47 人と人
人付き合いが苦手である。まあ滅多に合わない人や逆にそれはもうしょっちゅう顔を合わせる人とは親しくできるのだが、微妙に遠い距離間の人とは親しくなれない。
例えばバイト先の店長や同僚とか、そういうレベルの利害関係のある人とはあまり仲良くできない。なんとなく気まずさがあるのだ。
それでも私は自分から人と関わることを諦めない。諦めたくない。人と人は関わらなくては成長できない。
そうした言葉とは別に、私は人が好きでもある。人を嫌うという選択肢はだいぶ最終的なものだ。その最終選択肢にこれまで選ばれてきた人もいるが、その人にはおめでとうと皮肉を言ってあげよう。閑話休題。人を好ましいと感じるのは、博愛精神のそれである。アガペーとはわずかに異なる、英語ではフィランスラピィとかいうそれである。全ての人に平等に、偏見を持たずに接すること。初対面の人、まだ出会っていない人にはそうして話すことが礼儀だと思っているのだ。
私は全ての人をまっさらな人として初めに見る。まったきの白紙である。性善説も性悪説も私は信じていない。結局のところ私と出会うまでに構成された人格に左右されてしか人を見ない。それこそがその人を正当に評価するということだからだ。
逆に言えば、一度書き込まれた内容が変化することはない。善行も悪行も、私にとってはその人を表す行動に過ぎないのだ。この「人を表す白紙」は、出会う人一人一人に存在して、無限の大きさを持っている。私が忘れようと、その人のイメージは白紙に残っているから、その人への意識が変化することはめったにない。
私は人と出会うと最初に「この人はいい人かもしれない」と自己暗示をかける。暗示しなくては一つの悪行でイメージの転落が激しいからだ。その暗示に失敗すると、一つの小さなミスでその人への印象を悪くする。悪印象は好印象よりも記憶に残りやすいため、そうして「この人はいい人だ」と考えるのだ。
私の人付き合いにはこうしたやや面倒なプロセスが挟まるため、私は人付き合いが苦手なのだ。人付き合いには多大な労力を要する。人の顔、言ったこと、その人を表すことを様々に覚えておくことも同様だ。最初に出会う人やもうすでに覚えている人に関しては労力が少ないから、関係を持ちやすい。けれど、付き合いを始めた人は、これから覚えることが膨大すぎるので、関係が持てないのだ。
私は、人という存在を、全ての命と同様に見ている。目の前にいるのは意思の疎通ができるだけの動物であると。それは自分も同じだと思っているのだ。意思の疎通ができない命も、平等に尊いものであるし、失われるときは仕方がないものだと思っている。そこに感情は付随するが、感情的になって失われることを惜しいとは言わない。
私は人と人がつながることは自然なことだと思っている。それをどんなに拒もうと、人は人と接して初めて人になるのだろう。そうでなくては人としての他者からの価値は下がり続けるばかりだ。そこに命の尊さこそあれど、思考の優位性はない。人は誰かと思考を交わし合ってこそ接したことになる。
目の前の人を自分と対等な一人の人間として見ること。自分がそう見られているだろうと考えること。人と人は、互いに見合っているのだ。




