46 多様性
ダイバーシティだとか多様性だとか、まあ最近よく耳にするようになったな、と思う。別に推進されることは喜ぶべきことだし、異議を唱えたいなんてことはないが、曲解されないかだけ不安なのだ。
差別と区別は違う。差別は偏見を伴うが、区別は科学的根拠を伴う。女性が男性用トイレに入れないことは差別ではなく区別であるし、身体障碍者だから階段よりエレベーターを使いたいというのを無視してはいけない。
だが、そういった声を聞いたり説明をしたりすることは、多様性を増す運動ではあるが、多様性そのものにメスを入れてはいない。
ここで多様性という言葉について、別の用法について言及してみよう。
別の用法とは、生物多様性という言葉である。護岸工事で川辺や海辺をコンクリートで固めた結果減ってしまった生物多様性を、元の環境に近づけることで回復を図るという話は聞いたことがあるのではなかろうか。
生物多様性とは、一種類の生物を守ることではないし、数種類の生物を守るということではない。生物多様性に置いて、守るという言葉はあまり使われない。
生物多様性を守るとは、そこにある生態系そのものを保つことを指す。被食者が捕食者に襲われていても、我々人間は手出しをしない。捕食者を人間の手で増やしてしまった場合は責任を持って駆除する。それによって被食者が増えすぎないように、調整もする。結果的にそこにある生態系ピラミッドが正常に働くようにするだけだ。
職場や社会でも同じ事である。社会的多様性とは今まで弱者として見られていた人々を強者にすべく守る行為ではなく、弱者と強者の軛を外そうということである。
我々はどの国でもそうだが、未だに人的社会多様性は完備されていない。ましてや我が国では非常に遅れてしまっている。
人を偏見も差別もなく見るということは難しいが、その人の能力を理解して、きちんと人として対等になろうとしなくてはいけないのだ。




