第16話 拍の断層
目を覚ました瞬間、世界が揺れていた。
まるで、迷宮そのものが生き物のように身を捩っている。
壁の苔が青白い光を放ち、次の瞬間、赤に染まる。
光と影が交互に走り、呼吸と同じ周期で脈動していた。
胸の奥が熱い。
拍が、乱れている。
僕と迷宮のリズムが合わない。
昨日まで感じた一体感が、今は逆に“違和感”として押し寄せていた。
キオルが肩の上で羽を震わせる。
その音が、やけに高く響く。
まるで空気が振動しているようだった。
――きょうの行いを選べ。
① 通常戦闘
② イベント
③ 高級戦闘(危険)
その中で、③だけが異様に濃い。
黒紅の光がゆっくりと点滅し、
ひとつ点くたびに、心臓の鼓動が勝手に早くなっていく。
「……俺を、試す気か。」
迷宮の拍が、応えるように鳴った。
“選べ”と。
僕は呼吸を整え、唇を噛む。
選ばなければ進めない。
だが――進めば、確実に誰かが死ぬ。
それでも。
「③、高級戦闘。」
霧が割れた。
低い地鳴り。
耳の奥を、鈍い鼓動が叩く。
――高級戦闘ルート、起動。
――対象:断層獣。
声が終わると同時に、足元の石が崩れた。
闇の底へと引きずり込まれる感覚。
光が反転し、体が裏返る。
⸻
着地した瞬間、土ではなく“生きた壁”の上だった。
ぬめり、温度、鼓動。
全てが“呼吸している”。
通路の先から、湿った風が吹く。
腐った血と硫黄、焼けた金属の臭い。
鼻の奥が焼け、胃が軋む。
「……これが、断層か。」
壁には無数の亀裂。
ひびの間から青い光が漏れ出し、
その光が迷宮全体に伝わっているように見えた。
迷宮の“血管”。
ここが、本当に生きている証拠だ。
キオルが羽を広げ、
霧のような冷気を吐き出す。
それでもこの空気の重さは消えない。
胸を押し潰すような圧が、前方から近づいてくる。
――ズズズ……。
地面の奥から、低く響く音。
それは唸りではない。
“存在の音”だ。
「……来る。」
眷属たちが一斉に姿勢を低くする。
目を細め、爪を立て、息を潜める。
青い苔がその動きに反応し、光が消えた。
次の瞬間、闇の奥で“目”が開いた。
⸻
断層獣。
岩と肉がねじれ合ったような体。
皮膚の代わりに鉱石、筋肉の代わりに結晶。
半分が硬質、半分が腐蝕。
光る結晶の隙間から、ぬるりと赤黒い液体が流れ出す。
それが床に落ちるたび、石が焼ける。
煙が立ち、酸の匂いが鼻を刺した。
「……腐蝕系か。」
低く呟いた瞬間、視線が合った。
あの目。
人間のような“意志”がある。
そのまま、吠えた。
音ではない。
衝撃だった。
鼓膜を突き破るような低周波が体内に入り込み、
肺の空気を押し出す。
「ぐっ……!」
身体が浮く。
背中から壁に叩きつけられる。
視界が歪み、吐き気が込み上げた。
キオルが飛び、氷の霧を展開する。
ヴェス・ルガンの足元に白い靄が広がる。
霜が結晶を覆い、動きが鈍る。
「今だ、囲め!」
眷属が一斉に走り出す。
六体が左右から挟み、
牙を突き立て、脚を切り裂く。
血ではなく、黒い液体が飛び散り、
地面が泡立つ。
腐蝕液。
「離れろッ!」
叫ぶ間もなく、二体が遅れた。
液に触れた瞬間、皮膚が崩れ、
肉が霧のように散る。
消滅。
胸が跳ねた。
拍が――二つ、途絶えた。
痛い。
物理的な傷よりも、
心臓の奥を抉られるような、鋭い痛み。
「くそ……!」
剣を握る手が震える。
ヴェス・ルガンが咆哮を上げ、
背の結晶が光り、破裂。
破片が雨のように降り注ぐ。
ひとつが肩を貫いた。
視界が赤く染まる。
でも、立ち止まる暇はない。
⸻
キオルが飛び、翼を広げる。
凍気の渦が螺旋を描き、腐蝕霧を押し返す。
それでもヴェス・ルガンは止まらない。
脚を振り下ろし、地面を砕く。
床が波打ち、足元が崩れた。
僕は転倒しながらも、剣を構える。
狙うは、核。
胸の中心で脈打つ赤い鉱石。
「……そこだろ、お前の心臓は。」
ヴェス・ルガンが吠え、口を開く。
内部が光る。
腐蝕光線。
咄嗟に腕で顔を庇う。
熱風。
皮膚が焦げ、空気が裂ける。
焼けた石の匂いと鉄の味が混ざる。
視界の端で、眷属の一体が飛び込んだ。
体を盾にして光線を受け止め、
そのまま灰になった。
「……っ!」
拍が三つ、欠けた。
息をするたび、胸が痛い。
自分の命のリズムが、
“迷宮の拍”と混ざっていく。
⸻
キオルの冷気が再び広がる。
氷の蔓が床を這い、ヴェス・ルガンの脚を絡め取った。
巨体がわずかに傾く。
「キオル、もう少しだ!」
その声に反応して、翼が光る。
氷の羽が散弾のように放たれ、
結晶を削り取る。
「――今ッ!」
全身の力を込めて、剣を突き立てる。
刃が核を貫いた。
硬い抵抗。
次の瞬間、熱と光。
赤い閃光が爆ぜ、
衝撃波が空間を震わせる。
耳が聞こえない。
光の中で、巨体が崩れた。
ヴェス・ルガンの体が割れ、
中から青い霧が吹き出す。
迷宮の拍と同じ色。
巨体が沈黙し、動かなくなった。
霧が静かに漂い、やがて消える。
⸻
――戦闘終了。
――層主代理・断層獣撃破。
――報酬を開示します。
光の粒が空中に浮かび、
静かに床へと降りていく。
ひとつ、掌に乗る。
温かい。
――報酬:精核結晶(中)×1
――報酬:腐蝕核(希少)×1
――報酬:眷属連結値上昇+2
キオルが肩に降りた。
翼は焦げ、羽根の先が欠けている。
それでも、鳴き声はあった。
生きている。
眷属の残り、十。
その拍が、かすかに揺れている。
死んだ仲間たちの拍が、
迷宮の壁へと吸い込まれていく。
「……あぁ、分かったよ。こうやって、積み重ねるんだな。」
息が荒く、汗が冷たく流れる。
膝をつき、剣の柄に体を預けた。
――拍の安定を確認。
――新たな階層が開放されます。
霧の奥で、黒い通路が生まれる。
まるで血管が伸びるように、壁が割れていく。
冷たい風が吹いた。
湿った鉄の匂いが遠くで揺れる。
キオルが小さく鳴いた。
その音が、やけに静かに響いた。
僕はゆっくりと立ち上がる。
体中が痛む。
けれど、心臓は――まだ動いている。
「行くぞ。……生きているうちは、な。」
光が収束し、迷宮の拍が落ち着いた。
赤は青に戻り、壁の光が呼吸のように脈を打つ。
戦いの跡だけが、確かに残っていた。




