36 月と人魚
優しい光が、水面を照らしていた。濡れた岩肌は、打ち寄せる波を何も言わず受け止めていた。
そこに、一人の人魚が現れた。下半身の鱗は月の光に甘く照らされ、ひれは光を一層弱めるように透けていた。
人魚はほうとため息を吐き、光をそこいらじゅうに振りまいている月を見上げた。
「おお、私の月よ、私だけのものにはならない月よ。今日もあなたは美しい」
月は何も返さない。
「わかっているのだ、あなたはただそこにあるだけだということくらい。そこで美しく光って、大地と共に眠りにつくのだ。太陽から逃げるようにその光は夜にしか見えない。海はあなたを待ちわびたように夜になると光るというのに」
人魚は涙を流せぬ自分を呪うかのように月をもう一度見て、波に沈んだ。
水面からそそぐ光の柱は、ゆらゆらとうごめきながら人魚の心をゆさぶった。人魚は自分が月に焦がれた日のことを思い出した。
海の底で生まれた人魚は、海の外、陸は人魚にとって海よりも危険であることを聞かされて育った。それでも、子供の好奇心は抑えられず、複数の人魚と共に海面まで登ったことがあった。その時はちょうど昼間で、不運なことに人間の船と行き会ってしまった。仲間が何人か捕らえられ、命からがら逃げだした。大人たちは、危険極まりない海域に出たのなら自己責任だと、怒りすらしなかった。
人魚は夜になって、再び仲間が帰ってこないかと海面に向かった。夜には人間の船が来ないと聞いていたし、夜には奇跡が起こると信じていたからだ。海面に顔を出したとき、光を与えていた月は丸かった。人魚は波でゆらめかない月を初めて見て、恋に落ちたのだ。
それからというもの、仲間を探す名目で人魚はよく海面に行くようになった。危険だろうと構わなかった。そこには命を捨ててでも会いたい相手がいるのだから。
「おお、月よ。私と共にいてくれる月よ。私は何度あなたを諦めようと思っただろうか。それができたら今こんなに苦しんでいないというのに」
人魚は深い海へ潜っていった。光の届かない、誰の手も届かない場所へ。
また別の月夜には人魚が水面に現れるだろう。もし見掛けても、声を掛けてはいけない。恋に焦がれる人魚ほど危険なものはないのだから。




