覆面作家
降りしきる雨粒が、窓や壁に打ちつける音が奏でられる。
この日、雨は明け方から降り始めた。前の晩、《悠久の城》の一同が《森の囁き》を出た時にはまだ晴れていて、星がはっきり見えていた。その一時間後、徐々に雲がかかりはじめ、湿度を含む空気が流れ込み、就寝前に空は完全に雲に覆われていた。管理人のデリア・サイレムは星の消えた夜空を見上げ「大雨になるわね」と断言した。彼女の予測は的中した。
久住永遠は雨が降りだした頃に一度目を覚ました。ベッドから窓を見上げ、外に広がる霧がかった視界を目にし、今日は止みそうにないと思い、もう一度眠りについた。次に起きた時には、雨足はさらに強くなっていた。
「これは夜まで降りそうだね」
“守護者の家”の二階ラウンジで窓の外を眺めながら、陶山千紘が言った。星加天麗が退屈そうに答えた。
「折角授業が休みなのに、外出られないな」
「魔物の世話してる弦巻さんが大変そうだったね。加藤さんと猫田さんがさっき手伝いに行ってたよ」
千紘は三人の女子生徒が雨合羽に身を包み、牧場へ向かう姿を思い出した。
織田晴臣が言った。
「黛はトレーニングルームで鍛錬するって言ってたな。大嶽と若松も付き合うって」
「汗を流す気にはなれないなあ」
天麗はソファに身を沈め、だらけきった姿を晒した。それを見た水城杏樹が苦笑しながら言った。
「それなら読書でもしませんか? 今、図書室を使っている方が何人かいるようですよ」
天麗は姿勢はそのままに、視線だけ杏樹へ向ける。
「何か面白い蔵書でもあるのか? 《累月》が使っていた頃の本とか?」
千紘が首を振った。
「いや、昨日の探索で魔力資源を獲得できたから、『マーケット』で買い物をしている人がいるんだ。漫画本や小説を購入した人がいて、それを読んで暇を潰しているそうだよ」
晴臣は納得がいった。
「成程なあ。やっぱり他の皆もやることないんだな」
「じゃあ、折角だし行ってみるか」
永遠がそう言うと、全員が賛成した。
“守護者の家”の図書室は二階西側に位置している。ラウンジから西の廊下に入り、真っ直ぐ進めば入口が見えた。図書室に入ると、複数の生徒の姿が目に入る。いくつも並んだ長机の列にまばらに座り、静かに本を読んでいた。永遠はその中に帆足歩の姿を見つけた。
「なんだ。帆足もいたのか」
天麗が言った。歩は顔を上げると、微笑んだ。
「お、皆も来たんだ。やっぱ雨が降ってるとすることなくて暇?」
「まあな。小説読んでるのか?」
天麗は開かれた本を覗き込んだ。
「うん。日本にいた頃にも読んだことあるんだけど、こっちでもまた読みたくなったから買っちゃった」
歩は栞を挟んで本を一旦閉じると、表紙を見せた。曇り空の下に建つ不気味な洋館をバックに、《薔薇邸の子どもたち》とタイトルが印刷されていた。
「《薔薇邸の子どもたち》か。これ何年か前にドラマ化されたやつじゃなかったっけ?」
永遠が記憶を手繰りながら訊ねる。家族を亡くし、孤児院へと移り住んだ主人公の少女が数々の奇怪な事件に巻き込まれるというサスペンス作品だったはずだと、永遠はおぼろげながら思い出した。
杏樹が肯定した。
「はい、確か私たちが小学生の頃に放送されていましたね。私も家族と観ていましたよ。原作が小説とは聞いたことがありましたが、読んだことはありませんね」
「ボクは職業柄サスペンス作品は好きな方だから、全話欠かさず視聴していたよ」
観たという二人に対して、天麗と晴臣は首を横に振った。
「うちは母さんと妹が観てたけど、私は興味なかったからどんな話かも知らない」
「俺も観てないなあ。あんまり食指が湧かなくて」
永遠も同意の頷きを返す。永遠も簡単なあらすじは聞いたことがあるが、実際に観たことはなかった。彼の関心は専らゲームや漫画などのサブカルチャーに向いていたので、実写作品にはとんと疎かった。
永遠たちの背後から声がかけられたのは、そんな時だった。
「それはいかんな。あれを観ていないのは人生の損失といっても過言じゃない」
永遠たちが振り返ると、そこにはやけに得意げな表情をして立っている松永匠がいた。松永のすぐ近くにいた天麗が思わず声を上げた。
「うお! どこから湧いてきたんだお前」
松永は天麗を無視して語り出した。
「《薔薇邸の子どもたち》は、近年のドラマの中では評価がずば抜けて高い。脚本、演出、役者。どれをとっても一流どころが揃い、細部までこだわりのあるディテールが没入感を促す。原作小説に忠実なドラマ化である一方で、原作では描写されていない要素の補完も完璧だとして、原作読者から絶賛され――」
歩は苦笑した。
「たまに松永と話をするときあるんだけど、映像作品への熱意が凄いんだよね。ここでもそれ関連の本ばかり読んでるし」
「こいつ趣味のことになると早口になるタイプか」
宝田三雄とは異なるタイプのオタクなのだろうと、永遠は思った。
「とにかくだ。《薔薇邸》のドラマは是非観た方が良いぞ。孤児院を舞台とした子どもの人間関係や繊細な心の動きをテーマとしたサスペンスだが、その中でも子役の演技がいずれもトップクラスでな。子どもながらの幼稚な優越感、残酷さ、脆さを過不足なく表現して、作風の異質さを盛り立てているんだ。特に、主役の桐生慧を演じた吹雪ラムネは、この作品で一躍ブレイクしたんだ」
吹雪ラムネの名は、永遠も知っていた。数年前に時の人となった有名子役だ。
杏樹が言った。
「吹雪ラムネは一時期凄い人気でしたね。確か樹神グループや森重グループのCМにも出てましたよ」
「ああ、出てた出てた。憶えてるよ。他所の学園の初等部の広告にも出てたって、祖父ちゃんから聞いたことある」
晴臣も悠城学園の理事長たる祖父から聞かされた話を思い出した。
永遠は訊ねた。
「帆足もドラマに影響されて原作読み始めたのか?」
「いいや、僕は原作の方から入ったんだよね。その――父さんの書斎に原作小説があったから試しに読んでみたら凄いはまっちゃってさ。ドラマは後から観出したんだ」
「ふうん……」
永遠は歩が話す途中で不自然に詰まったことに気づいたが、それには言及しなかった。
歩は誤魔化すように笑った。
「君たちも何か読むなら遠慮なく祖父江に頼みなよ。客足が順調に伸びてて機嫌が良いから、ひょっとしたらサービスしてくれるかもね」
彼はそう言って、図書室の隅の椅子に腰かけている祖父江信宏へ視線を向けた。祖父江は『マーケット』の画面とのにらめっこに集中している。時折口の端が上がっていることが、彼の機嫌の良さを想像させた。
天麗は羨ましそうな顔で溜息を吐いた。
「祖父江商店は今日も繁盛してるな」
「スキルって使えば使うほど成長も早くなるから、祖父江のスキルもかなり伸びてるはずだよな」
晴臣も同感と言うような顔をした。
「間違いなくクラスの中でもトップクラスの成長度合いだろうね」
千紘の言葉に皆が頷いた。
永遠たちが近づくと、祖父江はその気配に気づき、画面から顔を上げた。
「何だ? お前たちも買い物か?」
「何か暇潰しになる本でも買おうという話になりまして」
祖父江は納得した顔つきになり、他に本を読んでいるクラスメイトたちを一瞥した。
「今日は本の購入が一段と多いな。今朝から初めてもう五十冊以上売れたぞ。その内八割は夏目の購入分だが」
入口に一番近い長机の上には、大量の本が積まれていた。夏目緑は本の山に挟まれるようにして、恍惚の笑みを浮かべている。
「ひふへぇ」
「夏目が奇声を発してる」
天麗が気色の悪いものを見るかのような目を向ける。
「たまにああなるんですよね。もう慣れましたけど」
杏樹は残念そうに首を振った。
緑ははっと正気を取り戻すと、居住まいを正して永遠たちへ向き直った。
「おっと、つい本の香りに耽溺してしまいました。何かご用ですか?」
「タイトル見た感じ、それ全部小説?」
晴臣の疑問に、緑は肯定した。
「そうです。日本にいた頃に読めなかった小説をこちらで読破することにしたんです。この前買えなかった本も昨日の収入で買うことができました!」
緑は本の山からいくつかの本を手に取り、横に並べる。永遠がタイトルを知っている本も知らない本もあった。
「おや、七海旬の作品もありますね」
杏樹はその内の一冊に目を留めた。表紙には「七海旬」の名があった。
「七海旬の作品はこの前も読んでたね?」
千紘は、以前『マーケット』の検証をしていた時に、緑が七海旬の著作を購入していたことを憶えていた。
「ええ、あれは今放送中のドラマとも繋がりのある新作ですね。今回買ったのは短編集です。読もうと思ってたけど、他の作品に浮気して手つかずじまいだったんです」
「七海旬の作品って最近物凄い勢いで売れてたよな。ドラマの《未だ見知らぬ春》もかなり力入れて制作したっていうし」
永遠は入学式の日の朝に観たワイドショーで、七海旬のドラマ化された作品の話題が取り上げられていたことを思い出した。《未だ見知らぬ春》はテレビでもネットの広告でも目にするタイトルだった。近未来の世界を舞台にした作品であり、小道具や特殊効果の演出に気合が入っていると評判だった。
「七海旬って名前はよく聞くけど、詳しいことは全然知らないんだよな。どういう作家なんだ?」
「分からない」
晴臣の質問に、千紘は簡潔に答えた。天麗が訝しそうに目を細める。
「分からないって?」
緑が言った。
「そのままの意味です。七海旬はメディアにも一切顔出ししていない覆面作家なんですよ。性別も年齢も出身地も、何一つとして判明していません」
「デビューしたのは四年ほど前だったはずだ。大手出版社の四神社と専属契約を交わして、鮮烈なデビューを飾ったと云われている」
「処女作は《霊峰に眠る時》で、ファンタジー小説界に衝撃を与えたことで騒がれたんですよ! 私も七海旬の作品の中で一番好きで、主人公のランダールをスキルで具現化するって真っ先に決めたくらいです!」
千紘と緑の説明を聴いていた一同は、感心したように息を漏らした。
杏樹が訊ねた。
「七海旬は四年で結構な量の本を出していましたよね。速筆なんでしょうか?」
「いや、七海旬の作品はデビュー前から何本も書き溜めていたらしくて、短期間で順次刊行されていったんだ。そして、そのどれもが大ヒットとなった」
文学には疎い晴臣は、初めて知る七海旬の異様さにただただ驚くしかなかった。
「はー、本当に凄いんだな」
天麗は疑わしそうに唸った。
「うーん、本当に誰も正体を知らないのか? 流石に誰一人知らないってことはないだろ」
「知っているのは四神社の上層部や担当編集者など極一部の人間に限られているみたいです。七海旬の正体に関しては様々な説が流れていますが、どれも憶測の息を出ません」
「例えば?」と永遠が訊くと、緑は指を折って例を挙げた。
「実は四神社の社長の隠し子だとか、実は物凄い美少女で顔出しするとファンが殺到するからだとか、実は顔に火傷の跡があるから晒したくないとか――ああ、実は死刑囚が獄中で執筆してるなんて説もありますね」
「緑さんはどう思っているんですか?」
杏樹が問うと、緑は考える仕草を見せた。
「そうですね……外見はさっぱりですが、内面なら予想できますよ。これでも数多の本を読破した身。作品から作者像を思い描ける自信はあります。私が思うに、七海旬は孤独な人間でしょうか」
「孤独な人間?」
永遠が不思議そうに目を丸くする。
緑は続けた。
「七海旬の作品を比較すると、共通してあるタイプのキャラクターが登場しているんです。恵まれているのに、孤独を抱えている人間。七海旬の作品では、こういったキャラクターの煩悶が度々描かれます。先ほど挙げた《霊峰に眠る時》の主人公ランダールもその一人です。彼は豪商の息子として生まれましたが、心の奥底には強烈な闘争心を秘めていて、武人として歩みたいと願っていました。しかし、家族や友人、婚約者など、周囲の人間から理解を得られずに、鬱屈とした日々を送るのです。自分の理念や信念が認められないことへの苛立ちと焦燥。突きつけられた現実へ彼らがどんな判断を下すのか。それもまた七海旬の作品の醍醐味です。私がこれまで作品を読んできた限りでは、この種類のキャラクターの造形に力が入っているように思えます。七海旬はそういうキャラクターにシンパシーを抱いているのではないでしょうか?」
孤独な人間。永遠はその言葉を聞いて、考え込んだ。自分は孤独を苦にしない人間だ。周囲と馴染もうとせず、それでいて社会生活を営む上で適切な距離は確保してきた。家庭環境も良好で、大きな悩みを抱えたこともない。だが、緑の考えが正しければ、七海旬はそんな生き方では満足できない人間だ。そのような性質の人間がどんな思考の下で生きているのか、永遠には想像もつかなかった。
「孤独な人間か。十分に考えられる話だね。人間は創作活動を通じて、自己の内面を発露する。特に小説は作者の知識、思想、信条が表れやすい。作品に共通項があるのなら、それが作者にとって重要な意味を持つ何かである可能性は高いだろう」
千紘がそう言うのと同時に、歩が静かに席を立った。彼は表情を隠すように俯いたまま足早に図書室を出ていく。永遠はその一連の動作を、視界の端にずっと捉えていた。
「それで? 皆さんも何か読みます? 私オススメの作品がいくつかあるんですよ。ファンタジー、恋愛、社会派、SF、時代物、ミステリ、なんでも紹介できますよ」
「そうだなあ。それじゃ……」
友人たちが緑に注文をつけるのを横目に、永遠の足は図書室の扉へと向かっていた。
「ごめん。俺少し用事思い出したから一旦離れるよ。後でまた来るから」
千紘はすべてを察したように微笑んだ。
「そうかい。なら早く行くといい」
永遠は無言で頷くと、図書室を出る。杏樹は永遠の背中をじっと見つめていた。彼女はしばし思案した後、千紘へ一度会釈してから、彼の後を追うように出ていった。




