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85 幻想

 それは彼と彼女にとって、幻想のひと時だった。

 彼は平凡な農夫であった。若く気力もあるが、求められるものが大きすぎる。そのくせ肝心なところでは「お前はまだ若いのだから」と踏み切らせてもらえない。彼はそれがひどく悔しかった。

 彼には最愛の妹、クリスティーネがいた。クリスは非常に愛らしい少女であった。だが、クリスは夜道に何者かに襲われて翌朝無残な姿で発見された。

 彼はそれが非常に悲しく、彼から気力という気力が抜けてしまうほどだった。彼は生活に困窮し、それでも生きていかねばならないことにひどく狼狽しながら、領主の娘に情けを施してもらおうと館へと向かうのであった。

 彼女は領主の娘であった。だが、二度も夫に先立たれ、気味が悪いと嫁の貰い先がなくなり、兄が領地を継ぐため、彼女の存在は放っておかれてしまった。そんな彼女はもう今年30になる。15で嫁に行くことが多い時代、30と言えばもう中年とも言える大年増である。

 彼女は刺激的な感情を求めながら、それでも父や兄に迷惑を掛けまいとつつましやかに生活していた。そんな中、ふと思い立って訪れた休養地で、彼女はある人物と出会う。

 それは農夫の青年であった。彼女が馬に乗って道を歩いている時、道端からひょいと飛び出してきてあやうく馬に蹴られるところだった青年である。彼は両親に先立たれ、妹を失い、もう明日生きていく気力もないのだという。それでも生きろとこの体が言うもので、パンを一つでも恵んでくれないかと言うのだった。

 彼女は青年に手を差し伸べた。なにか一つ、どんな話でもいい、心躍る物語を私に持ってきてくれたら、パンを一つ恵みましょうといった。青年はとっておきの話があると言い、彼女にそれを差し出そうとした。

 彼女はそれを手で制し、とっておきは私と今生の別れをするときに、と言った。

 青年はならばと思い、知り合いの人生をあまり飾らずに一つ話した。それは貴族の令嬢にとって実に興味深い内容であったらしく、彼女はにっこりとほほ笑みながら昼用のパンを一つ差し出した。

 それから、彼は時々彼女の前に現れて、知り合いの話、自分の話、家族の話、それから伝え聞いたことなど、他愛もない話を彼女に話した。彼女は毎度、パンをくれた。

 彼女は、彼から得た話をかいつまんで父や兄に話した。農民はこんなことで困っている、猟師はこんな悩みがある、と。すると聡明な父と兄は、これを領地のどこでも起きうる問題だと捉え、解決に動き出した。その結果、農夫の青年の暮らしもいくらかよくなり、彼は彼女に会いに行くことが減った。

 彼女は、彼と話せる時間を楽しみにしていた。だが、そんな彼女の機微を目ざとく発見した兄は、もう結婚はしないだろうと思われた妹に想い人がいると考えた。

 兄は、彼女にこういった。お前の想い人の身分が不相応なら、あと一回だけ会わせてやる。だが、それ以降はもう会おうとするな。

 彼女は泣きながら、次に青年がやってくるのを待ちわびた。そして青年がやってくると、とっておきの話をしてちょうだいと言った。青年もそれですべてを察したらしく、少し改まって話し出した。そこには二人だけの、静かな時間が流れていた。話が終わり、彼女が青年にパンを差し出すと、青年はそれを二つに割り、あなたと食べたいと言った。彼女はそれを了承し、二人は黙ってパンを食べた。

 それから後、二人は二度と会わなかった。それでも、あの幻想のひと時を思い出しては、ふ、とほほ笑むのであった。

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