第十話 真実
いつの世も、忙しなく街を行き交うスーツ姿の会社員は恒常的な風景だ。そして、男もまた、その日常の構成員の1人だった。貧富の差が激しい街の中でも比較的裕福な生まれで、幼少期からそれなりの学問を修め、それなりの企業に就職し、会社員として変わり映えはないものの幸福な毎日を送っていた。
その日もいつものように定時に仕事を切り上げた男は、書類の詰め込まれたバッグを肩にかけ、1人で淡々と帰路についていた。
今日もまた同じような日常が繰り返されるのだろうと、男は意識にも上らない心の奥底で漠然と思っていた。
しかし、男の平凡ながらも幸福な日常は、その日をもって崩壊することとなる。
男が誰もいない路地を歩いていると、突然後ろから腕を羽交い締めにされ、刺激臭のする布地を口元に強く当てがわれた。男は抵抗する間も無く、意識を失った。
目が覚めると、男は病院の手術室のような場所にいた。男の手足には拘束具がはめられており、身動きは取れない。無理に動こうと身体を捩ると、頭部に激しい痛みが走り、男はそのあまりの苦痛に顔を顰めた。
何が起きた?ここはどこだ?
男の疑問は尽きなかったが、状況を正しく認識する間も無く、白い防護服に身を包んだ男たちが彼を取り囲み始める。
そして、1人の男が注射器を片手にこちらに向かってくるのが見えたとき、男はこれからこの身に起こることを直感し、身体を強張らせた。
男の抵抗は、分厚い金属でできた拘束具に阻まれ、ほとんど意味をなさなかった。防護服の男は何も言わず、男の腕に注射針を差し込み、中の液体を注射する。
それから、どれくらい時間が経っただろうか。実際には、数分か、数十秒にも満たなかったのかもしれない。突然、身体が燃えるように熱くなり、体中に電流が流れるような激しい衝撃が走った。その感覚と痛みはとても耐え切れるものではなく、男は灼熱の炎に身を焼かれる感覚のまま、再び意識を手放した。
次に気がついた時、男は目の前に広がる光景に目を疑った。何が起こっているのか、しばらくは理解できなかった。理解したくても、脳がそれを拒絶する。それほどまでに、あの現場は、男にとって凄惨と言わざるを得ないものであった。
肌は爛れ、腹部からは膨張した内臓が飛び出し、身体中のありとあらゆる場所から血や体液を垂れ流して襲いかかる『何か』。
それらが、防護服の男たちに迎撃され、崩れ落ちていく。そして防護服の男たちの何人かが、その『何か』に取り込まれ、同じく化け物に成り果てていく。
まさに阿鼻叫喚というべき地獄の光景が繰り広げられる中で、1人の男が男に近づき、拘束具を外して言った。
「お前は選ばれし者だ。さあ、その腕をこの化け物たちに振え」と。
その瞬間、男は悟った。
目の前に転がるかつて人であったものは、自分が打たれた注射と同じものを打たれ、適合に失敗した成れの果てであることを。そして、自分は数少ない人体実験の成功者であることを。そして、その首謀者が他でもないPHGであるということに。
「私は一旦奴らに保護された後で、奴ら全員をこの手にかけた。あの忌々しい実験の被害者となった人間は皆、罪のない者たちばかりだったのだ。それを秘密裏に略奪、利用し、挙げ句の果てには化け物に変えた奴ら組織が、私には許せなかった……。そうして、私は残虐非道たる所業を行うPHGと、その元凶となった貴様ら変異者に対して復讐することを、この身に誓った。だが......」
「__そうして、死んでいった奴らのために、必死に剣を振るって……その結果、何が残った?」
全てを語り終えた男は、虚空に向かって自嘲めいた笑みを浮かべる。
「血濡れた己の両手だけだ。敵討ちだのなんだのと、ありもしない甘言を弄して、PHGと関わりのある者全てをこの手で葬り続けた。……私はただの人殺しだ。やっていることは、奴らとなんら変わりない。私の方がよほど化け物だ」
「……さぁ、これで満足か。……早く殺せ」
刀の先を自身の首元に当てがって、男は言う。
葛城はしばらく瞑目した後で、ゆっくりと目を開くと、無言で刀を振り上げ、それを勢いよく彼の前へと振り下ろした。
刀が土に食い込む鈍い音がする。その先端は、彼のすぐ真横の土を抉り取っていた。
「貴様!何を考えて__!」
「目を瞑って」
「なっ」
葛城は刀を抜いて、それを徐に男の眼前へと突き出す。
言われるがまま、男は目を閉じる。
「そのまま、動かないでいてください」
彼女は、刀の切っ先を彼の額に当てて、瞳まで切らぬよう、慎重に刃を頬まで下ろした。
「……自分を認めなさい。そして、相手も認めなさい。決してそこに、悪はないのだから」刃をゆっくりと男から離し、静かに、しかし芯の通った声で彼女は言った。
「あなたは、人殺しでも、変異者のなり損ないでもありません」
「なんだと!ふざけたことを……!」
この期に及んで、私を愚弄するか。男は奥歯を噛み締め、苦虫を噛み潰したような表情で葛城の顔を睨みつける。しかし、それも束の間、
「変異者のなり損ないで、人間を恨み続けた人殺しの貴方は、私が殺しました。今、ここで。……私のつけた頬の傷が、その証拠」
彼女の放った予想だにしない一言に、男は目を見開いて言葉を失った。
「犯した罪に縋って、己から逃げてはいけません」
彼女は血の流れ落ちる己の左手を見つめて、小さく握り拳をつくる。
「あなたはこれから、他ならない『あなた自身』と向き合って、生きなければなりません。それがあなたに課された使命。そして、死んでいった者たちにできる、唯一の贖罪」
それから、真っ直ぐに男の目を見据えて、葛城は刀を男の前に差し出した。
「これは、人を斬るためではなく、護るために使うものです。ゆえ……これからは、自分の、正しいと思う道に使いなさい」
地面に置かれた刀を呆然と見つめ、訴えるような眼差しを向ける男に、彼女は小さく頷き、口元を僅かに弛ませた。




