1日目:覚醒
目を開けた瞬間、世界は冷たく、静寂に包まれていた。
石の床は冷たく、膝の裏までその冷気が伝わる。
空気は湿り、重く、吸い込むたびに肺の奥に刺さるようだ。
そして、僕は記憶を失っていた。
名前も、過去も、なぜここにいるのかも――何も思い出せない。
ただ、意識だけがそこにある。
胸の奥で、微かに震えるのは、生きる感覚だけ。
その震えが、無意識のうちに僕を動かす。
「……ここは、どこだ?」
喉を痛めながらも、声を絞り出す。
しかし、声はかすれ、すぐに闇に吸い込まれた。
立ち上がる。足を踏み出す。生きるために。
冷たい床に足を着け、一歩、また一歩。
世界は無言で、僕を拒みもせず、受け入れもせず、ただそこにある。
歩くたびに、石のひんやりとした感触が足裏に伝わり、空気の湿度が肌にまとわりつく。
呼吸を整え、目の奥に光を探す。
何も見えない。
ただ、静かな恐怖だけが、全身を包んでいた。
歩き続けること、どれほどの時間が経っただろうか。
視界の端に、淡い光の粒が漂うのを見つけた。
霧のようで、火でもなく、形を定めない光。
近づくと、それは小さな生物の群れだった。
彼らは音を立てず、漂うように宙を舞う。
羽音も足音も呼吸音もない。
それでも、存在は確かに感じられる。
匂いが鼻をかすめた。湿った土、古い紙、血のような鉄錆の香り。
心拍が速まる。
恐怖であると同時に、世界の息遣いのようでもある。
「……何だ、これは?」
手を伸ばしてみたい衝動に駆られる。
だが直感が警告する。
動けば、捕らえられる。
息を潜め、身を低くするしかない。
霧の中から、ひとつの影が現れた。
小さく、儚く、しかし異様に存在感が濃密だ。
光を帯び、揺れる身体は空気そのもののように形を変え、まるで透明な蝶が漂うかのようだ。
羽をひらめかせるたび、空気が微かに歪む。
体温を奪い、息を潜めさせる力がある。
触れれば、冷たさが皮膚を這い、血流を締め付ける。
直感が告げる――
“彼らは、息を食う者たちだ。”
僕は体を石板に押し付け、身を低くする。
霧虫は僕に気づくことなく、漂い続ける。
光は美しく、底知れず、まるで空間そのものが夢の中に沈むようだ。
その美しさに、恐怖が少しだけ混ざる。
美と恐怖は、紙一重。
この世界で生きるためには、学び、耐え、知覚するしかない。
霧虫たちが去った後、闇の中に淡い文字が浮かぶ。
それは風の囁きのようでもあり、心の奥底から響く声のようでもある。
「一息、生き延びた。小さき勇気が、影を留める。」
「恐怖を知り、身を潜めし者よ——その感覚は、次なる一歩を照らす。」
文字はやがて消えたが、体の奥に温かさが広がる。
肩の力が抜け、石の冷たさも少し和らぐ。
胸には、確かな手応え。
**“生きる力の小さな芽”**が、初めて芽吹いた瞬間だった。
僕は息を整え、震える体を抱えながらも、心の奥底に芽生えた小さな確信を抱く。
「この世界で、生き延びる……」
歩き出す。
前より少しだけ、自信を持って。
周囲は暗く、冷たく、静寂が支配している。
しかし、恐怖の中で世界を観察する目が、少しだけ冴えた。
石の床の微かな段差、空気の流れの違い、霧の動き。
すべてが、生き残るための手がかり。
身を潜めること、恐怖を感じること、観察すること。
これが、初日の学びだった。
再び光の文字が浮かぶ。
「今日、影に学ぶ者は、生き残る力を手に入れた。」
「小さき勝利は、次なる試練への灯火となる。」
それは、単なる励ましではなく、世界そのものが僕を認めた印のように感じられた。
初日の終わり。
闇が深くなるにつれ、恐怖も薄れることはない。
だが、心に芽生えた意志が、体を支える。
恐怖を知り、身を潜め、世界を観察した。
それが、生き延びるための初めての手応えだった。
霧虫たちはもう現れない。
だが、空間の隅々に潜む気配は、まだ不確かで、危険は消えていない。
僕は夜に目を閉じる。
全身の感覚が研ぎ澄まされ、体の奥に微かな力が満ちているのを感じながら。
そして、心に誓う。
「明日も、必ず生き延びる……」




