『火炎』
セシリーにここに至るまでの事情を説明するのに、いくらかの時間を要した。
意識がはっきりしてきたセシリーは、話が進むにつれて次第に顔が蒼ざめていった。自分を救出するために本来無関係である永遠たちが無茶をしたと知ったからだ。
セシリーは地面に額を擦りつけるほどの勢いで頭を下げた。
「ご迷惑をおかけして本当に申し訳ございません。このお礼はどうやって返せばいいのか……」
「いや、そこまでしなくても……」
「言っちゃなんだけど元々はジャイルズが悪いからね?」
晶葉が無遠慮に言うと、ジャイルズは反省するように縮こまった。
「すまねえセシリー……こんなことに巻き込んじまって」
「その話はまた落ち着いてから話しましょう。ラドリーとマフールはどうしました?」
「そっちはシーリアさんに任せてる。多分もう外の出張所まで連行したんじゃない? ここのことも眼を通じて把握しているだろうから、もうすぐ来ると思うよ」
歩はそう言って宙に浮く『千里眼』で生み出されたシーリアの分身を見やった。
「とりあえずここを出ようか。早く医者に診てもらった方がいいよ」
「そうだね。あー、ほんと疲れた」
一二三の提案に、皆が同意した。
真夏を先頭に一人また一人と研究室の出入口へ向けて歩いていく。セシリーは弱っているので、バハロスの背にくくりつけ運ぶことになった。ゆったりと歩くバハロスに、ジャイルズとローニャが付き添う。
永遠も大きく息を吐いて立ち上がろうとする。そこで彼は杏樹が座り込んだままであることに気づいた。
「水城さん?」
永遠が気になって声をかけると、杏樹は恥ずかしそうに目を逸らした。
「……ごめんなさい。『聖痕』をフルに使ったせいか足腰が立たなくて。すみませんが引っ張ってくれませんか?」
「え? ああ」
永遠は杏樹の腕を握る。かつては柔らかった腕の筋肉は訓練の末に引き締まっていた。
「ありがとうございます」
杏樹は自分の腕を握る永遠の手を見つめた。同年代の男子が腕を掴んでいるというシチュエーションを体験するのは今回が初めてだった。杏樹の頬がさらに赤くなる。
永遠の方も恥ずかしさが込み上げてきていた。女子の腕を引っ張り上げるなど初めてのことだ。こういうときはどうすれば失礼がないか彼の知識の中にはなかった。
「二人とも早く行かない?」
二人の様子を眺めていた歩が、呆れた調子で言った。
施設の外に出ると、生暖かい風が肌を撫でた。
「外の空気が気持ちいい……」晶葉が深呼吸をする。
「シーリアさんたちは?」
「まだ来てないみたい」
真夏と一二三が辺りを見回すが、人の姿も魔物の姿もなかった。
「ジャイルズ、近くに反応はあるか?」
永遠はジャイルズに問いかけた。外に出れば『生命探知』は問題なく発動できる。
「待ってろ。ええと、この近くには――ん?」
周囲にいる生命体の数を確認しようとスキルを発動したジャイルズは、喋っている最中に突然動きを止めた。
「ジャイルズ、どうした?」永遠が不思議に思って訊ねる。
「……今『生命探知』の範囲に何かが入ってきた」
「シーリアさんが来たの?」
「違う」
ジャイルズは歩の言葉に否定を示した。
「人間の反応じゃない。この大きさ――これは――」
「え、どうしたっていうのよ」
ただならぬ表情を見せるジャイルズに、晶葉は不安に駆られた。
ジャイルズが何を言おうとしているか。その答えはすぐに明らかとなった。
建物の隙間を縫うように現れた巨体。まるで洪水が押し寄せてきたかと錯覚するような光景。それは半透明の瑞々しい体を持つ魔物が滑り込むようにして現れた証だった。
「嘘……」
真夏が思わず言葉を零した。彼女だけではなく皆が同じ気持ちだった。
彼らの前に現れた魔物は、つい先程彼らが討伐したものと同じ種類だったからだ。
「ミズヌシ……」
杏樹が呟いた。それに応えるようにミズヌシが体を動かす。
「なんで? まさか生きてたっていうの?」
晶葉はミズヌシが杏樹の攻撃を逃れて生き延びたと考えた。
だが、レイチェルがそれを否定した。
「違います。これは先程の個体とは別です」
レイチェルは溜息を吐く。
「ああ、私としたことがこんな単純な可能性を見落としていたなんて……ミズヌシは複数体いた。真っ先に思いつくべきでした」
複数、という言葉に幾人かがはっとした。
「複数? どういうこと?」
まだ理解が及んでいない晶葉が首を傾げる。
「ミズヌシが“住み替え”した原因はまだわかりませんが、恐らくラドリーとマフールが何かしたのは間違いないでしょう。ですが、この層へ下りてきたミズヌシは一体だけではなかったんです。もし、ミズヌシを引き寄せる何かがあったとするなら、複数体下りてきたとしても不思議ではありません」
レイチェルは荒っぽく息を吐いた。
「目立った被害が出ていなかったから一体しかいない前提で話を進めてしまいましたね。すぐに警戒すべきでした。迷宮はしばらくの間封鎖されていたのに、妙に魔物の数が少ないと思っていたんです。ミズヌシが他にもいて魔物を捕食していたからですね。
あのミズヌシは私たちが冥樹の内部に突入した時は、外に出ていたみたいですね。もし中で鉢合わせていたら面倒なことになっていました」
「どうするのこれ?」
歩がミズヌシを見据えながら言った。
「あれも変種かな?」真夏が訊ねると、レイチェルは首を振った。「恐らくですが違うでしょう。最も通常個体でも今の戦力を考えれば正面戦闘を避けるべきです」
バハロスは上層の魔物だが、ミズヌシ相手には相性が悪い。近接戦闘に優れた杏樹は全力を出した反動で戦える状態ではない。
「流石にここは逃げるしかないかな」と、一二三が言った。「走って逃げられる速さかな? 変種じゃないならあんまり速くないんだよね?」
「それでもここから休憩地点まで逃げるのは厳しいでしょうね。なにより途中で他の探索者を巻き込む危険性があります」
レイチェルは渋い顔をした。
「この人数でバハロスに乗るのは厳しいですね」
杏樹はバハロスに乗って離脱することも考えたが、当初より人数が増えた状況では難しいと判断した。
因幡は腕を組んだ。「さて、どうするか。応援が駆けつけるまで持ち堪えることさえできれば生き延びる目はあるが」
いずれシーリアが応援を連れて駆けつけるはずだ。問題はそれがいつになるかだ。たとえそれが五分後であったとしても、その間ミズヌシ相手に凌げる保証はない。ならば、他の探索者を巻き込む危険を冒してても逃走を選択すべきか。
ミズヌシは彼らが決断するまで待ってくれなかった。ゲル状の巨体を引き摺るようにして徐々に迫ってくる。
ローニャは叫んだ。「ジャイルズ、誰か近づいてくる人はいないの? シーリアさんの反応は?」
ジャイルズは『生命探知』に意識を移した。
「待て、急かすな。ええと――あ」
またしてもジャイルズは言葉を途切れさせた。
「どうしたの?」
「一人こっちに向かってきてる」
ジャイルズはローニャに答えた。
「一人?」
シーリアは《鋼鉄拳》を連れてやって来るはずだ。
それが一人だけ?
「なんかえらい速さで近づいてくるけど……」
ジャイルズは困惑した様子だ。彼の感覚の中に飛び込んできたたった一つの気配は、とんでもない速さで接近しつつあった。そして、ジャイルズはその反応に憶えがあった。
地を蹴る音が鳴る。永遠たちは反射的にそちらを向いた。
彼らの目に、空に舞う人影が映る。
小さな体躯。金色の耳と尾。紫色のローブ。
永遠たちより一回りも二回りも小さい女は地面に降り立つと、彼らを見て笑った。
「あんたたち、よく生きていたわね」
「リジーさん!」
リジー・フォックスは期待通りの反応を返されて、思わずにやけそうになるのを必死で堪えた。
「なんでリジーさんが?」真夏が不思議そうな表情を見せる。
「“守護者の家”に行ったらあんたたちがここへ向かったって聞いたから、ちょっと手伝ってやろうと思ったのよ。私はあんたたち第四班の担当なのよ? あんたたちが動いてるのに、私が出向かないわけにはいかないでしょう?」
リジーはそう言うと、永遠たちの背後に見える隠された入口を見やった。
「それにしてもこの私を差し置いて自分たちだけ随分な冒険をしてきたみたいじゃない。本当によくも私を除け者にして――」
シーリアから永遠たちの現状を簡単に説明されていたリジーは、自分が歴史的瞬間に居合わせられなかったことを心底不満に思った。“リジー・フォックス、迷宮の隠された真実を暴く”――彼女が一緒にいれば、新聞の一面にはこのような見出しが躍っただろう。世間が注目する話題にリジー・フォックスの名前がないのは損失と言っても過言ではないと彼女は信じていた。
いつだってこうだ、とリジーは不満を募らせる。ここぞという場面で誰もリジーを誘ってくれない。過去の記憶が蘇る――ライアックめ。どうして私と組まなかったのよ! そこは幼馴染として声をかける場面でしょうが! そこはまだいいわ。なんで私のクランに加入しないで新しくクラン作っちゃうのよ! そこは俺も入れてくれって頼むところじゃないの!?
途中からライアック・バルトハイムへの不満を掘り起こすことに切り替わったリジーは、こめかみに青筋を立てた。
そんな彼女の無防備な背後をミズヌシは逃さない。
「リジーさん、後ろ!」
杏樹の叫びにもリジーは反応しない。彼女はずっと敵に背を向けたままだ。
永遠たちはすぐにでも駆け出してリジーを助けようと思った。
しかし――。
「ああ、もう! 思い出しただけでむかつく!」
リジーが突然地団太を踏んだかと思ったその瞬間、彼女を呑み込もうとしていたミズヌシが炎に包まれた。
ミズヌシは自分の身に何が起きたのか理解できなかった。獲物が何かしたようには見えない。だが、その獲物は背後で炎が広がっていることに何の関心も示さない。まるでそれが当たり前の出来事であると言うように。
「はー、まったく。嫌なこと思い出したら甘いもの食べたくなってきたわ。さっさと帰ってケーキでも食べましょ」
灼熱に呑まれて塵と化していくミズヌシには目もくれず、リジーは事もなげに言った。
「皆さん、あれが王都トップクラスの探索者の一人であるリジー・フォックスのスキル『火炎』ですよ。通称“狐火”――クランの名前の由来でもあります」
「狐火……」
レイチェルは授業をする調子で説明する。永遠たちは皆呆気にとられて眼前の後継を見つめることしかできなかった。
『火炎』――それは文字通り炎を生じさせるという単純明快な効果を持つスキルだ。物を燃やしたり、魔力を燃焼させて宙に炎を浮かべたりすることができる。ただ、それだけのスキル。
物を燃焼させる系統のスキルはいくつかあるが、そのどれもがあまり評価が高くない。必要ないからだ。
火を起こすだけならマッチが一本あればいい。魔物を斃すだけなら剣や槍で十分だ。炎は強力であるが扱い辛いという認識が一般的だ。人や建物に火が移れば大事であるため注意が必要。特に《メイリム都市迷宮》においては深刻な問題だ。冥樹を炎上させることは勿論、重要な建造物や資料が焼失する懸念があったため、炎を扱うスキルは好まれない傾向が強い。さらに、それほど繊細な操作が要求される割に、それに見合うだけの大きな効果があるとは言えない。他の道具、他のスキルで十分代替できるからだ。故に、これらのスキルは往々にして「はずれ」と陰口を叩かれる。そんなスキルを発現させた一人がリジー・フォックスだった。
当初のリジーは嘲笑と憐憫の的だった。高名な迷宮研究者の両親から生まれた優秀な子が、役に立たないスキルを掴まされた。探索者を目指す身としてこれほどがっかりすることはない。それはリジーが探索者として大成できないことを意味していた。誰もがそう思った。
だが、リジーはそれを覆した。
「リジーさん凄い……あれだけの炎を起こしていながら周囲に燃え広がらないようにしてるし、熱気がこっちまで届かないようにしています」
杏樹が感心すると、レイチェルは微笑んだ。
「確かに炎の操作技術にかけては一品です。ですが、リジーさんが最上級の探索者に登り詰めた理由はそこにはありません。リジーさんの強み。それはまさにスキルの解釈と成長の方向性を最大限に活かしたことにあります」
「どういうこと?」歩はその意味を問うた。
「彼女のスキルは炎を生じさせると言いましたが、それを概念的なものと解釈したんですよ。炎を熱意として捉え、自身の精神力を底上げさせることに用いたのです。
どれだけ困難が立ち塞がろうとも絶対に諦めることのない不屈の心。仲間を導き、希望を与えるリーダーとしての資質。そういった目に見えない力をつけるための糧としたんです。それがなければリジーさんはもっと早くに引退していたでしょう」
リジー・フォックスは情熱の女だった。何事にも決して手を抜くことなく、不断の努力を以って立ち向かった。自らの才能を誇示しながら決して妥協することがなかった。スキルが不遇と呼ばれようとも、それを言い訳に諦めることを良しとしなかった。
リジーにとって生きることはプライドの証明である。そして彼女は事実として証明した。
歴代最年少でのクラン設立。そのクランを歴代最短で国内十位の一つまで押し上げ、時代の筆頭とまで称されるまでになった。
リジー・フォックスが自らの力で得た勝利だった。
「まあ、あんたらも新人にしてはよくやった方だと思うわよ。適正階層より上層の魔物――しかも変種を相手に全員生き残るなんてね。私がいればいらない苦労だったけど」
リジーは永遠たちが畏敬の念を抱いていることを察し、得意満面で胸を張った。
「知識としては知っていたつもりでしたが、リジーさんって本当に凄い人だったんですね」
杏樹がしみじみと言った。リジーの口元が称賛の言葉に崩れそうになる。
「それだけ努力を欠かさない人だったのに、ライアックさんを射止めることには手を抜いちゃったんですね……」
「そこはもう触れないでやれよ……」
真夏が悲しそうに言うと、リジーは顔を引き攣らせる。
永遠は傷を抉ってやるなと窘めた。




