絆クエスト:因幡七曜⑥
午後二時半、因幡七曜と石動天馬は雑貨店を後にした。嬉しそうな緊張しているような何とも言えない表情の天馬の手の中には、赤い包装紙でラッピングされた小さな箱があった。
「……よし。後は渡すだけか」
天馬は因幡の顔を無意識に見やった。
「先に行っておくが、貴様の告白に立ち会う気はないぞ。一人でやれ」
「そう言うよな、お前なら……」
因幡は溜息を吐いた。
「まったく、この俺と相対する男が色事に関しては優柔不断になるとはな」
「そりゃ他とは勝手が違うだろ。いつものようにはいかないよ」
天馬は口を尖らせた。
「決行の日までまだ時間はある。それまでに気持ちを整理しておくことだ」
「相談に乗るくらいはしてくれるよな?」
「俺も恋愛の経験はない。有用なアドバイスは期待するな」
今回だけは因幡にも勝ちを拾うための手段は思いつかない。強いて挙げるなら本心と誠意を真っ向からぶつけることくらいだと思った。松井は性格に癖のない人間だ。下手に回りくどい真似をするより、正面突破を試みる方が成功率が高いだろう。
「……ま、ゆっくり考えるか。その時になってから決めてもいい」
「そうしろ」
十二階へ戻った二人は、残り半分の展示を観て回ることに時間を費やした。その間は至って平和なものだった。望月氏のようにトラブルを起こす人間が新たに現れることもなく、呪われた秘宝の数々を静かに見入ることができる一時だった。その間、因幡は先程会った眼鏡をかけた女の存在が頭の隅に引っ掛かり、それとなく彼女の姿を探してみた。だが、どこにも見つけることはできなかった。
午後三時四十分、因幡と天馬はすべての展示を見終えた。
「いやー、想像していたより面白かったな」
「美術鑑賞もたまには良いものだ」
二人は歩きながら感想を出し合う。一面ガラスの窓の外には薄暗い空が広がっている。晴れていれば夕日が差し込んでいただろう。駅に近いこのビルは夕方が近くなると客足が徐々に増えていくことで知られていて、通路の混雑具合は朝来た時よりも酷くなっていた。
「どうする? まだ帰るには時間があるけど」
「他に何か面白そうな施設や店はあるのか?」
「ええと……」
「あ、最上階の展望室とかどうだ? 人気スポットらしいぞ」
「景色か。いいだろう。たまには王として高みから地上を見下ろすことも悪くない」
展望室直通のエレベーターに二人は乗り込む。エレベーターは満員だった。若いカップル、親子連れ、スマホを操作している男性など、定員ぎりぎりの人数が押し込められている。因幡と天馬は扉と反対側のガラスに押しつけられるようにして乗る。因幡は浮遊感に揺さぶられるような感覚の中、ガラス越しに曇天下の街並みを見下ろした。遠くなっていく地上を歩く人々はどこか忙しなさそうに見える。
やがて、最上階に到着したことを報せるアナウンスが流れると、扉が開く。開けた視界に最初に映ったのは、円形のエレベーターホールだった。その奥にアイスクリームショップや土産物屋などのこじんまりとした店がいくつか並んでいた。それらの店に沿うように展望室への通路が続いている。
「思ってた以上に広いな。眺めも良さそうなのになあ」
天馬は天気が悪いことにがっかりした。
「今日は雪が降ると言っていたが、今のところまったく降らないな」
展望室エリアは最上階のほとんどを占めていて、上から見ると長方形に見える構造だ。壁の代わりに一面張られたガラスからは、エレベーターから観たものとは比較できないほど壮大にそびえ立つビル群を眺めることができる。エレベーターホールのある北側を除いた三つの方角にそれぞれ望遠鏡が設置され、客たちが使っていた。
エリアの中央部分は休憩スペースとして整備されている。エリアに足を踏み入れた客は、休憩スペースに鎮座するオブジェを目にする。それは外国の遺跡を模したような建造物と、その中を突き抜けるように流れる人工の川だった。精巧に作られたミニチュアの遺跡は、永い歴史の中で風化したように表面が崩れ、まるで実物を小さくして持ってきたかのようだ。川の水源は上方のパイプであり、そこから滝のように水が落ちている。滝の周辺は小さな水飛沫が飛び散り、心なしか涼しかった。オブジェを囲むようにベンチやストールが置かれ、のんびりとくつろぐ客の姿が見えた。
因幡はそこに座る客の中に、意外な人物を見つけた。展示場で出会った眼鏡の女がいたのだ。彼女のすぐ近くには、先程エレベーターで一緒になったスマホを持つ男が、壁に背を向け立っている。
眼鏡の女は望遠鏡が設置されている一角をじっと見つめていた。因幡は釣られるようにそちらへ目を向ける。彼女が見ている先に、二人の男の後ろ姿があった。
(天津大臣と……竜造寺という男か?)
天津成久と竜造寺の周囲には、護衛の二人が威圧感を出さず、それでいて周囲の警戒を怠らないように立っていた。眼鏡の女は護衛に怪しまれないように、文庫本を読んでいるふりをしながらちらちらと視線を送っていた。彼女は因幡が自分に注目していることには気づいていなかった。
「ん? どうした」
天馬が不思議そうに声をかけてくる。因幡は唇の前に指を立てて、静かにというジェスチャーをしてみせた。彼は眼鏡の女が何者なのかも、何故天津と竜造寺を見ているのかも、まったく分からない。だが、この三人にあの騒ぎを起こした望月なる人物を加えた四人の関係性が、妙に気になって仕方がなかったのだ。これがただの好奇心に過ぎないことは因幡自身承知していた。それでも何かに導かれるように、因幡は二人の男の声が聞こえる距離まで近寄ると、外に広がる都会の姿を前にしながら聴覚に集中した。
「雪が降らないな」
天津は因幡と同じことを、ぽつりと呟いた。
「降ってほしかったんですか?」
「ん……まあ、そうだな」
竜造寺が質問を返すと、天津は若干はぐらかすように答えた。彼は表情を悟られたくないように、顔を背けた。
「まあ、いいでしょう。それで? わざわざスタッフエリアではなく展望室まで連れてきて話がしたいというのは何故です?」
「いや、ここを選んだことに深い理由はない。ただ、個人的に好きな場所だから行きたかっただけだ。晴れた日にここから見える景色が最高でね」
「そうですか」
竜造寺はそっけなく言った。
「では、本題に入りましょうか。先程の望月先生の件ですか?」
竜造寺の言葉は穏やかに聞こえるが、僅かに鋭さが垣間見えた。
「それも無関係ではないな。あの人も言っていたが、今度の秘宝展の開催は些か妙だ。決定も唐突だったし、準備も急ピッチで進んだろう。君の上は一体何故またこんな決定をしたのかね?」
竜造寺は肩をすくめた。
「望月先生にも同じことを説明しましたが、私も上の決定に従っているだけなので詳しいことは存じません。ただ、元々秘宝展の企画が進行していたところに、急遽あれの展示を捻じ込んだとは聞いています。それが切っ掛けで話がとんとん拍子に進んだとか」
「つまり、あれを衆目に晒す価値があると考えたわけか?」
「恐らくそうでしょう。それに何の意味があるかは上だけが知っていることです。私としては、やりがいのある仕事を任されて喜ばしいですがね。この秘宝展、宣伝も相俟って評判が広がっています」
天津は溜息を吐いた。
「望月先生にとっては寝耳に水だったろうな。無理もないが」
「ところで、どうしてまたこんな質問を? 先生がこの話に興味を持つのは意外でしたよ」
「いやなに、私にとっても決して無関係な話ではないということだ」
因幡は瞳に景色を映すことなく、ただ二人の会話に聞き入っていた。いつの間にか隣に立っていた天馬が、申し訳なさそうに眉を下げ、小声で言った。
(なあ、これ盗み聞ぎしていい話なのかな……)
(さてな。気に病むようなら離れていいぞ)
(いや、お前が気になるからさ……)
因幡は眼鏡の女の様子を窺った。彼女はベンチに座ったまま二人の男を観察を続けている。
(あの女、一体何が目的だ?)
今度は女の素性が気になった因幡は、男二人の会話が途切れたことを察すると、女の座る場所へ向けてゆっくりと歩き出す。天馬も困った顔で無言で彼についていく。この時、ガラスから離れたことが、因幡の運命を大きく分けた。
ちかっと、因幡の視界の端で光が点滅した。
「ん……?」
それは赤、黄、緑など、複数の色が連続してディスプレイに表示されるような感覚だった。因幡は一瞬カメラのフラッシュが焚かれたのかと思った。因幡は無意識に光が放たれた方向へと顔を向け――次の瞬間、つんざくような轟音とともに、強烈な圧力と熱気が彼に襲いかかった。
ぼんやりとした意識の中、夕焼けのように赤く染まった天井が目に入る。今日は曇っていたはずではなかったかと、因幡の頭に呑気な感想が浮かんだ。遠くから誰かが叫ぶ声が聞こえるが、はっきりしない。
「おい、因幡! しっかりしろ!」
天馬が因幡の身体を何度も揺さぶる。頭が揺れる度に、後頭部が冷たい床の感触を覚えた。
「……なんだ、一体」
因幡は数回瞬きをすると、ようやく完全に覚醒した。ゆっくり体を起こすと、肩や背中が鈍い痛みを訴えた。ずきりとする痛みに思わず手で撫でようとしたが、腕を動かすとまた痛みが走った。
「大丈夫か? どこか打ってないか? 頭とか平気か?」
「背中が痛いな……頭も少しだけ。何が起きた?」
因幡は辺りを見回した。そこは最上階の展望室のはずだった。だが、今その場所は彼が先程目にしていた光景とは、まったく違うものに様変わりしていた。
最初から何もなかったかのように消え去ったガラス。そこから吹き込む冬の凍えるような空気。崩れた壁。燃え盛る炎と頬をちりちりと焼くような熱気。けたたましく鳴り響く非常ベルの音。そして、あちこちに横たわる人間の体。
「爆発だ。突然あちこちで爆発が起きて……燃えてるんだよ」
因幡は意識を失う前に目にした光の正体を理解した。あれは爆発の瞬間だった。その直後に耳にした轟音もそれを意味している。恐らく爆風に吹き飛ばされて頭を打ち、気を失ったのだ。命があったのは幸いだった。もし、休憩スペースへ移動しようと思わなければ、爆発の起点の近くにいたまま、より大きな衝撃を受けていたに違いない。過去に投機の場で幾度となく機知に富んだ判断を見せてきた因幡七曜であったが、己の生死を決定づける判断をしたことはなかった。
そんなことを考えながら、彼の中に一つの疑問が生じた。あの時見た虹がきらめくような色合いは、ただの爆発が見せる色にしては妙に美しく思えた。あれは目の錯覚だったというのだろうか?
因幡は痛みを堪えながらゆっくり立ち上がる。脚は折れていなかった。
「立てるか?」
「歩けないほどではない。そういう貴様はどうなんだ?」
「俺も顔から倒れた。唇が痛い」
天馬の唇の左側に血が滲んでいた。他にも額に掠り傷ができている。炎に照らされて見え辛いが、大きな怪我でないことは確かめられた。
「とにかく早く逃げよう。煙も来てる」
因幡は他に生きている者がいないか探してみたが、どこにも見当たらなかった。彼らの他には、もう動かなくなった人間の身体が複数あるのみ。自分たち以外に生気のない空間で、彼は自分が平穏な世界から隔絶された環境にいることを今更ながら自覚した。
その時、因幡の視線がある一点を向いた。
「……あそこでも爆発が起きたのか?」
「多分そうだと思うけど、それがどうしたんだ」
天馬はぞんざいに答えた。彼は足元に気をつけながら、辺りに危険がないか見回している。因幡が注目していたのは、天津成久と竜造寺が話をしていた場所だった。ガラスが砕け開放感ある場所と化したそこには、誰の姿もなかった。
(天津大臣は? 爆発に巻き込まれたのか?)
大臣と竜造寺、護衛の二人。計四人のいた痕跡はどこにもない。因幡と同じように吹き飛ばされたのかとも考えたが、それらしき人物は転がっていなかった。よもや爆発の中心部にいて消し飛んだのかと悍ましい想像が、彼の脳裏を過ぎった。
次に、因幡は休憩スペースへと視線を移す。中央のオブジェには何事もなかったかのように水が流れている。熱気と冷気が混ざり、どことなく不快な空気が形成されていた。
(あの女は……)
爆発の直前までベンチに座っていた眼鏡の女の姿も消えていた。運よく逃げ出せたのだろうか。因幡はほっと息を吐いた。
「とにかく、早く行くぞ」
「ああ」
因幡は考えるのを打ち切り、まずはその場から離れることに専念することにした。非常階段が見つかればそこへ、場所が分からなければエレベーターホールまで行くしかない。
天馬が言ったとおり、爆発は複数個所で同時に発生したらしく、そこかしこで火災が発生していた。二人は視界の悪い通路を壁伝いに進んでいく。
「こっちも燃えているな」
店舗スペースのある場所でも、激しく損壊した壁と炎を見た因幡がそう呟く。
「まさかこっちでも爆発が起きたのか? なんでこんなに……ガス爆発か?」
「いや、調理場があるこちらはともかく展望室側で爆発が起きることは考えにくい。それも一度に複数などまずありえない。恐らくは――」
“爆弾”という単語が因幡の頭に浮かぶ。信じられないような思いだったが、今の状況を鑑みるにそれ以外に答えは思いつかなかい。この異様な状況が単なる事故であるとは到底解釈できなかった。
爆弾テロ。日本ではない遙か遠くの国で起こるような出来事。それが今、彼らの身に降りかかっている。因幡の心臓の鼓動が速さを増す。可能性に至った途端、因幡は自分の身体を得体のしれない何かが包み込む感覚に見舞われた。それは彼が知る悪意とは異なる性質のものだ。彼はこれまでに成功者へと向けられる嫉妬の眼差しを受けたこともあれば、陰口を叩かれたこともある。しかし、殺意を向けられたことは一度もない。それが今まさに彼のみに襲いかかっている。それも無辜の人間を大勢巻き込むようなやり口でだ。
これが何者かの悪意によるものとすれば、一体何のために?
因幡は天津成久の顔を反射的に想起した。現役の閣僚。政界で力を持つ交代したばかりの法務大臣。黒い噂もまことしやかに囁かれる男。爆発が起きた場所の一つは、彼がいた所だ。あれはもしや彼の命を狙ったものではないか? 天津に殺意を抱く何者かが、彼が今日ここへ訪れることを知り、事を起こしたのではないか? そんな憶測が因幡の中に芽生えた。混乱と苦痛と熱に当てられながらも、彼の頭脳は回り始める。
「おい、黙ってるけどどこか痛むんじゃないか? どこか痛いならちゃんと言えよ?」
「問題はない。考え事をしているだけだ」
天馬は黙り込んだ因幡を気にかける。因幡はそれには構わず足を進めながら、思考を巡らせた。彼が次に思い浮かべたのは、望月という男との諍いだ。
(あの男――天津大臣にも突っかかっていた。人死にが出ると。何を知っているというのだ?)
望月なる男は凶事が起こることを予言していた。今、彼の言葉は真実となっている。彼は天津もこのことを予期できたというような事実を示唆していた。それを引き起こすのが、秘宝展で披露目された“何か”であることも。
同時に、あの奇妙な印象を残す眼鏡の女が、浮かび上がった事実を繋ぐ鎖のように存在感を放つ。騒動の場にいた彼女。展望室にいた彼女。天津へ向けた二度の視線。天津への関心。
(まさか――あの女が?)
因幡は背筋に氷を放り込まれたように身震いした。あの女がこの惨事を引き起こした? 彼女の視線は、獲物を見つめる捕食者のそれだった? 彼女がここへ来たのは、獲物を仕留めるに絶好の機会を逃がさないためだったのか?
(いや、飛躍し過ぎだ。俺としたことが)
因幡は頭を振った。普段なら犯さないような仮定に仮定を重ねるような愚行に、らしくないと心の中で吐き捨てる。熱に浮かされたような眩暈を覚え、彼は深呼吸することにした。興奮が思考をかき乱しているのか、冷静になろうと努めてもできない。
望月が何を訴えていたのか。天津大臣とどう関係しているのか。あの女が何者なのか。それを考えるのは後だ。因幡は自分にそう言い聞かせ、思考を打ち切った。
そこで因幡は隣を行く天馬が足を止めたことに気づいた。
「どうした?」
「あそこ、誰かいるぞ」
天馬が顎で示した先は、エレベーターホールに続く通路の出口だった。そこに一つの影が立っている。電気が止まっているのか辺りは薄暗く、顔を見ることはできなかった。身体つきからして男だと思われるそれは、煙と炎の間で陽炎のように揺らめいていた。
「逃げ遅れたのか? なあ、そこの人、大丈夫か!」
天馬は大声で人影に向けて声をかける。影は僅かに身じろぎすると、ゆらりと腕を上げた。因幡はその動きに違和感を覚えた。
(あいつ、何故こんな状況で平然としている?)
逃げ遅れれば焼け死ぬか、煙を吸って死ぬかというような危機の中で、人影は何事もないように悠々としている。まるで一人だけ異なる世界が見えているかのようだ。因幡はその上げられた腕の先に何かが握られているのを見た。
人影が一歩前へ出る。その動きは、二人の姿をはっきりと捉えようとするためのように見えた。
その瞬間、因幡の本能が警鐘を鳴らした。
因幡は咄嗟に伏せようとし、天馬の身体を引き摺り倒そうと袖を引いた。
遅かった。
ぱちぱちと有機物が燃える音。けたたましい非常のベル。それらに紛れるようにしてぱんと乾いた音が響いた。
因幡は最初それが何の音か分からなかった。ただ、その発生源が通路の先に立つ人影であることだけを悟った。因幡の手先が引っ張られる感触を覚えた。同時に、天馬が膝を折り、そのまま崩れ落ちる。
「天馬……?」
天馬は反応を見せない。因幡の全身に針を刺したような焦燥感が走る。彼は俯せになった天馬の身体をひっくり返し、息を呑んだ。天馬の服の胸の部分が裂け、そこから赤い染みが広がっていた。
天馬は苦しそうに息をして、激しく咳き込む。口から赤い液体が飛び散った。
「天馬!」
蒼白な顔で因幡は叫んだ。彼は斃れた友を前に、何かしなければならないと頭を働かせる。煙の向こうに立つ何者かに銃で撃たれたという事実を認識する余裕は一切なかった。今なおその人物が傍にいることも、炎が迫りつつあることも、彼は頓着しない。突如として友の身に纏わりついた強い死の匂いが、彼の脳裏を占めるだけだ。苦痛に悶える天馬の体から鮮血が流れ出る。因幡はそれを狼狽えながら眺めることしかできなかった。
「い、なば」
天馬がヒューヒューとか細く息をした。言葉と一緒に血の噴水が湧く。血が頬に赤い筋を引いた。
「天馬! ああ、くそ! くそ!」
因幡は誰に向けたわけでもない罵りを上げる。何故、こんなことになっているのかと、理不尽さに腹を立てる。何がどうなっている。ほんの少し前まで、自分たちは平穏な日常を過ごしていたはずだ。それが一体何がどうなれば、こんな惨劇に変貌する? 人生とは、いつ崩壊するか分からない橋の上を渡るようなものだと、過去に投資家の知人が口にしていたことを思い出す。確かにそれはそうだろう。だが、ただの一つの因果もなく、ひたすらに邁進してきた男が、因幡七曜に並ぼうとしたこの男が、このような目に遭うことが許容できるのか。
「因幡、逃げろ」
天馬は弱々しい声で、ここから逃げるように促した。因幡は動かない。背後は既に煙が充満し、前方への道は悪意に封鎖されている。彼の行く先はどこにもない。元より天馬を置いていく気もなかった。苦しみに喘ぎながらも、天馬は友を気にかける。それが因幡の胸中をより一層乱す。
自信の才能と合理を突き詰めて頂点に登り詰めた因幡七曜は、この時初めて胸を掻きむしるほどの怒りを覚えた。
人影は二人をじっと見つめる。拳銃を構えたまま、冷酷な瞳で、人形のように動きを止めたまま。やがて、一人得心が行ったかのように頷くと、銃口を因幡へと合わせた。今度は一発で仕留められるように、頭へと狙いを定める。因幡は己へ向けられた殺意に気づかない。不明瞭な人影の口元が歪んだ。引き金にかかる指が動く。
空気が鋭く裂かれる。間髪置かず、硬質な床が穿たれる破砕音。
因幡はようやく我に返る。それからすぐに凶弾の主を見やると、相手はもう因幡を見ていなかった。その目はエレベーターホールの奥、因幡にとって死角となる場所へと向いている。その様は、天敵を威嚇する動物のようであった。
因幡は目を逸らしている間に何が起きたのか見当もつかなかった。彼の目に映るのは、最初人影が立っていた床が広範囲にわたって砕けている光景だ。細かな破片が散乱し、一部は因幡の元まで飛んでいた。床を破壊したと思わしき物体は、どこにも見当たらない。
その時、人影が叫んだような気がした。死角に潜む何かに敵意を露わにするのが見える。因幡はそこにもう一人別の誰かがいることを察知した。
人影の頭がゆらりと因幡を向いた。因幡は一瞬どきりと心臓を跳ねさせる。人影はそれから少し考えるように首を傾け、やがて踵を返し走り去った。
因幡は呆然として、消えゆく襲撃者の背中を見届ける。混乱している間に何が起きてこの結果に至ったのか、彼には理解できなかった。ただ、眼前の危険が消失したことだけは確かだった。
(いや、そんなことより)
因幡はもう一度叫ぶ。
「天馬!」
ごぼりと天馬の口から、また血が噴き出た。肺に穴が開いているのだろうか。医学の知識のない因幡は、傷の位置から推測する。息苦しそうにしているのも、その考えを支持するかのようだった。天馬の身体を軽く叩くが、返事はない。立ち上がる気力はなさそうだ。しかし、ここへ放置することはできない。いずれ炎に包まれるだろう。
因幡は天馬の脇の下に腕を通すと、背負う。背中に重量を感じながら、よたよたと体を左右に揺らした。階段はすぐそこだ。まずは下の階まで連れていく。そう決意を胸にして、天馬を引き摺るように運ぼうとする。
だが、それよりも立ち込める煙に囲まれる方が早かった。因幡は口を押えるよりも天馬を支えることを優先する。鼻の奥が煙に満たされる不快感が湧き上がる。目が痛い。天馬と同じように咳き込む。
(天馬、持ち堪えろ。俺が……)
心の中でそう呼びかけると同時に、因幡の意識がすっと遠のいていく。
因幡がその時最後に見たのは、自分たちに近づく何者かの足だった。
因幡七曜が目を覚ましたのは、ベッドの上だった。彼は清潔な白いシーツの上に横たわり、天井を見上げていた。最初彼は自分がどういう状態か分からず、何度か瞬きした。悪夢から目覚めたような感覚だった。
「ああ、目を覚ましましたか?」
一人の若い女性が、因幡の顔を覗き込んでいた。因幡は彼女の顔に安堵の色を見て取った。服装からして看護師だと分かった。
「すぐに先生を呼んできますね」
女性看護師はそう言ってぱたぱたと足音を立てて、部屋を飛び出していく。やがて、彼女は白衣を着た五十代くらいの男を伴って帰ってきた。
「目を覚まして本当に良かった。頭がまだぼんやりしているかな?」
医者と思わしき男は、因幡に微笑みかける。因幡は掠れた声を出した。
「俺は……」
「慌てないで。すぐに思い出さなくていい。一つずつ、ゆっくりと。ここは病院だよ。君は火事で煙を吸ってここへ運び込まれたんだ」
「火事――」
朧気だった頭の中が急速に鮮明になっていく。爆発。炎。転がる亡骸。黒煙。血。ばらばらになった記憶の要素が、強引に繋ぎ合わせられる。
「……ああ、そうだ。あのビルで、展望室で爆発が起きて――」
「そこまででいい。記憶ははっきりしているかな?」
医者は優しく問いかける。因幡は再び掘り起こした記憶の精査に専念した。
(そうだ、あの爆発に巻き込まれた俺は――?)
因幡はそこで掘り起こされた記憶の中に欠けている箇所があることに気づいた。まるで忌むべき対象として目を逸らすがごとく、意識しなかった存在の記憶。
「……天馬は?」
唯一無二の友――石動天馬の名を喉の奥から絞り出す。
「俺と一緒にいた男がいたはずだ。そいつは?」
医者は表情を曇らせた。ちらりと看護師へ視線を流す。彼女もまた何とも言えないような顔をしている。因幡はその顔に憐れみの色を感じた。
「……何か言ったらどうなんだ」
言葉だけは強く発すると、医者はゆっくり口を開いた。
「君と一緒にいた彼――石動天馬くんも、ここへ搬送されたよ。ただ、彼は……」
医者はどう説明したものか悩む。目の前の少年を興奮させたくない。ここでは回答を控えるべきだろうか?
そう判断に迷っている間に、因幡の関心は別の疑問へと移っていた。
「あいつは?」
「あいつ? 誰のことだい?」
「分からない。あの時、俺たちの前に現れた奴だ。あいつが天馬を銃で撃った。俺の目の前で。間違いなくこの目で見たのだ」
矢継ぎ早に言葉を吐き出す因幡を、医者は手で制した。
「まずは落ち着きなさい。君に訊きたいことはあるが、それは今じゃなくていい。話したいことはあるだろうが、後にしよう。詳しい話は改めて警察が訊きに来るだろうからね。今君に必要なのは休息だ」
両目を合わせて断定的に言われ、因幡の昂る感情は収まった。体も心も疲れ果てているのは事実だった。本当は今にも眠りに落ちそうなくらいだ。彼を現実に繋ぎ止めているのは不安だった。
「ならば、一つだけ答えてくれ。天馬は……どうなった?」
彼にとって一番必要なのは、それだけだった。
医者は深く息を吐いた。
「石動天馬くんは、昨夜息を引き取ったよ」
『朱里グランドシティビル爆破テロ事件』。後にそう呼ばれることになるその事件は、日本中を震撼させた。
大勢の人間が集まる商業ビルでの、複数の爆弾を用いた大規模な爆破。
現役の法務大臣が現場に居合わせたことによる政府の混乱。
そして、その最中に起きた、巻き込まれた未成年の一般客が拳銃で射殺されるという異様な事件。
年が明けて一月も経たない内に、恐怖と悲嘆が街を覆う。死者三十五名、重軽傷者多数。この事件は『双冥教事件』、『三山暁恒衆議院議員殺害事件』と並んで、ここ数年の三大犯罪として名を馳せるようになった。
因幡七曜は、その事件の生存者であった。




