妻を起こす0個の方法
ぐっすり眠っている妻を遠方から起こす。この難ミッションを、君はクリアできるだろうか。
2024年 宿泊出張に行った時のお話
出張に行くことになったのだった。
仕事上、私には宿泊を伴う出張(その必要性には疑問を抱かざるを得ないのだが)が発生する。その度に妻には抱きつかれ、泣きそうな顔で「行かないで……」などといじらしい言葉をかけられることになるのだが、だからと言ってそんな理由で仕事をキャンセルできるほど社会人は甘くはないのだった。
こうして私はそのような事態に陥るたび、涙声の妻を説得する必要に迫られることになるのだ。
「俺も離れたくはないんだけどお仕事だからさ、行ってくるよ。第一仕事で自分の役割も果たせないような男、君だって好きになれないだろ?」
「そうだけど……女と会ったりしない?」
「いや男ばっかりだしそんな相手いないから。普段の俺を見てれば分かるじゃん、女の影なんてまったく感じないだろ?」
「だって出張先で声をかけられるかもしれないでしょ?」
「いや俺だよ俺。全然美男子じゃない俺だよ? しかも若くもない俺だよ? 今までの人生でモテたことなんかない俺だし、声をかけられたことなんかもない俺だよ?」
なぜ私は、こんなに自分を貶める必要があるのだろう。
「そんなことないよ、あなたカッコいいんだから」
「いや俺のこれまでの寂しい半生を知ったら君なんか泣いちゃうに違いないよ。女性との縁なんて皆無なんだから。学生の頃に『仏教くん』なんて呼ばれてた俺がモテると思う? 仏教くんだよ? モテ要素なんてゼロだからね。これまでもそうだし、これからだって、そりゃもうずっと」
……自分で言ってて泣けてきた。
「……キャバクラとか誘われても行かないでね」
「誘われたって行くわけないだろ、疲れるだけだし。懇親会はあるけど、それが終わったらすぐにホテルに直行だよ」
「じゃあホテルについたらすぐ電話してくれる?」
「懇親会が終わったら電話するよ」
さてここまでの流れから、私の妻が嫉妬深くはあるものの、夫を愛する可愛くつつましい女だと思うだろうか。そうではない。私が女に会う心配が消えると妻は自分の食事の心配をし始めた。
「じゃあその日は実家に行ってご飯食べてこようかなぁ~」
そうそう、妻は料理が得意ではなく、我が家の食事は90%以上私が供給しているのだ。ってまてよ、「行かないで」ってコックが居なくなることの不安だったのかよ。
「あ、モーニングコールかけてね、お願いね」
そうそう、妻は朝起きるのがとんでもなく弱く、スマホが鳴ったくらいではピクリとも動かないのだ。ってまてよ、「行かないで」って目覚まし時計が居なくなることの不安だったのかよ。
「洗濯物もたまっちゃうね~」
いや洗濯機くらいは自分で回せ。
ここで誤解があるかもしれないので一言加えるならば、妻はフルタイムで働いており、その仕事内容はかなりハードである。家を出る時間も帰る時間も私の方が余裕があるため、私が家事を行っているにすぎない。それが妻の家事修行を遠ざけているといえばそうなのだがまあそれは置いておこう。
食事はいい。実家で食べようが外食しようが構わない。だがモーニングコール、これが問題だった。
だいたいスマホが耳元でガンガン鳴っているのにピクリともしないやつが、モーニングコールごときで起きれると思っているのか。違いといえば、目覚ましとは違う着信音が流れることくらいだ。
私はしばしばこの問題に悩まされてきた。一度など匙を投げて「実家に泊まってこい」と言ったこともあるくらいだ。義母はその話を聞くと「そんなの旦那さんに起こしてもらえばいいじゃない」などと至極まっとうな返事を返してくるのだが、あなたの娘がどんなに寝起きが悪いか知らないとは言わせない。
そうして実家に泊まってもらった前回、慣れない環境だからなのか、私がいない不安からなのか、部屋がカビ臭かったからなのか(もう泊りたくないと言っていた)、妻は私より早く起きて電話をかけてきたのだった。
おお! やればできるじゃないか! この調子なら今後は家で寝ていても楽に起こせそうだ。
そう思った今回の出張。
【午前6:30】
そろそろ電話をするか。昨日はすれ違いでほとんどしゃべることもできなかったが夜は実家で食べたようだ。最近ことに忙しくしていたから、睡眠時間の確保のためにも寝かせてやりたいが、そろそろ起きないと朝ご飯を食べることができないだろう。
……それにしても出やしねぇ。が、しかしこんなことは想定内だ。再コール。着信音を変えた方か良いかと思い、LINE電話、通常電話と切り替えてかけるものの全く反応なし。うん、でもまだ時間はあるし、連続して着信音が鳴るよりも一度静かな時間をつくった方が起きやすいんじゃあないだろうか。
とりあえず朝ごはんでも食べながら考えよう。
【6:40】
いつもなら食事に起こす時間だ。コールするもやはり応答なし。どんなに遅くとも7:30には家を出なければ遅刻は決定だ。つまり準備を含めて最終ラインは7:15。それまでには起きてくれよ。
【6:50】
やはり応答する気配もない。自分の無力さをかみしめる。これ、本当に起きるのだろうか。不安になってくる。
そうだ、電話の「留守番電話サービス」ってそのまま相手に聞こえるんじゃあないのか? 留守電サービスで呼びかけてみよう……反応なし。いやいや、声が小さかっただろうか。しかしここはビジネスホテル、大声で「起きろー」なんて言ったら隣の部屋に大迷惑だ。とりあえずユニットバスで布団かぶって叫んでみよう。
【7:00】
どうする? そろそろ起きないと本格的にマズイ。私も7:30にはホテルをチェックアウトするつもりなのだが、それまでに起きなかったらどうしよう。ああ、義母に起こしてくれるよう頼んでおくべきだった。いやあああ、起きてくれぇ! 電話とLINE電話と留守電録音をひたすら繰り返す。
【7:10】
もうダメだ。義母に電話するべきだろうか? しかし親連絡って……社会人としてこんなにだらしないところを親に知られるのと遅刻するのでは、どっちの方がダメージが少ないだろうか。くっ……不安で気分が悪くなってきた。どうする? どうする? 何かほかに打てる手は……くっ、何もねぇ!
【7:20】
突然妻から電話がかかってきた。
「おはよー!」
ナニソノ無駄な元気。
「起きたの? もうギリギリだよ! 間に合うのっ!?」
「うん? 今車に乗って出るところ」
え、どういうこと? 今までの50分間に電話を29本、LINE電話を29本、留守電録音を5件入れているんだが。
「えっ、ごめ~ん。昨日『泊っていけ』って言われて実家に泊まったの」
言えよ! 夜の間に言っとけよ! 私の不安を返せよ! っていうか起きてたんなら電話に出ろよ!
「でも電話鳴ったかな~、聞こえなかったんだけどな~」
家に帰った後、妻のスマホを調べると『おやすみモード』が設定されていた。安眠のために音を消すスマホの機能だ。なんだよ、鳴らなかったのかよ! 私の苦労はいったい……。
***
後日、買い物に出かけた車の中で、突然私の声がこだました。
「起きろー! 7:15だぞー! 今起きなきゃ遅刻するぞー! すぐ起きろ今起きろ! 頼むから起きてくれぇぇぇ!」
まてまてまて! それはあの時の留守電じゃあないか! 妻のやつ、何を再生していやがる。いや笑い事じゃあない、すぐ消せ今消せ、直ちにその音声を消してくれ!
「7:10だぞー、起きろー、聞こえてるかー? 起ーきーろーー!」
ぎゃーーっ、やめろ! 妻のやつ、私が運転中なのをいいことに2本目の再生を始めやがった! まさか録音されている5つの留守電を全て再生する気か? 5分はあるんだぞ、5分と言えば私が恥ずかしさで悶え死ぬには十分な時間だぞ。
「6:50だよ~、そろそろ起きて~。ご飯食べる時間なくなるよ~」
妻が爆笑しているが全く笑えない。いきなり拷問部屋と化したこの車内から一刻も早く脱出したい。
「しょうがないだろ起きないんだから俺がどんだけ焦って必死だったか分かるかホテルの中で周りの迷惑も顧みず大声出したんだぞそれでも全く応答がない不安を少しでも分かってくれたなら少しは自分で起きる努力をしろよなぁ~っていうかいい加減にそれを止めて消してくれぇ~」
私は自分の心を守るために大声で叫ぶことしかできなかった。
「起きてぇ~!」
「消してぇ~!」
私の悲痛な叫びが2重になって車内に響く。もう2度と聞きたくない汚いハーモニーだった。もう起きなくてもいい。っていうかもう二度とモーニングコールなんかしてやるもんかあぁ~!