第17話 拍界交錯
――迷宮が鳴っていた。
壁の奥から響く拍動が、いつもと違う。
青白く穏やかだった光が、今日は赤黒く滲んでいる。
心臓の裏で別の命が脈打つみたいに、空気が熱を帯びていた。
「……始まるのか。」
肩の上で、キオルが羽をわずかに震わせる。
霧が脚元に集まり、冷たい風が肌を撫でた。
ただの風ではない。
迷宮が“呼んでいる”。
――きょうの行いを選べ。
① 休息
② 通常戦闘
③ 拡張試練《拍界交錯》
③だけが、血のような光で点滅していた。
拒むことはできない。
いや、拒めたとしても、この拍が止むことはないだろう。
「……行くぞ。」
言葉に出した途端、壁の拍が一拍強く鳴った。
選択が確定した。
⸻
視界が裏返る。
世界がひしゃげ、霧の奥から別の空気が流れ込む。
――拍界交錯、開始。
踏み出した先の床はぬめりを帯びていて、
壁の表面からは透明な液体が流れ落ちていた。
光は柔らかく、苔が淡く輝く。
僕の迷宮とは違う。
暖かい、そして……甘い匂いがした。
「……他の拍、か。」
キオルが鳴く。
霧の向こうに複数の気配。
それらが一斉に動き出した。
⸻
最初に現れたのは、六脚の虫。
胴が長く、節ごとに金属のような艶を持つ。
脚の先に針のような棘を生やし、壁を這いながら一斉に跳びかかってきた。
「前衛、散開。」
号令と同時に、白毛の犬たちが走る。
牙の音が連なる。
ひと噛み、骨が砕ける音。
だが数が多い。
床を埋め尽くす脚音が、まるで雨のように降り注ぐ。
剣を抜く。
金属同士が擦れ合う音。
斬った瞬間、虫の体液が飛び散り、頬に冷たく張りついた。
苦い臭気。鉄に似ている。
「……っ!」
一匹の犬が脇腹を裂かれ、低い声を漏らして倒れた。
刃で反撃。
虫の胴を切り裂き、犬の体に覆いかぶさる。
血が混ざり合い、灰色の霧に溶けて消えた。
「減ったな。」
それだけを呟き、歩を進めた。
悲しみは、まだ感じる余裕がなかった。
⸻
通路の先で、音が変わった。
低い唸り声。
黒い影が複数、床を駆けていく。
狼だ。
全身を黒鋼の鎧のような骨板で覆った群狼。
瞳は深紅。
息を吐くたびに、白い蒸気が立ち昇る。
「下がるな。囲まれるぞ。」
犬たちが低く唸り、陣を取る。
キオルの羽が開き、冷気が広がった。
霧が氷に変わる一瞬、狼たちが動いた。
速度が違う。
床を蹴り、一気に間合いを詰めてきた。
犬の一匹が背中を押されるように弾き飛ばされ、骨が砕ける音がした。
「……!」
剣を構える。
刃が火花を散らし、骨板に食い込む。
金属音のような悲鳴。
その間にも、二体目の狼が犬の首筋を噛み千切った。
血が霧に吸われて、即座に消える。
「進め。」
それだけ言って踏み込み、
刃を横に振り抜いた。
狼の頭部が飛び、壁に叩きつけられる。
残った体が震えながら崩れ落ちた。
足元の血が温かい。
それでも、僕の手は冷たかった。
⸻
「まだ続くか。」
霧の奥に別の拍。
壁の苔が淡く光り、地面が脈打つ。
蔦が生える音が聞こえた。
黒い根が床から生え出し、蛇のように伸びてくる。
キオルの冷気が走り、蔦の先を凍らせる。
だが、凍っても死なない。
蔦は壁を伝って背後に回り、犬の足を絡め取った。
「引け!」
間に合わない。
蔦が胴に絡みつき、締め上げた。
骨が軋む音。
犬は短く鳴き、光に変わって消えた。
「……行くしかない。」
自分に言い聞かせる。
もう悲しみではなく、反射だった。
⸻
残る犬は二匹。
キオルが先を見据え、翼を小刻みに揺らす。
霧が薄れ、奥に光が見える。
拍が強くなる。
違う――これは、生き物の拍だ。
「……誰かがいる。」
歩を進めると、
通路の先で、小さな影がこちらを見た。
⸻
少女だった。
肩までの髪。
泥にまみれた制服。
手に杖を握り、震えていた。
血と涙で濡れた頬を、怯えた瞳が走る。
「な、なによこれ……どこなの……!」
迷ってきた人間の声。
混乱と恐怖がそのまま滲んでいる。
「……お前、ここで何をしてる。」
「わかんない! 気づいたら文字が出て、“選べ”とか……!
変な音がして、逃げたら……ここにっ!」
拍が共鳴した。
彼女も、僕と同じ転生者。
だが、明らかに弱い。
戦う準備なんて、していない。
「……落ち着け。俺は戦う気はない。」
「た、戦う? なんでそんな……!」
その時だった。
壁が赤く光る。
迷宮の声が響いた。
――《警告:敵意未行使。拍律低下。》
――《対抗行動を取らなければ、死に至ります。》
心臓を掴まれたような痛み。
息が詰まる。
足が、勝手に前へ出た。
「……やめろ、俺は戦うつもりは――」
言い終える前に、キオルの羽が開いた。
冷気が走り、少女の眷属たちが一瞬で凍る。
ガラスのような音を立てて砕けた。
「いやあああああ!!」
少女の悲鳴が霧を裂く。
僕の喉が焼けるように痛んだ。
けれど、止まらない。
拍が背中を押してくる。
「……やめろ……やめてくれ!」
剣が動いた。
刃が走る。
光が弾ける。
少女の瞳が、驚きと恐怖で揺れた。
そのまま、霧に溶けて消えた。
⸻
――拍界交錯、終了。
――勝者:ウタヤ。
――敵層を吸収します。
霧が静まり、赤が青へと戻る。
床に、杖だけが転がっていた。
手に取ると、冷たかった。
キオルが肩に降り、羽を畳む。
「……これで、よかったのか。」
返事はない。
ただ、遠くで拍が鳴る。
別の音が混じっていた。
――《……どうして……》
かすかな声。
泣いているようで、怒っているようでもあった。
「……俺も、聞きたいよ。」
低く呟き、剣を鞘に収める。
視界の端で、壁の苔が青く瞬いた。
次の拍が、また僕を呼んでいる。
休むことも、立ち止まることも許さないように。
⸻
歩きながら、最後に倒れた犬の姿を思い出す。
目を閉じたその顔に、恐怖の色はなかった。
命令に従い、命令のまま死んだ。
彼らに“意思”が生まれるのは、もう少し先のことだろう。
「……行こう、キオル。」
返事はない。
ただ、羽音が静かに鳴った。
霧の向こう、拍が再び高鳴る。
まるで、“次”を用意しているかのように。




