35 色眼鏡
色眼鏡でしか世を見れない人、というのはまあいるものだが、そもそも主観で生きている私達にとって、それは当たり前ではないだろうか。濃かれ薄かれ、皆色眼鏡をかけているのだ。
それとは別に、私は色眼鏡をかけているのだ。これは、物理的に色のついたメガネをかけているということである。
私は幼少期からよく頭痛を引き起こすことがあったのだが、中学生くらいになってようやくこれが「世界が眩しすぎる」ことに起因していることに気がついた。帽子を被ったり日傘をさしたりしたが、空を見ずとも道や建物を見るだけでその眩しさに目がくらむ。私は光の中で盲いた人となっていたのだ。
それを心配した親に、眼鏡のレンズを色付きにすることを提案された。校則としては何ら問題のないそれを、私はそれでも周囲の目を気にして、色の薄いものを選んだ。それが、私にとっての苦悩の始まりとも気づかずに。
私は、芸術が好きであった。作品を見ることも、作ることも好きであった。けれど、ある時から色をうまくつけられなくなっていった。もとより苦手分野ではあったもの、それがあまりにも難しく感じるため、不思議に思って目を擦ったりした。そのとき気がついたのだ。眼鏡フレームの内と外の色の違いに。
そうだ。私は色眼鏡で世界を見ているのだ。褪せた世界を見ているのだ。正しい色は私には分からない。正しい輪郭は私には分からない。歪んでいない世界は、私には分からないのだ。なんということだろう。私にとって世界を見ることは芸術を見ることと同義であるのに。芸術を見ることは世界を見ることと同義であるのに。誰一人として私と同じ世界を共有出来はしないとは。
私の世界は私だけのものとなった。それは確かに唯一無二の素晴らしいことかもしれないが、私にとっては果てしない孤独の始まりであった。
どうか、どうか、私と同じ世界を見る人よ、現れておくれでないかと、私は咽び泣いた。それは一度自覚すると無限の闇となって私を包み始めた。あの頃と同じように、昔と同じように、皆と同じ景色を見れはしないかと思いもした。それすら、自分には眩しかったことも忘れて。
私はこの目を抱えて、これからの生を送らねばならぬ。目の前に景色が広がるそれを、当たり前と思い享受してはいないだろうか。私にはまったく当たり前ではないのだ。一日安寧を生きられることを、当たり前と思ってはいないだろうか。そうでない人もいるのだ。
私はいつ目を喪うともしれない。その恐怖の中、今日も生きているのだ。目を喪うことは、私にとって美しい世界を喪うことになる。優しい世界を喪うことになる。この恐怖ですら、多くの人と分かち合うことはできないのだ。それでも、私は立ち向かわねばならぬ。今日を生きねばならぬ。いつかそれでもいいと言える日が来るまで。




