絆クエスト:因幡七曜⑦
因幡七曜がすべての過去を語り終えた後、談話室には沈痛な空気が漂った。
因幡は疲れたように息を吐くと、肩の凝りを解すように腕を動かす。それから空になったコーヒーカップの底を無感情な瞳で見つめた。
歩は何か言葉をかけるべきかと思ったが、それよりも明かされた事実を精査することを選んだ。
(石動天馬――『朱里グランドシティビル爆破テロ事件』の犠牲者の一人。当時中学生で、学校で人気者だったこともあって、同級生の多くがその死を嘆き悲しんだと報道されていた。でも、何より世間の注目を集めたのは彼の死因。爆発に巻き込まれたのではなく、現場にいたテロリストと思わしき人物に射殺されたという事実が衝撃を与えた。爆弾という一種の災害じみた出来事による死ならともかく、銃で撃ち殺されたというのが生々しかった。そのせいで、ネットでは義憤の声があちこちで上がってたんだよね。けど――)
歩は因幡の顔を一瞥した。
(まさか、因幡があの事件の当事者だったとはね)
決して意外な話ではないと歩は思った。石動天馬が通っていた中学校は進学校として知られる学校だ。悠城学園に進学する生徒もいるだろう。それが因幡七曜だったというだけの話だ。
因幡は一度眠たそうに首を前に傾けたが、すぐに戻す。それから再び口を開いた。
「これであの事件についての話は終わりだが、ある意味本題はここからだ」
「本題?」
歩がきょとんとすると、因幡は呆れた。
「貴様が訊いたのだろう。俺が何を考えているのか知りたいと。今の話はただの前提に過ぎん。重要なのはここからだ」
「あ、そっか」
この話の起こりは、歩が因幡に向けた問いかけだ。何故、ジャイルズの言葉に怒りを覚えたのか。因幡が何を指針としているのか。それを知りたいがための問いだった。
「ごめんごめん。随分引き込まれる話だったから、そっちに気が行っちゃってたよ」
「まあいい。続きを話すぞ。あの事件の後は――まあ、大体の流れは予想がつくだろうが、俺は目撃者として警察から事情聴取を受けることになった」
「そうだろうね。警察もかなり注力してたんじゃない?」
「当然だ。あれほどの事件、解決に導けねば警察の威信にかかわる。俺は犯人と思わしき人物と接触した唯一の生存者だったのだ。警察が把握している限りでな」
歩は「警察が把握している限りで」と最後に付け足した意味をすぐに悟ったが、そこには触れずに話の続きを促した。
「救助された後は入院してたんでしょ? 退院まで待ったの?」
「医者はそうするべきだと主張したが、俺が無茶を通した。早期に重要な情報がもたらされなければ犯人を逃がすこともあるとな。友人を目の前で亡くして、ただベッドで寝ているわけにはいかないと身振り手振りを添えて、どうにか了承を取りつけた」
因幡は医者との問答を思い返し、苦笑した。時間を置くべきだと説き伏せようとする医者を逆に言葉で丸め込み、折れさせるのに労力は要らなかった。言葉で人を動かすのは因幡の得意分野だ。
「何より友を失って何もしないなど、俺自身が赦せん」
「……そっか」
「とはいえ、有力な情報があったわけではないがな。具体的な内容は先程語ったとおりだ。天馬を撃った犯人は、炎と煙に紛れてはっきり顔を見ることはできなかった。体格からして恐らく男だろうということしか言えん」
「でも、そこに別の誰かが現れたんだよね? その時に床が割れて、驚いた犯人がその場から逃げ出したから因幡は助かった。で、因幡はその直後に意識を失ったわけだけど……」
「意識を失う前に最後に見たのは、その何者かの足だろう。目に映ったのは、ほんの一瞬だ。そいつの性別も確認はできなかった」
「さっきの話から察するに、その人は現場から消えたの?」
歩は確認のために質問した。今なお因幡がその人物の正体を把握していないということは、その人物もまた犯人と同様に姿を消したのだろうと歩は推理した。
「ああ、俺たちを下まで運んだ後でな」
「運んだ?」
「俺と天馬はビルの一階に転がっていたのを、救助隊によって発見されたのだ。見つけてほしいと言わんばかりの目立つ場所にいたらしい」
歩は戸惑いを見せた。
「え、運んだって? 中学生二人を一人で? そんな大惨事の中を、誰にも見つからずに?」
「奇妙だと思うが、そうとしか考えられん。これに関しては警察も首を捻っていた。状況的にそいつがやったのは間違いなさそうだが」
歩は腕を組み、考え込む。
(エレベーターは火災が起きた後で使えなくなってるはずだから、階段で一階まで下りたってことだよね? それを一人でやるのは無茶だ。因幡たちがいたのは三十階なんだよ? そんな芸当それこそ――)
その時、不意に浮かんだ言葉が歩の思考を止めた。
それこそ、スキルを使ったのでなければ。
歩は無意識に首を振った。
(馬鹿なことを。元の世界にスキルを使える人間がいるわけないじゃないか)
スキルに目覚めるのはこの世界に生きる人間の特権だ。地球に住む人間はこの世界に足を踏み入れない限り、それを手にすることはあり得ない。歩はそう結論づけると、その考えを振り払った。
「ああ、そうだ。天津大臣は先に自力で避難してたんだよね」
「俺たちは爆発に巻き込まれたと危惧していたが、どうやら寸前で爆発物が設置されていた場所から離れて助かったそうだ。幸いにも擦り傷や軽い火傷で済んだらしい。竜造寺という男も同様だ。だが、護衛の二人は助からなかった」
天津成久と竜造寺彰がビルから脱出する瞬間が、野次馬の一人によってスマホで撮影されSNSにアップロードされたのは、爆発が起きてから数時間後のことだ。現場のビルに天津がいたという情報が秘宝展の客からもたらされ、それを知った撮影者が自身の映像を確認し、天津が映っているのを発見したのだ。撮影者は直ちに映像を掲載し、瞬く間に閲覧数を跳ね上げた。それを嗅ぎつけたマスメディアが、すぐに二人が搬送された病院に押しかけて騒ぎになったのを歩は憶えていた。
「天津大臣は怪我が軽かったこともあって、事件後速やかに無事だと声明を出していたな。現役の法務大臣が巻き込まれたとあって混乱も大きかった。もしや大臣を狙ったテロではないかと大きく騒がれ、口さがない連中は大臣がいたせいでテロが起き、民衆が犠牲になったと非難していた」
「あれはいくらなんでも無理筋だったね。流石にそれを言った奴等は叩かれてたよ」
歩は不快な記憶を想起し、顔を顰める。
「天津大臣を殺すためか……どうなんだろう。爆発物が仕掛けられていたのは展望室だけで、大臣はあの場所に行くことを事前に漏らしていたらしいね。だから、大臣を狙っていた犯人がそれを知って先回りして爆発物を仕掛けたんじゃないかって」
「とはいえ、あの爆発には不審な点が多かった。それは知っているか?」
「うん、爆発物の詳細が不明だったって話だよね?」
因幡は頷いた。
「そうだ。爆発が起きたのは計十カ所。警察と消防が後に現場を調べたが、すべて同じ爆発物によるものだろうと見解が出された。だが、問題なのは――何が爆発したのかまったく分からなかったことだ。火薬などの痕跡は何一つとして発見されなかった。まるで何もない宙で突如爆発が起きたようだと云われていた」
「専門家が何人も集められて調査が行われたけど、結局何も分からなかったんだよね」
「それだけではない。警察は展望室の監視カメラの映像を調べ、犯人や爆発物の正体を突き止めようとした。犯人が何か仕掛けを施したのであれば、必ずカメラに映っているはずだと考えて。だが、カメラには不審な光景は何も映っていなかった。爆発が起きるまでそこは普段どおりのままだったという」
「うーん……」
歩は渋い顔で唸っていたが、やがてお手上げだと言いたげなポーズをとった。
「はあ、やっぱり素人が考えたところで答えは出ないね」
「それはそうだろう。だから、あの事件も未だ解決していない」
「そもそもの話、あれが本当に大臣を狙ったのかどうかも定かじゃないしね」
「犯行声明もなかったからな。愉快犯によるいたずらは数件あったが、どれも無関係と思われている」
「爆発の原因も、犯人も、動機も、何一つ不明か。そりゃ捜査も行き詰まるよ」
「あの事件で、俺は己をいかに過大評価していたか思い知らされた。友一人を救うことすら叶わんとはな。あれからコネを総動員してあちこちから情報を集めてみたが、ただ時間が過ぎるばかり。王と称していたのがひどく滑稽だ」
因幡は掌で目元を覆うと、自らを嘲るように唇を歪ませた。
「……だが、そうも言ってられん状況になった」
「それが本題ってやつ?」
因幡は目元を覆っていた手を除けた。彼の瞳には強烈な光が宿っている。
「天馬の葬儀を終えてから一週間ほど後のことだ。当然ながら学校は天馬を喪った悲しみから抜け出すことはできず、教室は陰鬱な空気に包まれていた。女子のうち数名は心身を崩して休みがちになり、そのせいで余計に教室は寂しくなり、虚無感が増していた。そんな時だった。誰かが天馬を偲ぶようにあいつがいた頃の思い出を語り出してな。周りもそれに乗り、一人また一人と天馬の記憶を出し合った」
「塞ぎ込むより言葉に出した方が気が楽になったんだろうね」
「俺もそれで皆の心が安らぐのであれば良いと考えた。ただ、過去に浸るうちに良くない方向に進み始めた。既に説明したとおり、俺が王であることに不満を抱く者が、天馬を新たな王に担ぎ上げようとはたらきかけ、俺の臣下との間で諍いが起きていた。俺と天馬がいくら良好な関係を示しても、それは変わらなかった。そして、天馬が死んだことで奴に希望を抱いていた連中に衝撃が走った」
歩は話の先が想像できた。
「まさか暴走したの? 天馬が死んだのは因幡のせいだって」
「天馬が消えたことで、学校は再び俺一人が支配する体制へと還った。その事実に納得がいかなかったのだろう。それに事件の現場に俺が居合わせたことも拍車をかけた。奴等にしてみれば、俺が天馬を犠牲にして自分だけ生き残ったように見えたのだ」
「それは完全に言いがかりでしょ。反論したんだよね?」
「事実に基づいて訂正はした。だが、その主張に賛同する人間は少なくなかった。本気で恨んでいる者もいれば、俺を引き摺り降ろすことを狙って同調する者もいた。俺の取り巻きどもも宣戦布告と受け止めて、真正面から突っかかっていった。まさに一触即発だった」
「……それで? 喧嘩になったの?」
「いや――そうはならなかった。俺が途中で介入したのだ」
因幡は目を瞑り、感情をぐっと堪えるように唇を引き締めた。
「最初は何も言うつもりはなかった。俺自身あの場で何かできたのではないかと何度も自問自答したからだ。もう少しうまくやれていれば天馬は助かっていたのではないか。そう思うと、奴等の主張を否定することはできなかった。だが――だが、あの言葉だけは看過できなかった。あの発言は俺一人への侮辱に留まらず、天馬さえも侮辱した」
因幡は大きく息を吸い込んだ。
「それはある男子が口にした言葉だ。そいつは俺をずっと疎んじていた奴で、天馬が現れてからはあいつを真のリーダーと崇めるようになり、奴を露骨に持ち上げては俺を追い落そうとしていた。だが、俺も天馬も気にしていなかったのが気に食わなかったらしくて、不満を隠そうとしていなかった。そいつが皆が感傷に浸る中吐き捨てたのだ――“折角皆のリーダーになれるような奴だったのに。天馬がいればこの学校はきっと変われたはずだった。それなのに死んでしまうなんて。何もできないまま死んでしまえば意味はないのに”とな。まったく――戯言を!」
因幡は唐突に声を荒げた。身を乗り出して話を聞いていた歩は、驚きのあまり思わず身を引っ込めた。
「何もできないままだと? あの男が何も成さなかったとでも言うのか? 一年足らずで奴が何を成し遂げたか知らぬと言うのか? あいつは、石動天馬が――俺に何を遺したと思っている?」
荒々しい声色が、風船がしぼんでいくように弱くなっていく。因幡の瞳には悲哀の色が浮かんでいた。
「俺には才能があった。金にも、家族にも、何不自由ない人生を送ってきた。だが、王である俺の周りには誰もいなかった。当然の帰結だ。ただ畏れられるだけの王に、全幅の信頼を寄せる者がいるか? 俺に縋る連中も俺の権威を当てにしていただけだ。俺は王という恵まれた立場を築いておきながら、俺を信じる臣下は持っていなかった」
歩の目が見開かれた。彼の脳裏に、図書室で出会った夏目緑の言葉が思い起こされる。
恵まれているのに、孤独を抱えている人間。
因幡七曜は自らを同じように評した。
「俺は諦めていた。自分には生涯縁のないものであろうと。だが、そんな時に、天馬が俺の前に現れたのだ」
熱情に顔を紅潮させ、因幡は力強く言った。
「天馬は俺に並び立とうと努力した男だ。俺を打倒すべき敵と考えず、対等になろうとした男だ。俺たちの間に優劣は存在しなかった。ただ、共に在るのが当然だと言えるような間柄だったのだ。天馬が、ただ独りの王であった俺を救ったのだ」
その瞬間、歩が息を呑んだ。因幡は語り続ける。
「故に――俺は奴等の主張を赦すことができなかった。天馬を崇めながら、奴の死を無意味だと言ったあの言葉を、絶対に許容するわけにはいかなかった。石動天馬がどれほど因幡七曜という男に影響を遺したのか、くだらん対立にかまけていた奴等は想像すらしていなかった。俺には天馬が遺したものを知らしめる責務があった。そして、それを証明する方法はたった一つ。この因幡七曜が! 世界に、歴史に、偉大なる存在として足跡を残すこと! 世界中の遍く人間が――秘境に住む老いた者も、五歳の子どもも、誰もが等しく名を知る男となること! そして、後世歴史書にはこう書かれるのだ――“因幡七曜は石動天馬との出逢いによって、真の王へと到る道を見出した”とな。そうして世の人間は、偉大な男の陰に存在した友の存在を知るだろう。さながらギルガメシュ王にとってのエンキドゥのようにな」
歩は制するように手を出した。
「ちょっと待って。まさか――君が名を残したいって言ったのって――石動天馬の存在を世界に残すための前提条件ってだけ?」
「その通り。すべては奴の生きた証を刻み込むため。石動天馬が因幡七曜という王をこの世に生み出した功労者であると知らしめる。それこそが俺が王を目指す唯一無二の目的よ」
因幡の顔がふっと柔らかくなった。
「俺にできることは、あの男が何も成し遂げられなかったわけではないと証明することだけだ。富も、栄誉も、重要ではない。たった一つの目的のための道具に過ぎんのだ」
「自分の人生を、たった一人の友人のために捧げるの?」
「誤解するなよ。俺は自己犠牲の精神に溢れるような人間ではない。王になる以上は、何一つとして妥協はせん。己を高めるのは当然のことだ。第一、自らの犠牲とする生き方を天馬は好まん。単なる優先順位の問題だ」
「それならいいんだけど……」
因幡が己を省みる余裕を持ち合わせていることを確かめられ、歩はほっとした。
「あ、そういえばさ……松井さんはどうなったの?」
天馬が恋心を抱いていた少女。彼女のその後が歩には気掛かりだった。
「松井か……あの事件の時、天馬の所持品は無事に回収され、家族の元に届けられた。その中にはあの日購入した松井へのプレゼントも含まれていてな。俺が頼み込んで譲り受け、天馬の代わりに松井に渡した」
「折角の誕生日プレゼントが遺品になっちゃったか……」
「意外にも松井は気丈に振る舞っていてな。葬儀でも自分は泣かず、他の泣いている女子を励まして回っていたのをよく憶えている。それでも後日プレゼントを渡した時は、流石に目尻に涙を浮かべていたな」
因幡にとって女性を泣かせるのはその時が初めてで、涙を流す松井に対してどう対処していいか分からず、困惑するしかなかった。
「……とまあ、これで今度こそ俺の話は終わりだ」
「ありがとう。君がどんな人間なのか十分に分かったよ。君はあれだね。結構熱い奴なんだね」
「ふん、ありきたりな表現だ」
歩は天井を見上げた。
「親友が生きた証を世界に認めさせるためか……僕にはできないな」
「俺の真似をしようなど思うな。人間にはそれぞれ異なる精神の本質と、そこから生じる欲求が存在する。貴様は貴様の欲求に従えばいい。貴様にも目指すものはあるのだろう?」
「それは……」
「自己認識が間違っていなければ、自ずと答えには辿り着けるだろう。だが……強いて何か助言するならば――己と他者との関係は明確に定義することだな」
「関係を定義?」
因幡は歩を真っ直ぐ見据える。
「俺の真似をするなというのは、解決策だけを指しているのではない。俺と同じ過ちを犯すなという意味もある。俺の眼は誤魔化せんぞ。貴様も俺と同じ支配者の資質を持つ人間だろう。そして、そんな己に後ろめたさを覚えている」
歩の眼が鋭くなった。それはひた隠しにしていた醜い自分の正体を暴かれた人間の反応だった。
「後のことは貴様次第だ。精々悩んで結論を出すといい」
歩は苦々しい顔つきをして黙り込んでいた。やがて、彼は立ち上がると、夢遊病者のような足取りで静かに部屋から出ていった。因幡はその背中を見送り、仕方なさそうに首を振った。
「まったく……」
因幡は扉を閉じた音がしてから、数秒待ってから立ち上がった。彼は談話室の入口まで足を進めると、脇に設置されたソファを睨みつけた。
「盗み聞きとは感心せんな」
因幡がそう言うと、ソファの背もたれから久住永遠と水城杏樹がひょこっと頭を出した。
「いつから気づいてた?」
「最初からだ。俺たちが部屋の奥へ行った後、静かに扉を開けて入り込んだろう。帆足は気づいていなかったが」
「ごめんなさい。褒められた行いではないと承知していたんですけど……」
杏樹は平謝りした。
「まあいい。大方帆足の様子が気になって後を尾けてきたのだろう」
「お前の話を勝手に聴くつもりはなかったんだ……ただ、今更出ていくわけにもいかなくて」
「弁解は不要だ。貴様らも言い触らすような性質ではなさそうだからな」
因幡はどうでもよさそうに言い放った。
「貴様らは俺とジャイルズの諍いが今後の探索に悪影響を及ぼさないか懸念しているのだろう。その心配は無用だと言っておく。奴の発言は赦せずとも、そのために仲間内で足を引っ張るつもりはない」
そう言って因幡は溜息を吐いた。
「柄にもなく長話をしたせいか疲れた。俺も部屋に戻る」
因幡は二人を談話室に残したまま、出ていった。
永遠と杏樹は二人きりになった部屋の中で、しばらく立ち尽くしたままだった。
「なんか、とんでもない話聞いちゃったな……」
「そうですね……」
杏樹が遠い目をして答えた。彼女の視線はこの部屋ではない、どこか知らない場所を捉えているかのようだった。
「皆いろいろ抱えているんだな。星加も、因幡も、帆足も」
「誰にでも過去はあるんだと思います。まだ知らないだけで」
「……俺はそういうのないから、こういう時どう言えばいいのか分からないな」
永遠が居心地悪そうに肩を揺らすと、杏樹はくすりと微笑んだ。
「普通に、いつものとおりに接すれば良いんですよ」
杏樹は続けて「貴方はそれができる人ですから」と言おうとしたが、考え直してその言葉を呑み込んだ。彼女は誤魔化すように部屋の中をきょろきょろと見回した。
そんな杏樹の態度に気づくことなく、永遠は右手に目を落とした。彼の手には因幡が昔話をしている時から、奇妙な反応が纏わりついていた。
(さっきの話の最中にも、また『絆』が反応するような感覚があった。やっぱり気のせいじゃない。スキルが何かの形で発動している)
永遠はもう偶然で片付ける気はなかった。あの感覚は因幡に対して『絆』が反応している兆候だ。最初は、因幡がジャイルズに怒りを露わにした時。次は、因幡が過去と理念を語った時。それらの反応が何を意味しているのか、永遠には漠然と理解できた。




