二者択一
ジャイルズがラドリーとマフールと共に去った後、セシリーとローニャは並んで座っていた。二人は鞄の中のモヨウブタの肉を挟んだパンを取り出して、黙々と食べていた。セシリーは時折ジャイルズが消えた方角をちらちらと見ている。
「セシリーちゃん、まだ腑に落ちないって顔してるね」
ローニャが言うと、セシリーは頷いた。
「ええ、そうです。正直まだあの二人を疑ってます。こんな美味い話が転がり込んでくるでしょうか?」
「でも、ジャイルズの力を借りたいってのは話の筋が通ってると思うし……」
「“住み替え”の件もそうです。同じ時期に別々の魔物の“住み替え”が重なることなんて普通ないでしょう? あの二人が何か隠してると私は考えています」
セシリーは改めて二人への疑念を表した。ラドリーとマフールは素行が悪いという話は聞かないが、全幅の信頼を置けるほど善良とは言えなかった。これほど都合の良い“住み替え”が起きるだろうか。セシリーはその答えこそ見つけられないが、二人が秘密を抱えているという確信だけはあった。
ローニャはじっとセシリーの顔を見つめた。セシリーはそれが何を意味しているのか分からず戸惑う。
ややあって、ローニャは口を開いた。
「セシリーちゃんはさ、ジャイルズのことが心配なんだよね?」
セシリーは一瞬動きを止めた。彼女は心臓の鼓動が早くなったのを無視した。
「あの二人が信用できないっていうより、ジャイルズが危険な目に遭わないかどうかが気になるんでしょ。セシリーちゃんは昔っからジャイルズの面倒見が良かったから分かるよ」
ローニャは故郷にいた頃を思い返した。一人だけ年上のセシリーが自分たちの面倒を見てくれた過去。他の年上の子どもが面倒くさがっている中で、セシリーは辛抱強くローニャたちの相手をした。そんな彼女の手を一番焼かせたのがジャイルズだ。スキル持ちであることを自慢してガキ大将を気取っていた少年。彼を嫌う子どもが多い中、セシリーはいつも正面から彼と向き合っていた。セシリーだけがジャイルズを心から気遣っていた。それはジャイルズが皆が思っているよりずっと小心で、周りの目を気にしていたが故に放っておけなかったのだと、ローニャは気づいていた。
「……そうですね。そういう感情があるのは認めます。本当に調子が良くて威張っていましたが、その陰で努力も十分してきたのはずっと近くで見てましたから。いつか報われてほしいと願っていました」
「ジャイルズが何度やらかしても見捨てないもんね。私も人のことは言えないけど」
「本当に手のかかる弟分です。ですが、私は信じていますよ。今はうまく回らなくても、何かの切っ掛けで歯車が嚙み合えば一気に道は拓けると。ジャイルズはそこまで辿り着ける人間です」
セシリーは確信を持って言い切った。ローニャも同意するように笑う。
「……あれ?」
ふと、ローニャが遠くを見つめる。
「どうしました?」
「何か変な音聞こえない?」
セシリーは耳を澄ませた。どこかから硬い物を擦るような重い音が鳴っている。同時に、地鳴りのような振動が体を揺らし始めた。
「確かに……何か引き摺るような音が、でもそれにしては大きい……」
そう言ってセシリーが音の鳴る方角へ目を凝らすと、何かが圧し潰されるような破砕音が耳に入ってきた。付近に生えている木々が圧し折られる音だ。
目を見開いたセシリーの前に、半透明の青いどろりとした液体のような何かが現れた。
「まだ、着かねえのか? 結構遠いな」
ジャイルズは連れ出されてからそれなりの距離を歩いたのに、まだ目的地に到着しないことに文句を言った。
「もう少しだ」
ラドリーは後方のジャイルズに答える。それから二分ほど歩いた後、彼は眼前に広がる石のタイルに覆われた地面を指差した。
「ほら、あそこだ」
辿り着いたのは果樹園の西端から少し離れた場所だった。果樹園の敷地の境目に設置された柵がここから見える距離だ。恐らくかつては何らかの建物があったと思われるが、今はもう何らかの理由で破壊され、壁や柱と床の一部だけが残っていた。瓦礫が少ないことから、後から誰かが出入りしたのだろうと窺える。
ラドリーが指差した先には、大理石のタイルに走る大きな亀裂がある。中に入ることはできないが、覗き込むには十分な大きさだ。
ジャイルズは亀裂の前で屈んだ。
「ああ、確かに下の方に何か見えるな。部屋があるのか?」
「もしかすると地下室があるのかもしれない。他に出入りできる場所もなさそうだし、まだ手つかずの可能性は高いだろ?」
「ふーん、大した物はなさそうだけどな。ま、いいや。周囲の警戒をすればいいんだな?」
今更ちょっとした金目の物程度に心を動かされることもないジャイルズは、言われた通りの仕事だけをやろうと『生命探知』を発動させた。
「ん?」
「どうした?」
「いや、今『生命探知』を使ったら変な反応が……」
ジャイルズは遠くの方に今まで感知したことのない奇妙な反応を発見した。ジャイルズにスキルは、感知した相手の魔力を測り凡その強さを知ることができる。彼が発見したのは、十層以降でも見ないような巨大な魔力の反応だった。
「あっちの方に妙にデカいのがいる。何だ? あんなにデカい魔物何てこの階層にいるはずないのに……」
この時、ジャイルズの脳裏に先日まで探索者たちを騒がせていた魔物の話題が過ぎった。彼は自分の顔から血の気が引いていくのを感じた。
ジャイルズは巨大な反応の動きを追跡した。その何かはある方角を目指し一直線に進んでいく。その先に何があるかを知った瞬間、ジャイルズは戦慄した。
「さっき俺たちがいた場所に向かってる……ヤバい!」
二人の幼馴染は、まだあの場所で彼の帰りを待っているに違いない。彼女らは正体不明の何かが今自分たちを目指して移動しているなど、夢にも思っていないに違いない。
ジャイルズはたまらず駆け出しそうになったが、その腕をラドリーが引っ張った。
「落ち着けよジャイルズ。そんなに焦ったってどうにもならないだろ? お前が探知した反応だって大したことないかもしれないし」
ラドリーは平然とした様子で、薄ら笑いを浮かべていた。
「いや、間違いない。これは雑魚じゃない。スキルの鍛錬だけはずっとしてきたから精度には自信があるんだ。これは絶対にヤバいやつだ」
「ヤバいっているなら尚更出ていくのは不味いんじゃないか? 下手に動くよりここに隠れていた方が安全だろ? セシリーは何かあればすぐに逃げる判断ができるくらい頭が良いんだ。心配しなくてもいいじゃないか。あの二人が巻き込まれると決まったわけじゃないんだからさ」
マフールも相棒に同調するように言った。
この時、ジャイルズは二人の様子に違和感を覚えた。二人が妙に落ち着き払っているように思えたのだ。二人の言葉には、まるで予め決められた芝居の台詞を話しているようなぎこちなさがあった。
「でも――あ?」
二人に反論しようとした時、ジャイルズは思わず間の抜けた声を出した。
「どうかしたか?」
「また変な反応が……こっちに凄い速さで向かって来てる」
ジャイルズは訊ねてきたラドリーに答えると、空を見上げた。
『生命探知』の範囲内に飛び込んできたのは複数の反応だった。大きな反応が一つ。その反応に重なるように人間大のサイズの反応が複数。
やがて、ジャイルズの目に見慣れない巨大な鳥が羽ばたく光景が飛び込んできた。
第三層の休憩地点から果樹園跡地まで一直線に向かった永遠たちは、果樹園の近くまで来た時、目的の人物を発見した。
「見つけた!」
シーリアが地面を指差して叫ぶ。
「どこですか?」
「果樹園から少し離れた場所です。元々住宅地があった区画ですね。ジャイルズ・ブラック、それにラドリーとマフールの三人がいます」
レイチェルは住居跡を見下ろし、三人の姿を確認した。
杏樹は二人の友人を探したが、どこにも見当たらなかった。
「セシリーさんとローニャさんは?」
「一緒にはいませんね。別行動でしょうか?」
「一先ずあそこへ下りてみますね」
レイチェルがバハロスに指示を出すと、凶鳥はジェットコースターのようにがくんと角度を下げて、地面を目指す。そのまま地面すれすれまで勢いをつけて下りると、ジャイルズの目の前で足をついた。
シーリアはベルトを外して降りると、ジャイルズと後ろの二人を睨みつけた。
「ようやく見つけましたよ、ジャイルズ・ブラックさん。それにそちらの二人も」
「あんたは……」
ジャイルズは、顔は知っているが直接会話したことのない迷宮管理局の職員が突然現れたことに、困惑を隠せなかった。
「初めまして。迷宮管理局探索者課のシーリア・ラングです。そしてこちらにいるのは……既にご存じかと思われますが、クラン《悠久の城》の皆様です」
《悠久の城》のメンバーが次々にバハロスから飛び降りる。ジャイルズはその顔触れを見て、反射的に嫌そうに顔を歪めた。
「また会ったな、ジャイルズ」と、永遠が真っ直ぐに見据えながら言った。
「なんでお前たちもいるんだ」
ジャイルズは理由を説明してほしいとばかりに、シーリアへ視線を移した。
シーリアは一歩前へ進み出た。
「今日ここへ来たのは、貴方たちに先日のミズヌシ“住み替え”の件で詳しい話を訊きたいからです」
「“住み替え”? あれがどうしたっていうんだよ」
「より正確に言えば、貴方の後ろにいる二人に訊きたいのですがね」
シーリアはジャイルズの肩越しに、ラドリーとマフールの顔を見た。二人が一瞬にして体を緊張させたのを彼女は見逃さなかった。
「ラドリー、マフール。貴方たちにミズヌシを三層へ誘導した疑いが上がっています。この件に関して私、シーリア・ラングは迷宮管理局職員の権限に従って、緊急の尋問を行います。貴方たちの発言は、すべて迷宮管理局の公式文書に記録されることを予め宣言します」
朗々と定型文を述べるシーリアの後姿を見ながら、永遠と歩は言葉を交わした。
「迷宮管理局の権限って強いんだな」
「探索者相手には絶対的な力を持っているんだろうね。通常の捜査機関と連携してるって話は最初に聞いたけど……」
隣で話を聴いていた因幡が、会話に加わった。
「探索者が関与してる犯罪――特に迷宮内の犯罪は、局が捜査権を握ってるのだろう。当然の話ではある」
「多分、独立性も他の機関と比較して強いと思う」
永遠たちがそのような話をしている間、ジャイルズは驚愕を顔に貼りつけ、二人の探索者を振り返った。
「あんたらがミズヌシを誘導した? どういうことだよ!」
ラドリーは顔の前で手を軽く振った。
「ちょっと、何言ってるんだよ。ミズヌシを誘導したってそんな馬鹿な話あるわけないだろ! なあ?」
ラドリーはマフールの顔を一瞥した。その一瞬、ラドリーの片目が閉じられた。
マフールは、その意味をすぐに理解した。
(迷宮管理局にばれた。あの目つき、完全に俺たちを疑っているし、言い包めるのは無理だな)
マフールは腰に手を当て、思い切り胸を張った。
「ラドリーの言う通りですよ。俺たちがそんなことできるわけないでしょう。大体俺たちはミズヌシのいる層まで辿り着いたこともないんですよ? どうやってミズヌシを誘導するっていうんですか。あれはただ“住み替え”が起きただけって話でしょう」
「そうだって。何か根拠でもあるのかよ! ジャイルズ、お前も何か言ってやれ」
「え?」
突然話を振られて、ジャイルズは固まってしまった。彼はラドリーとシーリアの顔を交互に見ることしかできず、何も言葉は出なかった。
一連の動きを注視していた真夏は、ジャイルズに話を振ったラドリーの行動に違和感を覚えた。彼の言動にわざとらしさが見え隠れしているように思えたのだ。そして、真夏は一番後ろに立っているマフールが、右手を腰から下げてズボンのポケットに突っ込もうとしていることに気づいた。
「動かないで!」
真夏はマフールの意図に気づいた瞬間、掌を前に出すと同時に声を上げた。マフールは制止することなく、素早くポケットに手を入れようとする。だが、それが叶うことはなかった。
「ぐあ!」
悲鳴が聞こえて、ラドリーはぎょっとした。何が起きたか確かめようと首を動かすと、そこには右腕に黒い触手が巻きつき、苦悶の表情を浮かべるマフールの姿があった。
「この俺の前で不埒な真似を試みようとは命知らずな奴め。腕をへし折られなかっただけ有難く思え」
真夏の叫びに反応した因幡は、すかさず『拘束』を発動しマフールの腕を締めつけた。マフールは必死で右腕を動かそうとするが、触手は固く巻きつき外れる様子はない。因幡が締めつける力を強めるとマフールはさらに悲鳴を上げ、痛みのあまり立つことすら覚束なくなる。すかさずレイチェルが駆け寄り、マフールが右のポケットから取り出そうとしていた物を回収する。彼女が取り出した赤紫色の球体は、永遠にも見覚えのある物だった。迷宮でミラ・バルトハイムと出逢った際に、彼女が脱出に用いた魔法道具だ。
「それって確か迷宮から脱出する時に使う……」
「帰巣鳥玉です。結構高価なので下層探索者はあまり持ってないのですが……コガネドリの羽を売って得た金で手に入れたんでしょうね」
シーリアは未だ呻いているマフールを無視して、ラドリーと相対する。
「迷宮管理局職員の前で逃亡を図ろうとするのは自供とみなして構いませんね? 貴方も抵抗するなら相応の対応をとらなければいけませんが……」
笑顔だが瞳は凍えるように冷たいシーリアを前に、ラドリーは後退った。彼は逆転の一手がないか周囲を見回すが、彼を救うものは何も存在しなかった。
その後の流れは速やかだった。抵抗の意思を失ったラドリーとマフールの両腕を捕縛用の魔法道具で縛り、その場に正座させると、シーリアは二人を見下ろした。
「さて、訊きたいことは沢山あります。まずは――」
今までの流れを混乱しながら見守っていたジャイルズが、突然はっとした。
「待ってくれ。セシリーとローニャを助けに行きたいんだ!」
ジャイルズの言葉に、《悠久の城》の面々の顔つきが変わる。
「何かあったんですか?」と、杏樹が深刻そうな面持ちで訊ねた。
「俺たちあいつらを置いてこっちへ来たんだけど、ついさっき俺のスキルで周囲の気配を探っていたら、妙にデカい反応が急に現れたんだ。そいつが二人が待機してる所へ向かってる最中なんだ!」
“デカい反応”という言葉に、永遠たち全員が同じことを考えた。
一二三が冷静さを保ったまま質問する。
「二人の居場所は?」
「果樹園の入口近くだ」
「急ぎましょう!」
杏樹は血の気の引いた顔で皆を促した。永遠は無言でこくこくと首を縦に振った。
歩は縛られている二人を見る。
「この二人はどうするの?」
シーリアが言った。
「私が残りましょう。後でバークさんたち《鋼鉄拳》が駆けつけるので、事情を話して外へ連れて行ってもらいます。皆さんには分身をつけておくので、終わったら合流しますね」
シーリアが『千里眼』で生み出した分身体を、レイチェルへと預ける。
「了解しました。シーリアさんも気をつけてください」
レイチェルは任されたとばかりに大きく頷く。それから彼女はバハロスに乗るよう指示を出した。
「シーリアさんいなくて大丈夫かな?」と、真夏が呟いた。索敵が得意なシーリアが欠けることで、若干の不安に見舞われた。
「心配ないと判断したのなら信じましょう。それに“代役”はいますから」
レイチェルはそう言うと、未だ顔が青いままのジャイルズを見た、
「それでは皆さん乗ってください。また飛ばしますよ」
セシリーとローニャは、目の前に現れた物体を見て、目を見開く。
半透明のゲル状の体。内部の中央部分に見える核。セシリーは、それが何なのかすぐに理解した。
「セシリーちゃん、これって……」
「ミズヌシです!」
セシリーは、ぶよぶよと体を蠢かせる巨大な魔物の動きから目を離さない。
(まさかまだ三層にいたなんて……いえ、むしろこれを予想すべきだった?)
セシリーは規制が解除されたことに安心していた己の判断を呪った。
嫌な予感はあった。ラドリーとマフールの誘い。コガネドリの“住み替え”とミズヌシの“住み替え”が同時に発生したこと。何故この状況を予期できなかったのかと、彼女は心から悔やんだ。
だが今はそんなことを考えている場合ではない、と頭を切り替える。セシリーはミズヌシを改めて観察する。ミズヌシは一見すると鈍重そうに見えるが、実際にはかなり俊敏に動くことができる魔物と知られている。注意すべきは、体の一部を球状に変形させたものを鈍器のようにして振り回す攻撃だ。これで獲物を昏倒させてから捕食することを得意としている。そして、眼前のミズヌシはまさに体を一部を球状に変形させていた。
「ローニャ、避けて!」
セシリーの指示に、ローニャは反射的に従った。二人は左右に分かれてその場から飛び退く。それと同時に、球状に固められたミズヌシの体が二人がいた位置へと叩きつけられた。
「ひゃあ!」
ローニャが体勢を崩すが、セシリーはミズヌシへの攻撃を優先した。素早く、手慣れた動きで弓を構えると、ミズヌシの中心部に見える核へと狙いを定める。それからたっぷり魔力を込めると、矢を放った。
渾身の一射。魔法道具で強化されたセシリーの矢は、並の魔物であれば容易に骨をも貫く威力を持つ。それがミズヌシの核へ向けて空を切る。
捉えた、とセシリーは核が破壊される光景を空想の中に見た。そして、次の瞬間、無情な現実へと引き戻される。
鏃がミズヌシの弾力ある体に埋まった途端、その勢いを急激に衰えさせる。強化された矢は核に僅かでも触れることすら叶わず、半透明のゲルの中でオブジェと化した。
(駄目……勢いが弱すぎて核に届かない)
十層で足踏みするレベルの探索者に過ぎないセシリーでは、二十層クラスの魔物であるミズヌシの体を貫けるだけの威力は発揮できない。
ミズヌシは矢が埋まった箇所をぶるぶると震わせ、異物を外部へと吐き出した。
一方、どうにか持ち直したローニャは、慌てながらも鞄の中から小瓶を一つ取り出した。彼女が調合した腐食毒の液体だ。
「ええと、これで!」
ローニャは蓋を開けた瓶の中身を、思い切りミズヌシへと振り撒いた。セシリーはそれを見て、成程と思った。
ミズヌシの肉体は、核と、核から伸びた筋肉や血管、神経などの集合体である集約管と呼ばれる細長い管、そして全体を覆うゲル状の物質に分けられる。この中で、消化、吸収を担うのは集約管であり、ここから養分等を吸収する。もし、毒物を吸収させることができれば、それをもって核を侵し死に至らしめることもできるはずだと、セシリーは考えた。
だが、その期待もすぐに露と消えた。毒性の液体は狙い通りにミズヌシの中へと吸収されたが、その禍々しい色をついたそれは瞬く間に消えていく。そして、最初から何もなかったかのように元の色だけが残った。
「毒が全然効かない……」
「毒の成分が急速に分解されているようですね」
セシリーが事前にミズヌシの生態についてより詳しく調べていれば、集約管から分泌される消化液に毒を分解する働きがあると知れただろう。ミズヌシを討伐するには、直接核を破壊できるような威力の攻撃か、分解が追いつかないほどの大量の毒で全身を侵すほかない。二人はそのどちらの手段も持ち合わせていなかった。
(完全に打つ手なしですか)
この時点で、セシリーはミズヌシの討伐を諦めた。今の自分たちでは到底敵わない相手。
ならば、どうするのが最善か?
セシリーの頭脳は、すぐに答えを導き出した。
「ローニャ、ここは私が囮になるので貴女は全力で逃げてください。他の探索者にこの状況を伝えるんです。情報が伝わらなければ被害が広まる恐れがあります」
ローニャは一瞬ぽかんと口を開け、それからすぐに表情を歪めた。
「囮って何言ってるの!」
「今考えうる最悪の展開は、私たち二人とも死ぬことです。私の足なら少しは時間を稼げますから、その間に逃げられるはずです。確か三層に辿り着いた時に《鋼鉄拳》の一団が見えましたから、彼らに助けを求めれば何とかなるかも……」
目に涙を浮かべる友人を見つめ、セシリーは懇願するように言った。
「ローニャ、お願いします。このままでは――」
セシリーが最後まで言い終えることはなかった。ミズヌシがその巨体を滑らせるようにして、二人の元へと向かってきたからだ。波が覆いかぶさるような光景だった。そのままいけば二人は一度に吞み込まれるだろう。
セシリーは腕を伸ばすと、ローニャの体を突き飛ばす。無防備だったローニャは抵抗する間もなく、後方へと転がった。
倒れたローニャの目に、ミズヌシに呑み込まれるセシリーが映る。
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