95 天才の君へ
クラスに、ものすごくたくさんの言葉を知っている男子がいた。あだ名はハカセ。ばっつりと切った黒髪に丸い眼鏡がよく似合う、少し低身長な子だ。聞いたことはだいたい応えてくれるけど、計算はてんでだめ。
そんなハカセに、私はあるとき質問をした。
「知らない言葉ってあるの?」
ハカセは不思議そうに首をかしげながら、「あるよ」と答えた。
「あるんだね、意外」
というと、ハカセは読んでいた本をぱたりと閉じて、改めて私に向き直った。
「あのね、僕だって最初から全て知ってるわけじゃないんだ。ただ、知っていることが多いだけ、知る機会に恵まれただけ、知ったことを覚えていられるだけなんだ。与えられたものをただこぼさないようにしているだけで、与えられていないものは僕の器には入ってこないんだ」
例えが微妙に難しくて、私は少し戸惑った。
「えっとね、人はざるのような記憶力を持っているんだ。年を取るにつれてその網目は必要な知識を捕まえられる形に編まれていくね。けど、多くの記憶は網目を通り過ぎて、ざるを濡らすだけだ。僕の場合、ざるに残る水が多い、つまり網目が細かいとか、材質が違うとかそういうものなんだと思う」
ハカセは指を組んで、網目状にして私に見せた。
「それって、どう頑張っても君みたいにいろんな言葉を覚えられないってこと?」
「さあ、少なくとも君には難しいのかも。僕ギフテッドだって言われてさ。一つのことがものすごくできるけど、それ以外は普通と変わらないんだって」
「確かに、ハカセ計算苦手だもんね」
「はは、絵もぜんぜん描けないしね。僕からしたら君の方がよっぽど才能があると思うもの」
「そう?ありがとう」
ハカセは笑いながら、次の授業の準備を始めた。
ハカセは私と同じ方向に帰る子だったので、帰路を共にすることもままあった。ある時、道に人が倒れているのを二人で見つけたことがあった。
「ハカセ、どうしよう!?」
「え、えっと、意識があるかの確認、なかったら呼吸、心拍の確認…AEDはこんな住宅街にはそうないし…」
「意識と呼吸だね!すみません、大丈夫ですか!」
ハカセが何かもだもだしていたので、私は倒れている人の意識確認のために肩を叩いた。意識はなかったが、呼吸はあったので、それをハカセに伝えようとした。
「ハカセ、息はあるよ、救急車呼んだ方がいいよね?」
「あ、うん、呼ぶにしてもどうやって…」
当時私達は校則で携帯電話を持っていなかったし、人通りのない道だったため連絡手段の確保は喫緊の課題だった。
私はとっさにすぐ近くの住宅のインターホンを鳴らし、「すみません、人が倒れているので119番をお願いできませんか?」と聞いた。幸い、その家の人はご在宅で、すぐに電話をしてくれた。
救急車が来るまでに、その家の人が出てきて倒れている人を回復体位にしてくれた。ハカセは終始もだもだとしていた。救急車がやってくるとその人は乗せられて、家の人は読んでくれてありがとうと私達を褒めてくれた。
「僕、何もできなかった」
ハカセは帰路に戻ったときにぽつりと言った。
「知ってても行動に移すってできないね。行動力ってすごいや」
「一人だったらきっとできなかったと思うよ。ハカセが手順を知ってたからそれで思い出せたし」
ハカセは地面を見つめたまま何も言わない。
「きっと、天才だけで世の中が回るなら、天才以外は淘汰されるんだよ。けど、実際はそうじゃない。倫理観とかそういうものとは違う、必要性があるんだと思う。天才は天才で伸びていけるように、凡人は凡人なりに天才を支えたり自分たちで支え合ったりしてるんだよ、きっとね」
ハカセは信号で止まった私に合わせて止まり、鼻をすすりながら言った。
「僕、天才なんて言われたくない」
「言われたくなくても、ハカセは天才だよ。今日みたいに動けなくてもさ、きっとハカセが活躍できる場所があるんだよ。それがこういう場所じゃなかっただけ。ねえ、だから、もう泣かないで」
ハカセは声を上げて泣いた。
あれからもう15年になる。ハカセがどこで何をしているか、私は知らない。




