88 敵
子供の頃、父親という存在が大嫌いだった。父は、母や妹に暴力をふるう、恐ろしい存在だった。当然僕も暴力を受けたし、暴言も受けた。父と母が離婚してからというもの、僕と妹は母の元で穏やかな生活を享受することが出来た。
それでも、それまでの地獄の日々が終わったわけではなかった。母が連れてきた恋人という存在は、妹に手を出そうとした。僕はそれを止めるべく、包丁を手に取るしかなかった。結局、相手は大けがを負っただけで事は済んだし、それを機に明るみに出た全てを知って母は彼との縁を切った。母は自分がダメ男好きなのだということをようやく自覚したと話し、もうこれ以上恋人は作らないと決意したそうだ。
それでも、父の怒号が聞こえたと思い急に目を覚ましたり、母の恋人の背中を刺した時の感触を思い出したりして吐いたりと、僕は散々な思いをした。地獄は終わっていなかった。
僕は幼かった妹より精神の傷が大きかったらしく、カウンセリングを長い間受けることとなった。そうして、僕は少しずつ普通の大人になっていった。どこにでもいる、ありきたりな青年になっていった。
ある時、大学時代のサークル仲間主導の飲み会に誘われ、僕はその誘いに乗った。一人でいるより、大勢と賑やかに過ごしていた方が気がまぎれるから。
そこで出会ったとある女性が、僕にとっての初恋だった。それまで恋というものをしたことがなかったのだと、そこで気がついた。彼女と共に過ごせたら、いや、そうでなくても彼女が自然に幸せそうに笑ってくれたらそれでいいと、そう思った。
僕は二次会を断る彼女に合わせて、一次会までで切り上げて帰ることにした。そこで、駅までは同じ道だということがわかって、僕はその道すがら彼女の連絡先を手に入れた。
彼女との距離は少しずつ縮まり、ついには同棲するまでに至った。そこで、僕は初めて自分の過去について話した。
父親に暴力を振るわれていたこと。両親が離婚した後に、殺人未遂を起こしていること。父親の愛情というものを知らないこと。
彼女は涙ながらに静かにそれを聞いてくれた。そして、僕を受け入れてくれた。
僕は彼女と生涯を共にすることにした。愛し方がわからなくても、絶対に子供に手を上げないと人生をかけて誓った。
待望の子供が生まれた時、僕は泣きながら彼女に感謝した。玉のような我が子を、どうして傷つけられるだろうか。その後ももう一人子供が生まれて、僕は姉弟の父となった。
彼らが成長していくにつれ、僕は言葉で諭すことを学んでいった。僕は子供を全力で愛し、時に注意し、子供に寄り添う努力を怠らなかった。
それでも、ある時から息子が不登校になり、引きこもりになってしまった。僕は自分の育て方に、自分たちの方針になにか不慮があったのかと思い、息子に語りかけた。息子は言った。父さんが怖い、と。父さんの言葉は、どこか恐ろしくて、たまらないのだと。僕は衝撃だった。
妻に、息子へ向けて俺の過去を全て話してほしいと頼んだ。それでももし僕が恐ろしいと思うなら、僕は家族のために別居だって考えると伝えてほしいと。
妻はそれを全て伝え、息子は泣きながらそうしてくれと言ったそうだ。そして、妻からの報告で衝撃の事実を知った。
息子は、息子の祖父を名乗る人物に、急に殴り掛かられたという。息子はその声に僕の片鱗を感じたのだという。その人物は現行犯で逮捕され、妻にその事実が伝わってはいた。だが、息子の頼みで、僕にはその情報が伝わっていなかったのだという。僕は自分の無力さを嘆いた。
僕は息子に向けて、手紙を書いた。その人が本当にお前の祖父だとしても、お前は優しい母さんの血を継いでいる。僕がどんなに恐ろしくても、僕はお前の敵にはならない。お前の為なら、お前の敵を殺すことだってできるだろう。それをしないのは、まだお前たちの成長を見ていたいからだ。
息子は数日後、部屋から出てきた。そして、震える腕で、僕を抱き締めてきた。手には、妻経由で渡ったであろう手紙がくしゃくしゃになって握られていた。
ごめん、ごめんと泣く息子に、お前が幸せになる努力をしたいとそっと伝えた。息子はやがて落ち着き、息子の口から全てを話してくれた。
僕はすぐに妻と話し、息子と祖父を名乗る人物が接触しないようになっていることの確認を取った。娘も息子も安全に暮らせるように、改めて話し合ったりした。もう、二度と被害を出したくないから。自分の様に、縮こまることしかできなかった日々を送ってほしくないから。




