んで、小さな水面みたいに揺れる。柄は手の収まりがよく、握ると体温に合わせて淡く色が変わった。


 「これ……私の?」

 「ああ。君が勝ち取った剣だ。」

 「ふふ……弱そうなのに、きれい。」

 彼女は両手でそっと抱きしめ、頬を刃に寄せる。「冷たいのに、あったかい……変な感じです。」

 「君に似てるからかも。」

 「……っ、そういうの、やめてください……」耳まで赤くして、目を逸らす。それでも、口元はほんの少し緩んでいた。


 ミストブレードを軽く振る。霧が薄く裂け、刃が空気を撫でる感触だけが手に残る。

 「音……じゃない、“手応え”が、きれい。」

 「ここで生まれた武器だからね。きっと、この場所のことをよく知ってる。」

 「へんなこと言いますね、ウタヤさん。」

 「ごめん。言葉にすると、少し怖くなるな。」

 「……でも、嫌いじゃないです。」


 僕は一歩近づき、彼女の額についた黒い汚れを親指で拭った。

 「汚れた。痛くない?」

 「だ、大丈夫です。あの……ウタヤさん。」

 「うん。」

 「今日、ちゃんと戦えてました?」

 「十分すぎるくらい。よくやったよ、リスフェル。」

 彼女は一瞬、言葉を失った顔をして――それから、こくりと小さく頷いた。「……ずるいです。そんなふうに言われたら、また頑張っちゃう。」


 霧がゆっくりと流れを変える。通路の奥で、淡い光が新しい道筋を指し示すように滲んだ。

 「戻ろうか。休むのも、進むために必要だ。」

 「はい。……次は、もう少し怖がらずに行ける気がします。」

 「怖くても、大丈夫。僕が隣にいる。」

 リスフェルはミストブレードを胸に抱え、僕の袖をちょんと摘んだ。「じゃあ、手、離さないでくださいね。」

 「うん。離さない。」


 霧の向こうで、道が静かに開いた。

 獣の残骸から立つ冷たい匂いと、新しい金属の匂い、そのどちらにも染まらない、微かな草のような清涼が漂ってくる。リスフェルの髪が揺れ、長いまつ毛が影を落とし、灰青の瞳が小さく笑った。

 小さな刃を得て、僕たちは一歩、迷宮の奥へ足を入れる。


 ――今日も選べた。

 弱い剣と、頼りない勇気と、それでも前に出るという選択を。

 それが、今の僕たちにとっての“強さ”だと思った。

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