30 あの家
幼い頃、近所に洋館があった。そんな大きいものじゃなくて、ちょっと鬱蒼とした生垣というか林を抜けると、そこにちょこんとあるようなものだった。当時といったら、それこそ日本家屋は多くなかったけど、いわゆる「日本の家」がたくさんあったから、レンガ造りのその家はちょっと特別なものだった。
その家にはおばあさんが住んでいた。表札とかもなかったし、そんな田舎ってわけでもないから、大人たちですらその人の名前を知らなくて、「洋館のおばあさん」って呼んでた。小さかった俺達は、「よーかんばーさん」って呼んでて、洋館じゃなくお菓子の羊羹だと思ってたくらいだった。洋館ばあさんは、まあ会えば普通のにこやかなおばあさんで、子供に会うといつも腰につけてる小袋から瓶を取り出して、その中の金平糖をくれたりした。
俺は一回だけ、その洋館に入ったことがある。学校が休みの日に一人で外で遊んでたら、ついこの前廃線になったバスを待ってる洋館ばあさんがいて、「ここちょっと前にバス来なくなったよ」と言うと、「あらそうなの、どうしようかしら、家までは歩いていけなくもないけど」と困った顔をした。地面には近くのスーパーで買ってきたと思われる大きな袋が置かれていた。
「これ持ってけばいいの?俺持つよ」と俺が言うと、洋館ばあさんは申し訳なさそうにした。けど、その時は携帯も誰しもが持ってるもんじゃなくて、タクシーを呼ぶこともできなかったもんだから、仕方なく洋館ばあさんも俺に荷物を持たせてくれた。
そうして少し上る道を二人で登って、洋館の前まで来たとき、「どうせなら上がっていきなさいな」と言われたので、俺は荷物を持ったまま洋館に入った。
俺は洋館ばあさんの後を追いかけながら珍しい洋館を見ていた。玄関には小振りながらも上品なシャンデリアがあって、靴を脱ぐところはなくて、そのままあがっていいわよと言われた。廊下には小さな棚があって、当時主流だった固定電話と小さな家族写真が置かれていた。時間は昼下がりと言ったところで、庭が良く見える部屋には日差しが入っていた。寒かったでしょう、と洋館ばあさんが差し出してくれたホットココアは、少し苦くておいしかった。
この前久しぶりに実家に帰った折、洋館ばあさんについて母に聞いた。母いわく、洋館ばあさんは十年ほど前に亡くなったそうで、あの家も五年ほど前には取り壊されたそうだ。そうか、そうだよなぁ、といった感情しか湧いてこなかった。思い出の縁が一つ消えてしまったようで悲しいけれど、そこまで深い悲しみではない。
それでも、俺は時々あの洋館のある風景を思い出す。あの家のある、洋館ばあさんのいる町を。




