2 名前
野良猫がいた。住んでいるところや柄などはご想像にお任せする。野良猫は毎日気ままにスリリングに暮らしていた。どんな生活かも、ご想像にお任せしよう。
野良猫には、名前がなかった。名前などなくても暮らせるし、あったところで意味がなかったからだ。野良猫はそれで満足していた。
野良猫には友人が多くいた。毎日のようになわばりを巡回していると、あたりまえのように声をかけてくる人々がいる。彼らには様々な名前で呼ばれるが、野良猫はそのどれもを自分の名前だと思ったことはない。野良猫にとっては、自分が生きていることだけが重要だったのだ。
ある日のこと。野良猫はいつものようになわばりを巡回していた。そこに、見慣れない光景が見えた。大きな荷物を運ぶ人々と、傍らでそれを眺める車いすの少女。野良猫は「ああ、ヒッコシとかいうやつか」と思った。少女を見掛けたことはないから、きっと新しく引っ越してきた人だろう。野良猫の巡回に声をかける人々にその少女が加わるだけかもしれない。野良猫はそう思いながら、その道を通り過ぎた。
それから、野良猫が巡回するたびに、その家の前で少女が日向ぼっこをしているのを見掛けるようになった。雨の日は野良猫も巡回をしないので、少女を見ることはなかった。少女は、野良猫を見掛けても声をかけてはこなかった。野良猫はそれを少し不思議に思った。目があったら何か言ってくるのが人間だと思っていた。時にはなにか食べ物をくれたりもする。それが当たり前だったのだから、不思議に思うのも当然のことだった。
それを不思議に思うようになってから、野良猫は少女をじっくりと眺めるようになった。少女は野良猫を見掛けると優しく微笑んだが、話しかけてはこない。野良猫が鳴き掛けても、嬉しそうに微笑んでいるだけだ。野良猫が近づいても、興味深そうに眺めてくるだけ。野良猫は次第に少女に対する興味を失っていった。
野良猫は変わらずになわばりを巡回する日々を送った。時々隣のなわばりが空白になったり、新参者がやってきたりしたが、それでも野良猫の日常に大した変化はなかった。
野良猫はふと、少女を見掛けなくなっていることに気がついた。それは八百屋のおばさんがある日を境にぱったりと見なくなるように、突然のことだった。野良猫は少女がどこかへ行ってしまったのだろうかとぼんやり思った。
それからそう時を置かず、野良猫が巡回中に寝転んで毛づくろいをしていた時のこと。
「あの家のお嬢さん、亡くなったんですって」
「えぇ?あの声を出せない子?」
「そうそう。ここいらを回ってるノラちゃんも気にかけてたじゃない?」
「そうよね、微笑ましかったわ」
「あの子、なんとかいう病気だったんですって」
そんな会話が聞こえてきた。野良猫は「ふぅん、あの娘、死んだのか」と思った。そこになんの感慨もなかったが、ただ一つ、気になることがあった。
「あの娘が喋ることができたなら、自分のことを何と呼んだだろう」
野良猫はその空白の名前を反芻した。もう二度と呼ばれることのない、ありもしない名前を。まるで自分のようだなどと思いながら、猫は今日もなわばりを巡回する。




