19.王太子とミレーナの決意
広々とした学園の中庭を、冬の風が容赦なく吹き抜けていく。枝をすっかり落とした並木がきしりと鳴り、噴水の水面には薄く氷の膜が張りつつあった。
白い息がかすかに揺れる中、ミレーナと私は古い石造りの噴水の縁に並んで腰を下ろしていた。長い年月を経て角の丸くなった石は冷え切っており、背中を通して体温を奪っていく。それでも、隣で震える彼女の肩のほうが、よほど胸を痛めた。
「ああ……オレリアが、可哀想……」
掠れた声でそう言うと、ミレーナは噴水の青く沈んだ水面へ、ぽたりと涙を落とした。
水紋が広がってゆっくりと消えていくたびに、昨日の光景が私の胸にも押し寄せる。
結婚式を挙げることすら叶わず、慌ただしく国を離れた彼女の妹──オレリア。
すべては、あの噂が広まったせいだ。
くそ……ヴィクター、余計なことをしやがって!
胸の奥から、悔しさと怒りが一気にこみ上げる。ミレーナの肩を抱く腕に自然と力がこもり、彼女が小さく身じろぎした。
ミレーナの父は「噂をごまかすにはこうするしかなかった」と言った。唯一の救いは、相手が商人の血統とはいえ裕福な子爵で、なおかつオレリアを真剣に慕っていたことだろう。
……だが、そんなもので心が救われるのか?
愛に必要なのは、身分でも財でもなく、互いを想う気持ちだけのはずだ。
けれど、「これは王太子殿下とミレーナ様のためでもあります」と言われてしまえば、もう何も言い返せなかった。
オレリアが追い詰められた一因は、紛れもなく私たちにある。火種を起こし、そして外に漏れてしまった。本来、あってはならないことだ。
ミレーナは濡れたまつげを指で拭い、頬に冷たい風を受けながら私を見上げた。
「アレク様……私、これからどうすればいいのでしょう。お友達も、妹も……みんないなくなってしまいましたわ。マリアーノ侯爵令息様も留学してしまいましたし……」
その声は、かすかに震えていた。
たしかに、ここ数か月で私たちを取り巻く交友関係は一気に静かになった。
特に、マリアーノ侯爵令息ドミニク。
セレナに完敗したことは、彼にとって致命的だったのだろう。もう側近として使うことはできない。惜しい人材だったが、あれほど強く挑んで負けた以上、仕方がない。
だが──問題はそこでもある。
卒業すれば、私は王族として国を率いていく立場になる。優秀な学友たちとのつながりは不可欠だ。なのに今の私たちには、頼るべき人材が明らかに足りない。
私は静かに息を吸い、ミレーナの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「……ミレーナ。三か月後、クラス分けの前に試験があるな」
「はい……?」
涙の跡が残るまつげが、不意にぱちりと揺れて上向く。
「私たちは最終学年、Aクラスに入らなくてはならない」
ミレーナは信じられないというように目を大きく見開いた。その驚きの表情が、冬の薄曇りの下でもはっきりと見えた。
「そうだ。これまでは、優秀な者ばかりと組めば視野が狭くなると思って、あえてCクラスに甘んじてきた。だが、もうそんな悠長なことは言っていられない。我々を支えてくれる優秀な側近、信頼できる高位貴族とのつながりを、卒業までの一年でどうにか作らねばならない」
そう言うと、私は少しだけ肩をすくめ、小さく笑った。
「実は父上にも最近うるさく言われるんだ。『王族がCクラスなど聞いたことがない。御託はいいから本気を出せ』と」
「そ、そうですの……」
ミレーナは呆れたような、それでいて不安そうな瞳で私を見つめた。その視線に苦笑で返しながら、私は冷たい風にさらされていた彼女の手をそっと取る。
氷のように冷たいその手を包み込み、私は心の底で静かに誓った。もう二度と、彼女にこんな涙を流させないと。
「え、Aクラス……ですか……」
ミレーナがかすかにうわずった声を返した。その声音は風に押されるように頼りなく、私は思わず眉をひそめる。
……ん?
顔色が妙に青い。さっきまで泣いていたせいか、それとも、別に理由があるのか。
冷え込む空気が頬を刺す。ミレーナの肩は小刻みに震えていて、涙の跡がまだ乾ききっていなかった。
「なに、まだ三か月もある」
私は安心させようと、できるかぎり穏やかな声音で言葉を重ねた。自分でも驚くほど落ち着いた声が出ていたのは、きっと彼女に不安を見せたくなかったからだ。
「しばらくは学問に集中しよう。我々のクラスが離れないように、ミレーナ、君も覚悟を持って頑張ってほしい。卒業すれば、君は王太子妃になるのだから」
「わ、わかりましたわ……」
返ってきた声は、さっきよりさらに小さく震えていた。風に消えてしまいそうなほどか細い。
……大丈夫だろうか。
泣き疲れただけか、それとも無理をさせていないか。
冬の風が強く吹きつけ、ミレーナの金の髪を乱した。彼女は目を閉じ、小さく息を吸い込んだあと──ぎゅっと、私の袖をつまむように握り返してきた。
その細かな震えが、布越しでもはっきり伝わってくる。それでも、握り返す力があるというだけで、私は胸を撫で下ろした。
よかった。気力は、まだ残っている。
新たな目標に向けて、これからは本当に二人で立ち向かわなくてはならない。ミレーナを支え、守り、導く──その覚悟が自分にも必要だ。
私は腰を上げ、冷たい風を切るように立ち上がった。
王宮に戻ったら、優秀な家庭教師をすぐに手配しよう。必要とあらば教材も環境も、すべて整えてみせる。
ミレーナとともにAクラスを目指すのだ。
そう強く自分に言い聞かせながら、私は彼女の冷たい手をそっと引き、歩き出した。
冬の空気は厳しいままなのに、心の奥にだけは、かすかな熱が宿っていた。




