25 ラーメン
俺は嫌気がさしていた。仕事がブラックだからだ。朝早くに出勤して、始業時間前に前日終わらなかった仕事を終わらせるのが当たり前。休憩時間は飯を食う時間だけで、少しでも超過すれば煙臭い上司に詰められる。たばこを吸わない俺には不要なタバコ休憩だが、それだけやたら長い上司に怒られるわけだ。残業だって当然毎日のようにあるし、役職持ちはさっさと帰る。夜遅くに平社員が集まってパソコンを打つ音だけが響くオフィスで、俺は限界を感じていた。
「あー…もう嫌だ…」
「辞める気か?頑張れよ、応援する」
「お前らはまだ戦う気か」
「いまさらどこにも行けないからな」
同僚たちは死んだ魚の目でそう言う。一応程度に卒業した大学も、社会に出てから何かの役に立ったかといえば、この会社ではなんにもない。他の会社なら違うんだろうか。知らない。とりあえず3年、と言われたから3年いてみたが、気がつけば30代になって、転職に不安を覚えるようになってしまった。
「…俺は辞める。転職届だけ置いて蒸発してやる。引継ぎだけは残してやる」
「お前優しいな。俺達のこと考えてくれてありがとうな。ここで腐らないうちに、早く退職しろ」
同僚の言葉に涙ぐみながら、俺は一人オフィスに残って転職届を書いた。
ピピピという音で目が覚める。俺は寝ぼけながらもそりと起き上がるが、昨日、というか今朝退職届を上司の机に置いてきたことを思い出した。夢も見ないくらい深く眠る毎日だから、あれは夢ではない。昨日会社を出て電車に乗ったところまでは覚えている、だからちゃんと事実だ。家に帰りついたところの記憶はない。
さて、しばらくの間求職期間だ。幸い貯金は独り身なこともありそこそこある。無職になったらまずすべきことはなんなんだろうか。調べる間もなく辞めてしまったから、なにをすべきかわからない。とりあえず腹が減ったので、朝食を食べよう。がぱりと開けた冷蔵庫には、なにもない。そういえばここ最近の朝食といえば、ゼリー飲料ばかりだった。せっかく時間があるなら、まともな食事がしたい。
思い立ったが吉日、俺は着替えて財布を掴んで家を出た。
久しぶりに朝日に照らされた街を見た。朝日が出る前に家を出ているのが常だから、太陽に温められた空気が新鮮だ。引っ越してからまともに見て回っていない街を、ぶらりと歩くことにした。
すると、住宅街の店舗住宅の1階で、シャッターを開けている老婦人に出会った。
「あの、ここって何屋なんですか」
「ここ?ここはラーメン屋。これから開店だよ。ちょっと早いけど入る?」
「ラーメン…」
ラーメンは好きだ。特に味噌が大好物だったが、最近じゃめったに食べていない。それならばと入れさせてもらうことにした。
「注文は?」
「味噌、ありますか」
「あるよぉ。あんたうちは初めてかい」
「はい…ラーメン屋なんて久しぶりです」
「そうかい。老人二人でやってる店だから、若い人は来ないけど、あんたくらいの年の人はおおいのよ。あんたー!味噌入ったよー!」
店の奥から「ほーい」と声が聞こえる。男の声だから、老婦人の旦那さんだろうか。ほどなくして、湯気の立つラーメンが男性によって運ばれてきた。
「ほら、味噌ラーメン。初めての人の口に合うかねぇ」
俺は備え付けの割りばしをぱきんと割って、手を合わせて麺をすすった。温かい。ちょうどいいしょっぱさだ。香りもすばらしい。なんだか、視界がゆがむ。
「あらま、どうしたの?あんた泣いてるよ」
俺は泣いていた。誰かにこの感情を言いたくて、むせび泣きながら老夫婦に言った。
「俺、会社辞めたんです。酷い会社で。ずっとこんなおいしいもの食べてなくて。あったかくて…」
「…あらまあ。あんた、がんばったねぇ。本当に頑張ったから、こんなラーメンでおいしいなんて言っちゃうんだよ。少し休んでもなんも問題ないよ」
老婦人の、少し震える手が俺の背中を撫でた。俺はこの味を一生忘れないだろう。
それから数年。俺はあのときのラーメン屋で働いている。昔ながらの味のまま、町の人と話し合うようにラーメンを提供する。最近はスープ作りも任せられるようになってきた。
あのときの俺と同じような人が現れたら、俺はいつだって店を開けるつもりだ。あの温かさを、誰かに分け与えられる人になりたい。そう思って今日もシャッターを開けるのだ。




