第11話 選んだ戦場 ― 通常戦闘
迷宮が息をしている。
その呼吸が、今日は静かに感じられた。
壁に生える苔の光が柔らかく揺れ、地脈の音も穏やか。
昨日のような混乱も、侵入者の影もない。
まるで、“選ぶ”瞬間を待っていたかのようだった。
――きょうの行いを選べ。
① 通常戦闘。
② イベント。
③ 休息。
囁きは淡々としている。
しかしその言葉を聞くだけで、胸の奥が小さく震えた。
昨日、僕は「選ばなかった」。
そして迷宮は勝手に動いた。
結果として、人間――レイが現れた。
「……もう、任せない。」
僕は短く息を吐き、選ぶ。
「①、通常戦闘。」
決めた瞬間、足元の石が低く沈んだ。
まるで“頷く”ような動き。
迷宮は受け入れ、拍が少しだけ早くなった。
通路の奥、霧の中に黒い線が生まれる。
そこが、今日の戦場。
肩の上でキトが羽を広げる。
その小さな体が、空気の震えを測るように左右に揺れた。
光魚は頭上を泳ぎ、通路の先を照らす。
光が霧を切り裂き、無数の塵が浮かぶ。
まるで空気そのものが、誰かの息の跡のようだ。
「行くぞ。」
言葉を放つと、空気が応じるように重くなる。
剣を抜く。骨鳴りの剣が空を裂き、金属にも似た鈍い光を返す。
刃の重みが掌に確かにある。
この重さは、迷宮の中でだけ実在する“現実”の証だ。
⸻
通路の先は、低い天井と複雑な分岐。
壁の一部が湿っている。
足元の石にわずかな振動。
キトが短く鳴いた。
――来る。
床のひび割れから、何かが這い出す音。
砂を舐めるようなざらついた音が、すぐ足元の下から。
次の瞬間、土が盛り上がった。
地棘獣。
黒い外骨格に覆われた、低い四足の生物。
体長は一メートルほどだが、背の棘が異様に長い。
棘の先には岩の破片のような欠片が刺さっている。
地を喰らい、骨を混ぜて形を保っているのだろう。
その顎が動くたび、石を噛む音が響く。
牙は短く、だが異様に厚い。
“切る”のではなく“砕く”ためのもの。
ウタヤは息を吸い込んだ。
喉の奥に土の匂いがまとわりつく。
腐葉と金属の混ざった臭気。
迷宮が生み出す“肉の空気”だ。
地棘獣が唸る。
その声は低く、体内の石を鳴らしているようだ。
床が波打ち、獣の影が伸びる。
距離、五間。
僕は腰を落とす。
キトが肩の上で短く跳ねた。
「来い。」
地棘獣が動いた。
地面を割るように爪が食い込み、土が弾ける。
突進――速い。
四足というより、地そのものを滑るような動き。
剣を構える。
目の前に迫る刃のような棘を避け、左へ体を傾ける。
棘の先が頬を掠め、火花と熱が走る。
反射的に踏み込み、逆手で一閃。
刃が棘を裂き、黒い液が飛ぶ。
熱い。
血ではなく、溶けた樹脂のような粘度。
体にかかると肌が焼ける。
「っ……!」
腕を引く。
焼けた皮膚が引きつる。
すぐにキトが羽を震わせ、薄膜を張る。
空気がわずかに冷える。
獣は止まらない。
傷を負った側の棘を捨てるように揺らし、
代わりに腹を地に押し付け、滑るように再び突進してくる。
壁際まで逃げ場がない。
右足を軸に、体を回す。
腰の位置を低く、剣を地面すれすれに構える。
突進に合わせて、一閃。
金属が割れる音。
棘が飛び、壁に突き刺さる。
そのまま横薙ぎにもう一撃。
外骨格の継ぎ目に手応え。
だが硬い。刃の進みが鈍い。
獣が吠える。
喉の奥の鳴動が、腹の中まで響く。
目が赤く光る。
体をねじり、尻尾を振り上げた。
「ッ……!」
避けきれない。
尾が空を裂き、身体を打つ。
背中に衝撃。
視界が一瞬白くなった。
身体が壁に叩きつけられ、肺の空気が抜ける。
膝を折る。呼吸が乱れる。
頭がくらみ、腕が痺れる。
キトが飛び回り、甲高い鳴き声を上げる。
――立て、と言っている。
「分かってる……。」
歯を食いしばり、壁を支えに立ち上がる。
膝が震える。
骨鳴りの剣を両手で握り直す。
棘が地に落ち、獣の影が歪む。
まだ動ける。
⸻
獣がまた地を掘る。
脚の筋肉が波のように蠢く。
体を沈め、地を潜ろうとしている。
逃げるか、回り込むつもりだ。
「させるか。」
足元の石を一枚蹴り上げる。
石が宙に浮いた瞬間、体重を前にかけ、
石の落ちる角度に合わせて踏み込む。
刃が地を裂き、砂が舞う。
地棘獣の顎が飛び出す――狙い通り。
その瞬間、剣を斜めに押し込み、顎をこじ開ける。
抵抗が強い。
顎の筋肉が締めつけてくる。
剣の柄を両手で押し込み、刃を横に滑らせる。
黒い液が噴き出した。
熱い。息が焦げるほど熱い。
「……おとなしく、しろ!」
叫びと同時に、獣の体が震えた。
顎の力が抜ける。
体をひねり、剣を抜く。
勢いのまま、胸を貫く。
柔らかい抵抗の奥に、硬い核を感じた。
刃がそこを砕き、熱と煙が爆ぜる。
獣が痙攣し、四肢を地に叩きつける。
やがて、動かなくなった。
⸻
静寂。
呼吸の音だけが残る。
汗が首筋を伝う。
空気が重いのに、妙に澄んでいる。
獣の体は灰へと崩れ、残ったのは光る結晶だけだった。
掌に取ると、温かい。
まるで脈を打っているかのような、わずかな震え。
「これが……報酬、か。」
指先で転がす。
光が一度だけ脈打ち、消える。
迷宮がその瞬間を記録したように、
囁きが流れる。
――報酬確認。
――同調経験を獲得。
――同調レベルが上昇しました。
光魚が上空をゆっくり回り、キトが肩へ戻る。
羽が僕の頬を撫でた。
そのぬくもりが妙に優しい。
「……やっぱり、選んでよかった。」
胸の中に、静かな達成感が残る。
戦いの重さ、痛み、呼吸――全部が今は現実の手触りだった。
迷宮の奥で、小さな変化が起きる。
壁の光がいつもより強く、
苔の影がわずかに広がっている。
そして、囁きがまた流れる。
――次の行いを選べ。
① 通常戦闘
② イベント
③ 休息
④ 強化:眷属との同調調整
新しい項目。
ウタヤは思わず息をのんだ。
「……増えたな。」
迷宮が、また一つ“意思”を見せた。
この世界は止まらない。
選ぶことが、生きること。
ウタヤは剣を背に戻し、通路の奥を見た。
血の匂いはもう消え、代わりに冷たい風が流れている。
キトが羽をたたみ、静かに鳴いた。
今日の戦いが、確かに“前へ”進めた一歩だと教えるように。




